私には少し変わった日課がある。
きっかけは、ほんの数日前のこと。
七月某日。午前五時過ぎ。
何故だろう。目覚ましもセットしていないのに、スッキリと目が覚めてしまった。
二度寝をしようと再び目を瞑ってみたけれど、こんなときに限って、睡魔は相手をしてくれないようだった。
早起きは三文の得とも言うし、たまにはこんな休日も良いかなと思い、私はカーテンの隙間から外を覗いてみた。
外はすっかり明るくなっており、空は綺麗な夏色をしている。今日も暑くなるだろう。
突然、窓の外を誰かが通りかかった。
朝のジョギングだろう。何気なくその人に視線を向けると、私はその男性に釘付けになってしまった。
何故ならば、その人が自分の好みに、驚くほどにピッタリだったからだ。
その日は特に何も予定がなく、私はずっと、今朝見た彼のことを考えていた。
清潔感のある短髪は綺麗な黒髪だった。涼しげな目元が特に素敵だったと思う。綺麗すぎないけれど整った顔立ちというのだろうか。
一体、どこの人なのだろう。
勝手に性格を考えてみようか。
誰にでも優しい穏やかな人。
活発で努力家な体育会系。
普段はクールで、たまに見せる笑顔の破壊力が凄まじい年上キラー。
女子の誰もが憧れる王子様系。
どこまでも付いていきたくなる俺様系。
色々考え出すと止まらない。声は? 仕種は?
あれ? なんか、こんな事を考えている私って、もしかして気持ち悪い?
「彼氏なんて、いつか私の前にも現れる日がくるのかなぁ……」
早朝の静まり返った部屋に呟かれた声は、やけに大きく響いた気がした。
彼氏のいる友人たちは私に言う。
待っているだけでは何も始まらない。
面食いならば自分から動き出さなければ、誰かに先を越されてしまうよと。
「自分から動き出す、か」
仮に動き出すとして、どうしたら良いものかと考えてみる。
今朝の彼とどうやって知り合う?
自分もジョギングを始める?
それとも、新聞を取りに行くふりをして挨拶をしてみるとか?
でも、彼にはもう彼女が――?
「やーめた」
どうせ声なんかかける勇気なんて出ないし。
今までだって、遠くから見ているだけの片想いで満足していたではないか。
(一瞬で終わる恋なんて嫌だし。っていうか、まだあの人に恋をしたわけじゃないし)
そう自分に言い聞かせた。
そう、そうなのだ。
まだ恋に落ちたわけではないのだ。
好みのタイプの人を見かけただけの事。
まだ、恋なんて。
八月某日。午前五時過ぎ。
今朝も目覚ましより早く目が覚めた。
耳を澄ますと、あの人の足音が微かに聞こえてくる。
私はベッドから出ると、カーテンの隙間から外を覗いた。
涼しげな瞳をしたあの人が、今日も軽やかな足取りで通り過ぎていく。
彼の背中を見つめながら、私は今日も、静かに溜め息をついた。
*了*
背中まであったロングヘアを、とても短く切った。ああ、首がスースーする。背中も寒い。
切った理由は、ずっと片想いをしていた人に、彼女が出来てしまったからだ。
好きな相手に積極的に関わろうとしない私は、いつも片想いで終わってしまう。
またか、という感じ。
珍しくはないのだ。
悲しいけれど。
きっとまた素敵な人は現れる。
そしてまた恋に落ちる。
その人の姿をこの目に映すことが出来れば、それだけで幸せ。
そしてまた、その人は誰かの彼氏になってしまう。
そんな恋のループを、私は彷徨い続けている。
不思議と、このループから抜け出したいと思ったことはない。これがきっと、私の恋なのだと思う。
それがいつまで続くのかとか、この先の未来はどうなっているのだろうかとか、そんな事は、まだ考えたことはない。
「よし、髪も切ってさっぱりしたし、気分転換に散歩でもしてから帰ろうかな」
今日は素晴らしい快晴だ。風も穏やかで爽やかで、本当に気持ちの良い散歩日和だった。
見上げれば、真っ青な空と綺麗な若葉が視界を彩り、瞳を閉じれば、美しい鳥たちの歌声が聴こえる。
世の中はこんなにも穏やかだ。
私は大丈夫。
「失恋しても泣けないんだよなぁ」
しっかり落ち込んではいる。
失恋に慣れすぎてしまったのだろうか。それとも、まだ本気で恋をした事がないのか。
「本気の恋って……?」
漫画やドラマであるような、どんな障害をも吹き飛ばしていくような激しい恋が本気の恋?
