「わたしのカレシと何を話しているの? 渡辺さん」
 樹里が僕の肩に優しく手を置いた。なぜか気持ちがスーッと落ち着いてくる感じがする。
「大丈夫? 落ち着いて」
 樹里が少し屈んで、今まで聞いたことがないような優しい声で囁く。

「別に。石野さんと澤田君が本当に付き合っているか聞きたいだけよ」
 渡辺さんが挑むように言う。
「それが渡辺さんと何の関係があるのかしら?」
 樹里がゆっくりと渡辺さんの方を向いた。

「カレシなら石野さんが他の子のカレシを取らないようにしっかり見張っておいてと頼もうと思ったのよ。」
 僕より一回り小柄な渡辺さんが見上げるようにして、樹里を睨みつける。
「あら、人のカレシなんか取ったことないわよ。勝手に向こうが寄ってくるだけ。その子に魅力がないからカレシがわたしに寄ってくるんじゃないの?」
 樹里の言い方はそっけない。

「そうよね。石野さんは顔だけはいいですものねえ〜。性格は別にして」
 渡辺さんが嫌みたらしく『顔だけ』の部分を特に強調して言う。
「少なくとも渡辺さんにそんなこと言われる筋合いはないと思うんだけど。渡辺さんのカレシを取った記憶はないし。カレシもいなさそうだし」
 渡辺さんがなぜか紀夫の方を見たような気がした。
「うるさいわね。そんなこと関係ないわ。1年経っても相変わらず、同じことばっかりして。あなたにはみんなが迷惑しているって言ってるのよ」
 渡辺さんが噛みつきそうな顔で言った。せっかくの可愛い顔が台無しだ。

「相変わらずお節介ね。その性格だったらカレシは出来ないわね。1年前にも言ったけど、そのお節介をやめたら、少しはモテるんじゃない? 顔はそこそこいいんだから」
 樹里が馬鹿にしたように言う。
 そういえば、樹里と渡辺さんは2年生の時、同じクラスだったよな。
 それにしても渡辺さんは『カレシ』という言葉が出るたびに紀夫の方に視線が行っているような気がする。

「何ですって。性格のことを石野さんに言われたくないわよ」
 今にも掴み合いの喧嘩をしかねない顔付きをしている。
 2人の勢いに渡辺さんの取り巻きは完全に引いてしまって、このままじゃ本当に喧嘩になってしまうかもしれない。
 どうしたらいいんだ。
 紀夫と目が合ったが、紀夫は小さく両手を上げた。
 お手上げということか。
 僕のためにこんなことになってるんだ。
 なんとかしないと。
 でも、どうしたらいいんだ?

「僕と樹里はラブラブなんだから。他の人のカレシを取ったりするわけないよ」
 体が勝手に動く。
 僕は立ち上がると背伸びをして、素早く樹里の唇にキスをした。
 キスと言っても唇が触れるか触れないかのキスだ。
 でも、それは僕のファーストキスだった。

「きゃー」
 女子たちが悲鳴に似た声を上げる。
 渡辺さんはポカンと口を開けていた。
 樹里もビックリしたような表情で僕を見つめている。
「そ、それだけ仲がいいなら大丈夫よね」
 渡辺さんが何かぶつぶつ言いながら、僕と樹里から離れていった。取り巻きも無言で後について行く。

「時々、お前、想像できないようなことをするよな。クラブに行ってくるわ」
 僕の肩を叩き感心したように言って、紀夫は教室を出て行った。
 僕と樹里の周りには誰もいなくなった。
 まだ教室に残っていたクラスメイトは僕と樹里を見て、何か囁き合っている。

「帰ろう」
 樹里は何事もなかったかのように言うと、呆然としている僕の手を取って引っ張った。
 慌てて手を伸ばして鞄を掴むと、樹里に引っ張られていく。

 校門を出ると、樹里が引っ張るのをやめた。無言でしばらく並んで歩く。
「どうして、あんなことをしたの? 無理しちゃって」
 顔が火照ったままの僕を見た。
「なんとかしなくちゃと思ったら、体が勝手に動いたんだ」
 2人を止めなきゃという思いだけで、体が動いていた。思考は完全に停止していた。

「呆れた。わたしとそんなにキスしたかったの?」
 樹里は小馬鹿にしたように言う。
「ごめん。でも、樹里にとってはキスなんて挨拶なんだろう?」
 前にそんなことを言っていた。
「バカね。あれは頬や額へのキスのことよ。唇にキスをするのはよほど親しい人にだけよ」
 呆れたように言う。

「ウソ!!」
 なんという勘違いをしたんだ。顔から火が出そうだ。
「隆司はカレシだから別に平気だけど」
 樹里はなんでもないように言う。
「でも、僕はファーストキスだった……」
 僕はボソッと呟いた。
「なんか言った?」
 樹里には聞こえなかったらしい。
「なんでもない。じゃあー、また明日」
 ちょうど樹里のマンションの前だったので手を振ると、あまりの恥ずかしさに走って家に帰った。