「いざなぎ旅館」という名前を聞いて、私は我に返った。この人、これから以降としている旅館の関係者なのか。嘆息しながら歩き出そうとする男性に、慌てて頭を下げた。

「た、助けていただいてありがとうございました。えっと、私、従業員募集のチラシを見て参りました藤原静姫と申します」

 この人が人間だったら当然の礼儀だし、あやかしだったら怒らせてはいけない。

 すると男性はちらりとこちらに顔をねじ曲げた。

「聞いてる。ま、俺は大旦那に言われて迎えに来ただけだしな。俺は葉室法水。『いざなぎ旅館』の従業員だ」

 温泉旅館の従業員を名乗るには横柄すぎないだろうか。私はあまり人にレッテルを貼ったりするのは好きではないのだけど、あまりにもつっけんどんすぎる。

 ふたりで黙ってしばらく歩く。思ったよりも走り回ってしまったようだ。葉室さんがいなければ、また迷子になっていただろう。

 隣で歩きながら葉室さんの顔を見上げる。きれいな顔だなと思った。肌のきめが細かいし、男性なのに石けんの香りがほのかにしている。降るような星空の下の美青年。どこかおとぎ話めいていて、本当にこの人が人間なのか、また分からなくなってきた。

「あの、『いざなぎ旅館』は、ここから近いんですか」

 美青年との沈黙に耐えきれず、話しかけてみる。就活で培った笑顔を添えて。

「ああ」

 ……ん? それでおしまい?

「あの、葉室さんは、『いざなぎ旅館』は長いんですか」

「………………」

 今度は答えがなかった。

「さっき、あなたの肩の辺りが光って見えたのですけど――」

「………………」

 やっぱり答えがない。悪い人ではないかもしれないけど、とっつきにくい人であることはたしかだと思った。

 向こうから別の光がアスファルトを動いている。あれは懐中電灯の光だ。それを見たときに、葉室さんの全身をうっすらと覆っていた光が消えた。

「善治郎さん!」と、葉室さんが海中電灯に声をかけた。光が私たちを探すように少し揺らめき、こちらに向けて近づいてきた。

「ああ、葉室くん。よかったよかった。どこ行っちゃったかと思って心配したよ」

 いかにも人の好さそうなおじいさんの声だった。「従業員志望者、連れてきましたよ」

「ああ、そりゃあ、よかった」
と、おじいさんの声が海中電灯で下から自分の顔を照らした。

「ひっ!?」

べただったけど、びっくりしてしまった。

「はっはっは。驚かせちまったかな。どうも、初めまして。石守善治郎と申します。一応、番頭ってことになってるけど、そんな偉かねえからさ。みんな、〝善治郎さん、善治郎さん〟って呼ぶから、あなたもそれでいいよ。緊張しなくていいから」

 細身の、しわだらけの顔をした善治郎さんは、おどけたように言った。死んだおじいちゃんのやさしい笑顔をちょっと思い出す。だけど、私を笑わせようとして、顔をライトで照らすのはやめていただきたかった。

「石守さん……」

どこかで聞いたことがあるような気がして、私は慌ててチラシを取り出し、スマートフォンのライトで照らす。「採用担当・石守」とあった。

「ははっ。それ、俺が作ったチラシだ。結構うまいもんだろ」
と、のぞき込んだ善治郎さんが笑っている。

「え、ええ……」

 デザイン的にいろいろ言いたかったけど、見たところ七十歳過ぎのおじいさんが作ったのだとしたら大したものだ。私は考えを改めた。

「烏天狗に追っかけられててさ」と、葉室さんが面倒くさそうに言う。「おまけに、こいつとろくて」

 こいつというのは私のことだ。息するように嫌味をいう方ですね……。
とはいえ、烏天狗に追いかけられるとかって、大変な出来事だと思うんですけど。

 そして、なんでおふたりはそれを普通に話しているの?

「あれ。ほんとかい。怖かったろう。ときどき悪さする奴が出るんだよなぁ」
と、田舎のおじいさんのしゃべり方そのままで善治郎さんが目を丸くした。

「え、ええ……」

 やさしそうなおじいさんだと思ったけど、違った。善治郎さん、葉室さんの言葉を、まるで世間話のように受け流している。つまり、この人もあやかしが見えたりする人。それも、烏天狗に追っかけられる状況にもまるで動じないくらいの人だということだ。

「で、烏天狗はどっち行った」

「あっち」と葉室さんが顎で指すと、善治郎さんはこれまで顔を照らしていた海中電灯を下ろした。

「葉室くん、このお嬢さんのこと頼むな」

「俺が独鈷杵で殴りつけたから、しばらくはおとなしくしていると思うけど」

「これからこのお嬢さんもいるんだし、仲間がいたりしたらいまのうちにぜんぶまとめて面倒見てきてやるよ」

「ま、それが合理的でしょうね」

「じゃあ、ちょっと行ってくっから。そのお嬢さんのこと、頼むね」

 そう言うと善治郎さんはひょこひょこと歩いて行ってしまった。

「あの、さっきのおじいさん」

「善治郎さん」葉室さんに訂正された。

「その、善治郎さんは、大丈夫なんですか」

 普通に考えて、細身のおじいさんが筋骨隆々とした烏天狗をどうこうできるとは思えない。それどころか、夜道で転んだりしたら、それだけで骨を折ったりすることもあるだろう。それくらい善治郎さんはか弱そうにみえた。

 すると、葉室さんは、そんなばかばかしいことを聞くなと言わんばかりの態度で教えてくれた。

「大丈夫だよ。あの人は〝鬼〟だから」

「オニ……」

 どういうことだろう。善治郎さん、ああ見えて怒ると怖いのだろうか。一見穏やかな人ほど、切れると怖いって言うし……。

 私の表情を見てなぜか葉室さんはため息をついた。

「お前、本当になにも分かってないんだな。あのチラシを見てきたっていうからどんな奴かとちょっとは期待したのだけど、とんだ期待外れだ」

 残念な子を見る表情で葉室さんが私を見ている。一体なんで私はここまでディスられねばならないのだろう。私はむっとして反論する。

「どういう意味ですか」

 葉室さんは私を無視して歩き出した。ちょっとそれはないんじゃないの?
さらに私が文句を言おうとしたが、葉室さんに遮られた。

「ほら、早くしろ。大旦那が待ってるから」

 葉室さんの背中が闇に消えては困る。私は慌ててあとを追った。スマートフォンのライトはもうすぐ充電切れになりそうだった。