でも現実でそんな恋なんてあり得るもの?
そんなに苦しんでまでする恋なんて――。
「あれ? 小野?」
突然声をかけられて、私は驚きながら振り返った。
「あ、杉元くん……!」
彼だ。
私の好きな人。
私が諦めなければならない相手。
「誰だか分かんなかった。へぇ、長いよりずっといいじゃん。似合ってるぜ」
そう言って、にっと笑うその笑顔が今はつらい。
諦めなければならないのに、その気持ちに反するように、私の胸は高鳴ってしまう。
「へぇ、髪型って大事なんだな。なりたい髪型より似合う髪型をした方がいいって事が、よーく分かったぜ」
「そ、そんなに似合うかな?」
「俺は凄く良いと思うぜ。驚いた」
そう返しながら、杉元くんが私の顔をじっと見る。
私はどこを見たらよいのか分からず、たぶん不自然に視線を泳がせていたと思う。
「小野って、結構……」
「え?」
彼の呟いた言葉が最後まで聞き取れたような、そうでなかったような――。
「じゃあな!」
そう言って彼は走り去っていく。
「……」
この恋は、やっとスタートしたのかもしれない。
*了*
昔この辺りはド田舎で、その道は裏道ではなく、住人たちが歩くメイン通りだった。
数年前から少しずつ家が増えていき、近くの林は大きな道路になってしまった。
メイン通りだったその道は、今では細い裏道になってしまっている。
「この町はまだ夜空が綺麗だね。星がよく見える」
遠距離恋愛の私たちは、懐かしい裏道を二人でゆっくりと歩いていく。プラネタリウムには劣るけれど、肉眼で冬の星座を見つける事が出来るほどの見事な星空だ。
「懐かしいね。昔もこんなふうに眺めたよなぁ。あの頃は、あいつらも居たけどさ。楽しかったよな」
彼の優しくて穏やかな声が、澄みきった空へと吸い込まれていく。
「うん。昔はもっと周りが暗くて、夏には天の川もしっかり見えたよね。今でも見えるの?」
「うん。まだ見える」
「そっか……」
「……明日になったら、また向こうに行くんだろう?」
その問いかけに、ふと、何となく聞いてみたくなった。最近は何も言ってくれないし。
「……寂しい?」
「あ、この時間のオリオン座って、あんな所にあるんだな。見つからないわけだ」
あ、逸らされた。
「寒いか?」
「別に。いっぱい着てるし」
そう返すと、子供の頃から道沿いに積まれたままになっている石段を上り始めた。上った先の広さは二畳ほどだろうか。
ここはほんの少しだけ空に近付いたような気持ちになるので、昔から私の大好きな場所だった。
「みんな都会に引っ越したり、早い奴は結婚しちまったり。たまに俺だけ置いてけぼりにされた気分になるんだよな」
隣に立って空を見上げる彼の声が、珍しく沈んだように聞こえた。
「……なんてな。心配したか?」
「急にどうしたの?」
「お前こそ、どうした? ……なんで聞くんだよ、そんな事」
彼が私に向き直る。月明かりに輝く瞳に見つめられると、少しだけ罪悪感を覚えた。
「寂しいに決まってるだろう。遠距離恋愛なんてするもんじゃないな」
その言葉に、穏やかに凪いでいた心が波立った。
それは、どういう意味?
