♪樋口翔太

「風車に絡まった糸は、もうほどけない」

ただの羽毛布団がとてつもなく重く感じられる。気分の重さに比例してるのかは分からないけど、さっきよりもずっしりしてる気がする。不安だ。
風も音も何も感じられない。目に映るのは今のところ茶色っぽいカーテンとポツポツ穴のあいた天井だけだった。その天井の穴を星に見立てて適当に線で繋げて、星座を作ってみたりしたけど五分くらいで飽きた。やっぱり星座は見るものだ。翼さんたちはまだ話してるのかな。
相変わらず、どうして暇な時に限って時間の進むのが遅く感じるんだろう。いや、暇というか、暇じゃないけど。カーテンを開けるのもいいけど、まだ話してたりしてたらなんとなく気まずいし、かと言って病室から出られるわけでもないからじっとしてるだけなんだけど。
本当にやることが無いと思い始めて、いっそ昼寝でもしてしまおうかと思った時、カーテンの端が揺れて、病室の扉の方に少し光が差した。誰かが出ていったのか入ってきたのか分からないけど、影が動いてたりはしてないから、多分翼さんとの話が終わって医者と看護師が出ていったみたいだった。それでも僕はカーテンを開けなかった。
結局、聞きたいことは山ほどあったけどとりあえず今、僕からは何もしない事にした。ひょんな事から傷つけたりしてしまうのも嫌だし、もしかしたらいらない心配だったかもしれないし。どっちにしろ、現時点で僕から行動を起こす意味は無かった。
そんなぐだぐだした考えの中、この狭いベッドの上の空間でフル回転一歩手前の頭を休ませようと目を閉じた。
いつの間にか閉じていた瞳を開いた。窓から差してきているオレンジ色がカーテンに塗りつけられていた。昼間みたいなはっきりした明るさは、もう無かった。
そっとカーテンを開けてみた。瞬間、翼さんはこっちを見た。泣いていた。状況が飲み込めなかった。カーテンを開けたことをちょっとだけ後悔した。
ルーズリーフを取り出して、いつもよりかはちょっと太いペンで書いた。
「どうしたの?大丈夫?」
翼さんも同じようにちょっと太めの文字で見えやすいように言葉を返してくれた。
「私、死ぬみたい」
「」
それ以上何も書けなかった。手が震えた。もしかしたらそうかもしれないと、そんな時が来るかもしれないと思ってはいた。思ってはいたけど、いざ本当にそんな時が来てみるとやっぱり駄目だ。頭をグーで殴られた様な衝撃が走った。
「どういうこと?」
震える文字でやっと繋いだ言葉。
「そのまんまの意味だよ。拡張型心筋症って名前の病気らしい」
「聞いたことある」
「治すには二つ方法があるんだけど」
「手術で治せるの?」
「心臓移植かバチスタ手術っていうのをする必要があるんだって」
「心臓移植?そんなにまずい病気なの?」
「そうらしいね」
「主治医ってなんて名前の先生?」
「長峰先生って人」
「その先生、今呼べる?」
「どうだろう、忙しそうではなかったけど」
「分かった」
僕はナースコールを押して、看護師さんを呼んだ。すぐにいつものノートを持った人が来る。
「どうしたの樋口君」
「長峰先生って人、今お時間大丈夫でしょうか?」
「え、長峰先生?」
「はい、ちょっと用事ができてしまって

