ノックをして病室に入ると、昨日と同じように窓辺に立っていた静佳ちゃんは、私だとわかるとすぐに背を向けてしまった。

久しぶりの雨が朝から降っていた。冷たい言葉を覚悟してきたのに、私と話をする気はないらしく静佳ちゃんは黙ったまま雨を見ている。でも、追い出されないだけマシだろう。

「昨日はごめんなさい」

頭を下げて謝る私に反応はない。ただ雨の音が小さく聞こえる病室で、そのままの姿勢で靴の先を見る。

「静佳ちゃんの言うとおりです。私は、あなたを利用しようとしていました」

空気が動く気配に顔を上げると、静佳ちゃんは顔を少しだけこちらに向けていた。

「認めるってことですか?」

話をしてくれたことにホッとしたけれど、表情は硬いままで冷たさを浮かべている。心が痛むけれど、まずはちゃんと伝えなくちゃ。

「声が聴こえたのは本当です。理由を聞いて解決しようとしたのもウソじゃありません。そこに静佳ちゃんを助けたい、という思いがあったかどうかと言うと……正直わかりません」

「そうですか」

他人行儀な返しをした静佳ちゃんは、昨日と同じくベッドに座った。表情を見ながら話をしたくて、窓辺まで進む。

静佳ちゃんのメガネ越しの目には、まだ拒絶があるように見える。目の前の感情にピントを合わせなくてはと自分を律すると、強気に思えた彼女の瞳が不安に揺れているように思えた。

あの夜泣いていた、静佳ちゃんの声と重なる。

「ちゃんと考えます。静佳ちゃんの全部を理解できるかはわからないけれど、少しでも寄り添えるように改めます」

ひょっとしたら、助けてあげようというおこがましさがあったのかもしれない。多感な年頃の静佳ちゃんは、すぐに気づいて心を閉ざしたんだ……。

「もう一度チャンスをください」

重ねて口にする私に、

「誰かのために必死ですね」

と、シーツをなでながら静佳ちゃんは静かに言葉を落とした。

「違います」

「違わないよ。きれいごとを並べても、やり遂げたなら楽しい日々が待っているんでしょう?」

なんて表せばいいのだろう。

楽しい日々のイメージなんてもう遠くにかすれている今、私はなんのために走り回っているのだろう?

こんなに毎日が悲しくて、だけど必死になるしかなくて……。

悲しみに膨れてゆく心に負けるように、私はその場にしゃがんでいた。

「楽しい日々なんて、もう……ないんです」

「え?」

いぶかしげな声に涙が出ないように肩で大きく息をついても、どんどん視界がぼやけていく。泣き落としなんて使いたくないのに、悲しみが波のように私を包んで離してくれない。

「私はこれまでずっと『毎日が楽しくない』って思っていたのかもしれません」

自分で口にして改めて、そうだったんだと気づかされた。

「だけどある日、大切な人を失ったんです。昨日までいたのに消えてしまった存在に、今も海の底にいるみたいなんです。失ってからわかったことは、その人が自分にとってあまりにも大きかったこと……」

言葉を区切って声が震えないように、何度も深呼吸をした。黙って私を見つめている静佳ちゃんに言葉を続けた。

「楽しくなかったはずの毎日は、今になって思えば幸せだった。それは、その人がいたからこそだったんです。だけど、もういない。その人がいない毎日は……もう二度と楽しくなることはないんです」

ポロポロとこぼれる涙で静佳ちゃんの顔がぼやけている。だけど、ちゃんと伝えたかった。

「ここへきたのも、初めはその人のためと思ってきました。静佳ちゃんのことなんて考えていませんでした。本当にごめんなさい」

心から頭を下げる私に、静佳ちゃんはしばらく無言のままだったけれど、やがて、

「そっか」

と、つぶやくほどの小声が聞こえた。

「静佳ちゃんの気持ちも考えずに、自己満足で失礼なことをしてしまって……」

最後は言葉にならずに嗚咽が漏れてしまう私に、

「同じだ」

そう、静佳ちゃんは口にした。

顔を上げると、唇をギュッとかんでいる静佳ちゃんはなにか考え込んでいるよう。やがて、ゆるゆると首を振ってから彼女は言う。

「私も茉奈果さんと似ているかもしれない。悲しくて、どうしていいかわからないの」

不安気に口にした静佳ちゃんを助けたい。おこがましい考えだとしても、目の前の彼女の悩みを少しでも聴きたい、そう思った。

「お願いします。私に、静佳ちゃんの心のなかを少しでも聴かせてください」

チラッと私を見た静佳ちゃんは、キュッと口を結んだ。

大人びた口調をしていても、まだ小学生。きっと、ひとりで抱えた悩みが大きくなりすぎて、心の叫びとなってラジオから聴こえたんだ……。

「私たちが似ているのなら、きっとわかり合えます。だから、静佳ちゃんの心を聴かせてください」

必死だった。彼女の力になりたいと本気で思っている私がいた。

「……わかった」

ぽつりと口にした静佳ちゃんが、少しの間口をつぐんだ。

遠くでナースコールが鳴っている。誰かが話をしながら廊下を歩く声が聞こえるなか、やがて静佳ちゃんはため息とともに話し出す。

「親友が……死んじゃったんだ」

短い言葉のすべての単語が、悲しい音色を奏でているよう。耳に届いた言葉が胸に迫り、相槌すら打てない。

「ずっと一緒だって約束したのに、ある日、目が覚めたらもういなかった。昨日までいたのに……もういないの」

ギュッと唇をかみしめて、静佳ちゃんは小さな身体で耐えている。

それは、小児病棟でできた友達のことを言っているのかもしれない。いろんな病気で入院している子供たち。仲よくなったのに、突然断ち切られた絆にどうしていいのかわからないのかもしれない。