「遠距離恋愛、つらい?」
「ああ、つらいよ」
彼はいつもの穏やかな調子で返した。それは一体、どんな気持ちで口にしたのだろうか。
「……やめたい?」
瞬間、この場の空気が不快に揺らいだ。
「……お前はどうなんだ?」
何それ。質問したのは私の方なのに。
「……そっちが嫌なら、まあ、……仕方がないと思うけど……」
耳も鼻も指先も、すでにかじかんで痛くなり始めていた。それでも私は、貴方とこうしていたいと思っているのに。
「あー、……いいか? つらいけど、この感情は追い出したくないもので、これからも大切にしていきたいと思ってる」
彼の言葉に、波立っていた気持ちが再び落ち着きを取り戻していく。
「……そっか……」
私はただ、うつむき気味でへへっと笑った。なんか、そんな反応しか出来なかった。
「何だよ、その笑い」
彼の人差し指が、優しく私の額を突く。
「べっつにー。じゃあ、明日のお見送りもよろしくね。もちろん、車で駅まで送ってね」
「かしこまりました。お嬢様」
顔を見合わせて小さく吹き出す。
石段を下りると、私たちは周りを気にする事もなく、当たり前のように手を繋いで歩き出した。
*了*
日もすっかり暮れてしまった、部活動の大会会場からの帰り道。
駅までの大通りを、仲の良い女子たちと歩いていた。
仲間たちとのお喋りはとても楽しいのだけれど、今の私は、心ここにあらず状態だった。
その理由は、私たちのほんの数メートル先を、片想い中の彼が歩いていたからだ。
「さっきの、絶対に友梨奈に言ったよね」
「え、三人に言ったんでしょ」
先ほど彼が私たちを追い抜いていったときの事。
〝お疲れ様です。また明日~〟
確かに目は合ったけれど、一つ後輩である彼は、私以外の二人にもちゃんと挨拶をしていったのだ。
これは私が彼をちゃんと見ていたのだから、絶対に間違いない。
「ふ~ん。でもなんかさ、歩くの遅くない? いつもの柊太だったら、もっと歩くの速いよね」
二人が私をにやにやと笑いながら見る。
確かに、先程から彼との距離があまり離れていかない気はしていた。
今年の大会は地元で行われたため、道に迷うことはないはずなのに。
私が彼の背中を見つめていると突然、隣を歩いていた茉莉が彼に向かって呼びかけた。
「柊太!」
すると、前を歩いていた彼が振り返った。
もうそれだけで、私の胸は落ち着きがなくなってしまう。
「今日は一人なんだね。駅まで一緒にどう?」
茉莉が叫ぶと、彼ははにかんだような笑顔でこう返した。
「え? いや、いいっすよ」
そしてまた、前を向いて歩き始めてしまった。
駅に着くまでの間、彼とは遠ざかったり近づいたりしながらも、私たちは一定の距離を保ったまま歩いていた。
そして駅に到着するとき、私たちは彼に追いついた。
「先輩、また明日っすね」
私が切符販売機の前に立ったとき、彼が私のすぐ隣に来て話しかけてくれた。
思わぬ出来事に、どきどきと鼓動が加速する。
彼は普段から電車通学で定期を持っているため、この駅からなら買う必要がない。
「うん、また明日だね」
改札を抜けると、彼は私たちとは逆方向に歩いていく。
その背中を見ていると、無性に追いかけていきたい衝動に駆られた。
「なんかさ、こういうのドラマみたくない? 好きな人を乗せた電車は、自分が乗る電車とは逆方向へ~ってやつ!」
恋愛ドラマが大好きな早紀が、少し興奮気味に私と彼を交互に見ながら言った。
「それ、あたしも思ったー!」
にやにやと笑っていた茉莉も早紀に同意を示した。
駅のホームまで歩いていくと、すでに向かい側のホームに着いていた彼が、笑顔でこちらに手を振ってきた。
「ほら! 柊太が手ぇ振ってるよ」
茉莉が私の腕をぐいぐいと押してくる。
「三人に振ってるんだよ」
そう言いつつ、私は彼に手を振り返した。
間もなくしてアナウンスが鳴り響き、電車が彼の居るホームへと滑り込んでくる。
彼はこちらに再び手を振ってから車内へと姿を消した。
そして数分後、私たちのホームにも電車が停車する。
私たちも車内へと足を向けた。
発車の音楽が流れて笛の音が響き渡る。
そしてほんの少し間があり、ゆっくりと扉が閉まった。
向かい側の電車を見つめる。
何故だろう、胸が苦しい。
また明日会えると分かっているのに、こんなにも胸が締めつけられるなんて――。
電車が徐々に加速していく。
普段電車に乗ることがないからだろうか。
遠ざかっていく彼を想って、更に胸が苦しくなった。
(ああ、もう、早く明日になれ!)