「用事って何?小さいことならあとにしてほしいんだけど」
「そこにいる彼女のことです」
「あぁ、じゃ呼んでくるね。ちょっと待ってて」
ノートの最後の行を読み終わるか終わらないかくらいで看護師さんは部屋を出ていってしまった。
長峰先生を連れて戻ってきた看護師さんは、肩を上下させて少し息を切らしているように見えた。僕なんかのそこまで急ぎでもない話のために走ってくれたと思うと、申し訳ない気がした。
長峰先生も僕のことは知っているらしく、看護師さんからノートとペンを受け取ってスラスラと書き始めた。「医者の書く文字は象形文字」と誰かが言っていたが、長峰先生の字は綺麗だった。
「君は、樋口翔太君だね。何か用かい」
「はい、樋口です。そこにいる翼さんの事でお話が」
「高橋さんの事か、あまり触れない方が賢明だと思うが」
「心臓移植かバチスタ手術しか助かる方法が無いんですよね?」
長峰先生の顔が一瞬曇った。多分、どうして知っているんだとかいった様なことを思っているのだろう。でも僕は本人から聞いた。間違いはない。先生は一瞬ペンを走らせるのを躊躇った様だったが、さっきみたいにスラスラ書き始めた。
「正直に言うと、確かにそうだ。高橋さんの生き延びる道はそれしか無い」
「だったら僕の心臓を移植してください」
「何を言っているんだ。そんなこと出来るはずが無いだろう。」
「僕は死んでも構いませんから…お願いします」
「いいや、無理だ。自分が今何を言っているのか分かっているかは知らないが、私の前でそんなことは二度と言わないでくれ」
「すみません、さすがに非常識でした」
「分かってくれればそれでいいが、くれぐれも変なことは考えないでほしい。一度頭を冷やして、それから彼女と話してみたらどうだい」
そこで筆談用のノートは閉じられ、看護師さんの手元に戻された。立ち上がった先生は、薬みたいな匂いだけを残してゆっくりと病室を出ていった。
僕達のやり取りを見ていなかった翼さんは不思議そうな顔をしていた。
「何、話してたの?」
「いや、翼さんの病気のことについてちょっと」
「さっき説明したじゃん」
「うん、まぁそうなんだけど」
「なんかさ、普通に年取って、普通に結婚して、普通に子どもができて、普通に孫ができて、普通に一人になって、普通に死んでいく人生を送ると思ってたのに。案外早い幕引きだったなぁって」
「え?」
「だってさ、移植にしろバチスタにしろ、拒絶反応でも起きればアウトだし、成功しなければそのままアウトだし」
アウトなんて柔らかい言葉を使ってても結局は死ぬことを言っているんだから、翼さんは生きることを諦めてしまっているのかもしれない。それは僕が許さない。太宰治が本の中で「人には生きる権利があると同時に死ぬ権利もある」とかいった様なこと書いていたけど、それは絶対に間違いだ。
「やめてよ。そんな事言わないで」
「選ぶ権利は私にあって、まだ決断はできてない。それだけ」
 死を選ぶなんて、どう考えてもおかしいのに。正当化できるはずがないのに、論破された気がして次の言葉を繋げなかった自分が嫌だった。
長峰先生が言ったことの意味。よく考えれば分かったはずだった。僕の命と、翼さんの命を勝手に天秤に乗せた挙句に、僕は自分の命の方を軽く見た。命の乗った天秤は傾いちゃいけなかったのに。そもそも、天秤の上に命を載せること自体、間違ってたっていうのに。
僕はとても浅はかで、馬鹿だった。
愛する人を救うために自分が死んで、彼女が喜ぶはずがないことも、やっぱり気づくべきだった。
大切な何かを失って、それでも生きていく事の美しさを知るべきだった。知って、彼女にも教えてあげるべきだった。
何もかもがもう手遅れで、今僕ら二人が病室にいる。
結局翼さんには死なないでほしいって事しか今は言えない。病気に侵されて、その結果死ぬのならまだ認めることも出来るけど、翼さん自身が死を選んで、それに向かって歩みを進めていくのであれば、僕はそれを止めなきゃならない。
「翼さん、君は生きる希望を無くしたの?」
「違うよ。もう、疲れただけ」
「疲れた?一体何に?」
「それ言わせるの?人生にだよ」
「なんでそんな事言うの?」
「だって、必死に生きてきてまだまだ未来があるって思ってた途端これだもん。嫌にもなるよ」
「そっか、疲れちゃったのか」
「なんで一人で自己完結してるの。私の事なんか知りもしないで」
「確かに翼さんのことはあまり知らないよ。知りたいと思ってるよ」
「これから死ぬかもって人のこと知ってどうすんの」
「好きだから、死んでほしくないからってこと以外に理由が必要?」
「」
「どうやら他に理由は要らないみたいね」
「」
「好きだよ。だから疲れたとか言わないで」
「うん、ごめん。私も大好き」
そこで僕は重なったルーズリーフを揃えて、机の隅にペンと一緒に置いた。さっきまでの自己嫌悪は、いつの間にか消えていた。