しばらく待っていると、樹里が悠然と歩いてくるのが見えた。
「先生がしつこくてさ。行こう」
 樹里が先に立って歩き出す。
「何かあったの?」
 先生がそんなにしつこいというのはよほど重大なことだろう。

「進路のこと」
「進路?」
「そう。進路希望書を検討中って書いて出していたから、早く決めるようにずっと言われてたんだ。だけど、考えるのも面倒くさいから知らんふりをしていたら、呼び出されちゃって」
 それは呼び出されるはずだ。うちの高校は3年生の4月に進路希望書を出し、それに基づいて先生方は指導するようになっている。
 様々な理由でなかなか決められない人もいるが、どんなに遅くとも夏休み前には出すことにはなっている。
 10月も中旬を過ぎたこの時期まで出さない人がいるとは聞いたことがない。

「それで進路は決まったの?」
「ヒミツ」
 樹里は悪戯っぽい顔をした。
 うちの学校はほとんど進学するが、少数だが就職する人もいる。
 樹里はどうするんだろうか。
「隆司は大学行くんでしょう」
「学校推薦もらってて来月試験なんだ。もう時間がないから、朝早く起きて勉強しているんだよ」
「へえー、もうすぐじゃない」

 学校推薦入試は小論文と面接がある。
僕は小論文対策として、3日に一度小論文の課題を先生に出してもらい、書いた物を提出して添削してもらっている話をした。
「そうなんだ。頑張ってるんだ」
 だから樹里に振り回されている場合じゃないんだけど。

「それより、さっき窓から見ていたんだけど、1年生の子となんの話をしていたの」
 先生の話を聞きながら外を見ていたのか。やっぱり態度悪いな。
「別に大したことじゃないよ」
「言って。隠れてほかの女の子とコソコソされるのは嫌いなの」
 樹里の目が厳しく光った。
 別に、隠れてコソコソしていたつもりはないけど。

「樹里のことだよ」
「私のこと?」
 1年生の子が話してくれたことを樹里にも話した。
「ああ、そのことね。あの子にも言ったんだけど、覚えてないのよね。なんかそんなことしたような気もするんだけど……」
 樹里が首をかしげる。
 そうだろうな。半年以上前のことなんて覚えてないよな。
「樹里のことをすごく褒めていたよ。優しくていい人だって」
「そう。まっ、見る人が見ればちゃんとわかってもらえるのよね。わたしは誤解されやすいの」
 樹里の顔はどこか誇らしげだった。多分、誤解されやすいことをしてるからだと思うんだけど。

 樹里はチイちゃんと同じマンションの前まで来ると立ち止まった。
「部屋番号を教えるから一緒に来て」
 僕の手を取り、マンションの自動ドアの中に入って、操作盤の前に立った。
「このマンションは隆司も知っているようにオートロックだからこの操作盤に私の部屋の番号を入れて、この呼び出しボタンを押したらいいの」
 樹里が自分の部屋番号を押してみせた。小さな画面に部屋番号が表示されている。

「樹里はチイちゃんのことを知っているの?」
「知ってるわ。あの子、お母さんの目を盗んで、よく一人で外に出て行くみたいなのよ。わたしも2回くらいあの子を部屋まで連れて行ったわ。あのお母さん、シングルマザーらしいんだけど、もうちょっとチイちゃんのことを見ていないとそのうち大変なことになるわよ」
 樹里が顔を顰める。
「そうだね」
 僕は頷いた。

「それで、部屋番号覚えた?」
樹里が操作盤を指す。
「えっ、何が?」
 何を言っているのかわからない。
「何がじゃないわよ。なんのためにここへ連れてきてと思ってるの? 今、部屋番号を打ったでしょう? 見てなかったの?」
呆れたように僕を見る。
「ごめん。見てなかった」
 そうか。自分の部屋番号を教えるために引っ張ってきたのか。
「ハアー、もう一度押すからしっかり見てなさいよ」
 今度は樹里が押す番号をしっかり見て頭に叩き込んだ。
「覚えた?」
「大丈夫」
「明日からちゃんと迎えに来るのよ。じゃあね」
 樹里は操作盤に鍵を差し込むとそのままマンションの中に入っていた。
 部屋番号を忘れたらきっとグーパンチだろうな。
忘れないようにしないと。
 頭の中で何度も部屋番号を暗誦しながら帰った。