夜の街並みを瞳に映しながら、私は心に強く願った。
*了*
私には、物心が付き始めた頃からずっと一緒にいる、悠という男の子がいた。
「ごちそうさま~。しっかし、まさか高校までお前と一緒だとは思わなかったよな」
私の自宅のダイニングルームでお茶を飲みながら悠が言った。
「そうだね。私もびっくりしたよ」
今日は私たちの母親二人が出かけてしまったため、お昼は私が用意するはめになってしまった。
こういう事は珍しくはないのだけれど、最近になって、ふと考えることがある。
私たちって、いつまでこうして一緒に過ごすのだろう。
今はこうやってお互いの家に気軽に出入りをするような仲だけれど、いつかはしなくなってしまう日が来るのだろうか。
そんなの、私は――。
私は食器を片づけるために立ち上がった。
「あ、俺も手伝うからよ」
そう言って、悠も食器に手を伸ばした。
「あ、いいよ。二人分しかないし、ゆっくり座っててよ」
「いや、やる。食うだけじゃ悪いしな」
彼が食器を持ってキッチンへと歩いていく。
「洗っちまおうぜ。二人でやれば早いだろ。俺が洗うから、お前は拭いてくれよ」
「うん、ありがとう」
これも、特別に珍しい事ではなかった。
たまにこうして、後片づけを手伝ってくれる事がある。
彼は皿洗いを始めると、自分の手元を見たまま口を開いた。
「なあ、俺たちって、何なんだろうな」
「え? お、幼馴染……」
彼の突然の言葉に、私は少し戸惑いぎみで返した。
「お前の中では、俺はただの幼馴染ってだけか?」
「ど、どうしたの? 急にそんなこと聞くなんて」
悠が手に付いた泡を洗い流すと、水を止めてこちらに向き直った。
私を映した彼の瞳はとても真剣で、私もつられて彼に向き直る。
「いつか、話そうと思ってた事がある」
「何?」
彼は私から少し目をそらして考えるような表情をしてから、再び私を見据えて言った。
「俺たち……、いつまで一緒に居るんだ?」
穏やかだけれど硬い声。
「え……」
それは私が時々思っていた事。
まさか、自分が答える側になるとは思ってもみなかった。
「どちらかが、離れたくなるまで……かな?」
「じゃあ、俺たちがこの先ずっと、離れたいと思わなかったら?」
「っ……それは……」
答えを探そうと、私の視線が彼からそれる。
すると悠が私の両腕を優しく引いた。
一歩、私の足が彼へと近付く。
「悠……?」
視線を戻すと、目の前には彼の真摯な眼差しがあった。
一瞬にして私の顔に熱が集まる。
鼓動が乱れて、どうしたらいいのか分からなくなった。
「つ……、」
「つ?」
私が悠に訊き返す。
「つ、付き合わないか? 俺たち……」
「っ……!?」
聞き間違いかと、私は軽く目を見開き、彼の顔を凝視してしまった。
彼の視線が私から床へとすべる。
「……」
「……なんとか言えよ」
その声は、静かな部屋に優しく響いた。
「え、あ……、」
私が答えられずにいると、悠は掴んでいた私の腕を自分の方へと引き寄せた。
そしてそのまま、彼の腕が私の背中へとまわされる。
力強く引っ張られたわけではないのに、私の足は彼の方へと動いていた。
「言葉が難しいなら態度で示してくれよ。嫌なら、俺をこの家から今すぐに追い出してくれ」
耳元で空気が震える。
その声音からは、もう後戻りは出来ないだろうという不安が、痛いほどに伝わってきた。
「……ちゃんと言葉で伝えるよ。私、悠と居るときが一番楽しい。だから、これからも一緒に居たい」
私も彼の背中に腕をまわした。
すると次の瞬間、今度は強い力で体を引き離された。
それでも掴まれた腕は私から離れない。
「サンキューな」
悠が私を見つめる。
彼の澄んだ瞳がゆっくりと近付いてくるのを感じ、私は高鳴る鼓動を抑えられないまま瞳を閉じた。
*了*
私は、親友が片想いをしている相手に恋に落ちてしまった。
それでも彼女から彼を奪うつもりは微塵もない。
彼女に頼まれて彼から色々と聞き出しているうちに、いつしか彼に惹かれ、心がコントロール出来なくなってしまっていた。
ある日、彼女は心を決めて私に言った。
「あたし、告白する!」
私は一瞬、耳を疑ってしまう。
「え……?」
そうか、ついに彼女は決めてしまったのか。
私は意味もなく、ティースプーンをつまんで紅茶を軽くかき混ぜた。同時にカツンと小さく鳴る。
「そうか、ついに告白するんだね。想いが伝わるといいね」
今、ちゃんと笑えているだろうか。胸が苦しくて、彼女と視線を合わせられない。
でも、彼女が彼の相手になるのなら、私はきっと諦められる。
だって、彼女は私の大切な親友だから。
私は本当に彼女が大好きだから。
その時、喫茶店のドアが開く音がした。誰かがこちらへ歩いてくる。
「こんにちは。窓から見えたから、入ってきちゃったよ」
え――……
彼だ。
「あ! こんにちは。偶然ですね!」
彼女はとても嬉しそうに彼に返事をした。
「こんにちは……!」
どうして、ここに……?