そうだったんだ、というショックに似た感覚に息が苦しくなる。あの夜聴こえた声は、自分の退院よりも、友を失くした喪失感に打ちひしがれていたんだね。

「私と……同じなんだね」

頬にあたたかい涙がこぼれる。泣いちゃダメ、と言い聞かせても次々にあふれる涙に両手で顔を覆った。だって、痛いほどに静佳ちゃんの気持ちがわかるから。

「どうすればいいの? 『その分まであなたが生きるのよ』ってお母さんやお姉ちゃん、看護師さんまでも言ってくる。だけど……そんなの考えられないよ。いないんだもん。もう、いないんだもん……」

顔をくしゃくしゃにして涙を流す静佳ちゃん。理屈めいた励ましなんて、なんの役にも立たないことは、私がいちばんわかっている。

『明けない夜はない』と言われても、今、暗いことが悲しいのだ。いつかくる朝よりも、この暗闇を照らしてほしい。だって悲しい人は、先を見る力すらも奪われてしまったのだから。

泣きじゃくりながら私は想いを言葉にしようとする。でも、

「ごめん。ごめんね……」

感情のすべてはその言葉だった。

「なん……で、謝る……の?」

嗚咽の合間に声を絞り出す静佳ちゃん。

「だって、わかるから。わかりすぎるほどわかるの。だって、私も今同じ悲しみのなかにいるの。だから、あなたを助けたいのに、どうしていいのかわからないよ。だから、ごめ……なさい」

「うん。うん……」

ぼやけた視界の向こうの静佳ちゃんがこらえきれないように顔をゆがませ、大きな口を開けて泣いた。悲しみを全身で表すような叫び声にも似た泣き声に、私は無意識に両手を広げていた。

迷うそぶりもなく私の胸に飛び込んでくる静佳ちゃん。そのあまりに小さな背中を抱きしめる。言葉にならない悲しみは、ふたつの泣き声になる。

「助けて。お願い……助けてよぉ」

くぐもった声ですがりつく静佳ちゃん。

「うん、悲しいよね。苦しいよね」

「助けて……こんなに悲しいことをどうやって乗り越えればいいの? お願い……教えてよ」

ずっと、ひとりで悩んでいたんだね。まだ子供なのに、どれだけつらかったのだろう……。

「どうして大切な人がいなくなるんだろうね。私たち、なにか悪いことしたのかな。神様からのバツなのかな……」

蛍光灯を見上げながら私は言った。

悲しみも、煙のように空にのぼっていけばいいのに。それならこんなに苦しくないのに。はがれて宙に浮かぶ悲しみを見送ることができたなら……。

ふいに千恵ちゃんの言葉を思い出す。私に課せられた試練だと、千恵ちゃんは言っていた。

そうかもしれない。勇気くんや静佳ちゃんの心の叫びが聴こえたのは、私が同じように悲しいから。それならば、一緒に泣いているだけじゃ先へ進めない。

——この暗闇を抜け出すために、私ができること……。

そっと身体を離して、まだ泣きじゃくる静佳ちゃんの両手を握った。

「一緒に歩こう」

「……え?」

鼻を真っ赤に染めた静佳ちゃんが不思議そうな顔をしているので、うなずいてみせた。

「私も暗い道にひとりぼっちなの。だから、一緒に手を取り合って歩いてみようよ。いつか、暗闇から抜け出せるかもしれない」

「意味がわかんないよ」

首を横に振る静佳ちゃん。私は握った手に願いを込めるように力を入れる。

「つまり、友達になろうってこと。親友には長い道のりかもしれないけれど、もうひとりの親友になれるようにがんばるから」

ぽかん、と口を開いた静佳ちゃんはやはり首を横に振ったので、「大丈夫」と、うなずいてみせた。

手さぐりでも同じ悲しみを背負って歩いていける人がいれば、一歩ずつでも前に進めるはず。どちらかが進めなくなったら、一緒に休めばいい。いつか、明るくなる空を信じて歩いていこう。

静佳ちゃんは何度もしゃくりをあげながら、

「私にできるかな……できるのかなぁ」

また顔を上に向けて声を出して泣きそうになっている。私は、その頬に流れる涙を指先でぬぐった。

「静佳ちゃんが悲しみに泣く日には、私が励ますの。私が泣いたら、静佳ちゃんが励ましてくれるの」

「……ふたりが悲しい日には?」

「気が済むまで一緒に泣こうよ」

顔をのぞき込む私に、ようやく泣き声は止まる。そして、何度も深呼吸をして乱れた息を整えてからこくりとうなずいてくれた。

「よかった……」

安堵の声に、涙を拭いて静佳ちゃんはベッドにまた座った。

「でも、私の親友はひとりだけだよ」

大切な人を思っての言葉に、そうだろうな、と思った。

「じゃあ、親友の補欠でいいよ」

そう言うと静佳ちゃんは表情をやわらげてうなずいてくれた。

「そうと決まったら、売店に行こう」

勢いよく立ち上がる私に静佳ちゃんはきょとんとしている。

「売店?」

「親友……あっ、〝親友の補欠候補〟になるにはまずはお茶でも飲まなきゃね」

ニッと笑ってみせる私に小さくうなずいた静佳ちゃんが、渋々というふうに立った。

「少しだけだからね」

子供っぽい笑顔を少し浮かべている。

今はまだムリした笑顔でもいいよ。いつかきっと本当の笑顔になれるから。

差し出した手を握る小さな手。自分自身が助けられたみたいで、なんだかうれしかった。