まさかこんな所で彼と出くわすとは、一体誰が予想できただろうか。
「よかった。君に伝えたい事があったんだよ」
「私……?」
彼が見ているのは、私だった。
「少しだけ、彼女を借りてもいい? 本当にすぐに戻るから」
そんな彼の言葉に、彼女の表情が一瞬だけ陰ったのを私は見逃さなかった。
「ええ、どうぞ」
「え、でも……」
私はどうしたら良いのか分からなくなる。
「じゃあ、ちょっとだけ」
彼が私の腕を掴みながらそう言うと、少し離れた席まで歩き出した。
力強い大きな手の感覚に、胸がどきりと高鳴ってしまう。
「ちょっとだけここの席を借りよう。さあ、座って」
「あ、はい……」
私が椅子に腰を下ろすと、彼はすぐに口を開いた。
「最近、会ってなかったね」
「そうですね。ちょっと、忙しかったので……」
「そうだったんだね。今日、君に会えて嬉しいよ」
「え? あ、ありがとうございます」
「ずっと君に会いたかったんだ」
その言葉に、私はちらりと彼を見た。
目の前には、彼の真剣な眼差しが私に向けられている。
先程から落ち着かない鼓動が、更に加速を始めた気がした。
ずっと会いたかった?
私に?
「君と色々な話をしていくうちに、君を好きになった。僕と、付き合って欲しい」
「私は――」
〝私もあなたのことが好きです〟
その言葉は、呑み込んだ。
*了*
慌ただしい足音がこちらへ近付いてくる。
間もなくしてその足音は、この教室に入り込んでとまった。
「よかった、まだ居た」
真っ赤な夕陽に染まる教室の中で、彼の声が小さく響いた。
「週番、お疲れ様」
私が言うと、彼はゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。
窓際にいる私に近付くと、彼の髪も瞳も夕陽の赤に染まった。綺麗だ。
「実香」
「先生、明日はやっと卒業式だね」
「そうだね。おめでとう」
「嬉しい。これで堂々と一緒にいられるようになるんだよね」
私は彼に向かって控えめに手を伸ばしながら言った。
目の前のこの人が愛おしくて、触れたくて堪らない。
そんな私に応えるように、彼が私をゆっくりと抱き寄せた。
「先生、誰かに見つからない?」
心配になって、私は彼から離れようとする。
「この教室は大丈夫。外からはちょうど見えないからね。もっと早くから知っていれば良かったんだけどな」
「そうだね」
「でも、これ以上は駄目だよ。君はまだ未成年なんだから」
そう言って、彼は私の頭を優しく撫でた。
この優しい手が私は大好きだ。だって、とても心が安まるから。どんな不安も吹き飛んでしまうくらい安心する。
彼にぴったりとくっついて身を委ねていると、下校時刻を告げるチャイムが鳴った。
「まだ離れたくない……」
「またそういうことを言うんだから。今日までは我慢だよ。もう帰りなさい」
優しい声が耳元で響いた。これも心地良くて大好き。
「うん、わかった」
「また明日ね。気を付けて帰るんだよ」
私たちはゆっくりと体を離す。視線が重なると二人で微笑みあった。
「先生さようなら。また明日ね」
私が荷物をつかんで歩き出そうとしたとき、彼が私の腕をつかんで引き留めた。
「何? 先生」
「このくらいなら、いいかな」
カーテンが風に煽られて緩やかに動いた。私たちの髪も穏やかに揺れる。
瞬間、彼の顔が近付いて、唇を軽くふさがれた。
「先生……」
「我慢できなかった」
真っ赤な夕陽に照らされた彼のはにかんだ笑顔に、私の胸は例えようのない想いで一杯になる。
「あーもー! 先生のバカ!」
私は再び、彼の胸へ飛び込んだ。
彼はそんな私をしっかりと受けとめてくれる。
「ごめんごめん。さあ、下校時刻だよ」
そう言いながらも、彼は私を抱きしめたまま、優しく頭を撫でてくれていた。
「先生、大好き……」
「僕も実香が大好きだよ」
そしてもう一度、私たちはゆっくりと体を離す。
「今度こそ、また明日ね」
「はい、また明日。さようなら」
私は荷物を持ち直すと、真っ赤に染め上げられた秘密の空間から外へ出た。
後ろ髪を引かれる思いで廊下を歩きだす。
出逢った日から今日までずっと、他の先生や生徒に見つからないように逢瀬を重ねてきた。
明日、私はやっとこの学校を卒業する。
これからは人目を気にすることなく、先生と自由に会うことが出来るのだ。
私は何だか体が軽くなったような気がして、全速力で昇降口へと走り出していた。
*了*