キセキの気持ちはわからない ―忘れられない想いと電脳つくも神の恋文―


 しばらく茫然としてから、奇跡の部屋を立ち去ることにした。

 遺品整理、と言いつつも僅かな衣服や装飾品を除けばどこにでもある量産品の生活必需品しかない部屋だったのだ。

 あとは母親が、晴れ着からゴミ袋まで全部実家に引き上げるだろう。

 ガスメーターの中にあるという合鍵はそのまま残されていたので、それで戸締りをして帰路につく。

「あれ、そういえば……」

 ふと、私は疑問を覚える。

 もしも、才谷杏子がただのヤベェやつ……つまり、奇跡の『彼女』をかたる妄想癖の持ち主だとしたら。

 そういえば、どうして才谷は合鍵の場所を知っていたのだろうか。

 やっぱり本当に、恋人だった?
 ないしは……ストーカー⁉

 もやもやと考えながら、奇跡の住んでいた町をあとにする。

 ……ちなみにチェーンは、やっぱり切断されていた。
 奇跡の部屋からの帰り路。

 ガトガトと揺れる電車。

 車窓の景色は流れる。

 冗談みたいに密集した建物を眺めていると、がらがらの電車で隣に座っているヒメムラサキが何かを持っていることに気づいた。

 小さな、和紙でできた箱。

「何持ってるの?」

『え、奇跡の遺品だけど』

「勝手に持ち出したの?」

『形見分けなんでしょ』

「遺品整理だよ!」

『それって何か違うの?』

「それは……、でもとにかく、勝手に持ってくるのはやめてよ」

 あの母親のこと、それを知ったら錯乱するかもしれない。

 彼女は遺された神崎奇跡のものはすべて自分の手元に置こうとしているのだ。

『いいじゃん』

 千鳥格子の和紙の箱を撫でながらヒメムラサキは言う。

「……それ、何が入ってるの?」

『見る?』

 神崎奇跡があの部屋の中でわざわざ小箱に仕舞い込んでいたもの。

 なにか、奇跡の、大切なもの。

 そんなもの、見てやるもんかという気持ちと、ちょっと見てみたいという気持ちがもやもやと胸の中を満たす。

『奇跡、この箱はすごく大切にしてたんだよ』

「いや、じゃあいいや」

 だったら、絶対見てやるもんか。

 私は、神崎奇跡のことなんて、大嫌いなのだから。
 神崎奇跡の遺品である小箱は、ヒメムラサキの手によって私のベッドの下の引き出しに仕舞われた。

 神崎奇跡は殺された。

 その言葉をぐるぐると反芻しながらも今日も今日とてまじめに大学へと通う私であるし、今日も今日とて学食では生姜焼き定食を注文した。

 生姜焼き定食はえらい。

 三五〇円という大学内だからこそ現存できるガラパゴスな低価格で、お味噌汁までついちゃうのだ。

『ヒメがお弁当を作るのにぃ!』

 と毎朝ふくれているヒメムラサキには悪いけれど。

 平日は生姜焼き定食を食べないとなんだかおなかがおさまってくれない。












3章 キセキの過去と殺人告白









 じゅわっと豚の脂身が甘い。

 もきゅもきゅと食事をしていれば、声をかけてきたのはきつねうどんをトレイに乗せた女。

「よっ、はるか」

「美鈴ちゃん、え、あれ?」

 伊藤美鈴のトレードマーク、金髪のショートヘアに巨大な伊達眼鏡。

 それが、艶やか黒髪のショートカットになっていたのだ。

「あ、髪?」

 こくこく、と頷く。

「いやあ、教育実習でさ」

「教育実習……」

 そういえば、もう私は大学四年だ。

 神崎奇跡の急死ですっかりと忘れてしまっていたけれど。

 同級生は就活、就活、就活だ。

 こちとら終活もせずに死んだ若き姉のことで、嫌に人間臭い仮想神格システムを相続したり、遺品整理に駆り出されたり.

 それから姉の恋人を名乗る美女にビンタをくらったり、ダイナミックレンジには欠けるけれども、なかなかに気の休まらない冒険的な日々を過ごしているのだ。

「そういうわけで、来週から一カ月は『伊藤先生』ですよ」

「へえ、美鈴ちゃんは教員採用試験受けるの?」

「んー、一応そのつもり。でも、民間も見てるけどね」

「ふうん」

 教採、民間、公務員。

 目の前に広がる可能性に浮足立っているような、大人になることに戸惑っているような、そんなブラックスーツの同級生たちの中で、私はすっかりと取り残されていることに気づいた。

 なんだか目の前にいる美鈴が、全然知らない人に見える。

 それは、髪の色が違うとか、そういうことじゃなくて、もっとずっと、大事な何かが変わってしまったような……それとも、そうじゃないような。

「あー……もしかして、はるか就活乗り遅れた?」

「お恥ずかしながら」

「えー、まじか」

 きつねうどんの油揚げをおだしに浸しながら、片手で器用に鞄のなかを探る美鈴が取り出したのは分厚い冊子だった。

「これ、就活ガイド。こないだのセミナーで貰ったの。よかったら、使う?」

「え、と」

 分厚い冊子には、いくつもちっぽけな付箋がついている。美鈴が真面目に読み込んだ痕跡が見て取れた。

 私はのばしかけた手を引っ込める。

「ごめん、遠慮しとく」

 昔から、中古品が嫌いだった。

 それは前の持ち主の「何か」が染み付いているようで、どんなに長く所有しても自分のものにならないものだから。

 それに、美鈴が目指す未来だとか、美鈴の価値観だとかが、その付箋から染み出して見えてきそうで怖かった。

「ん、そっか」

 美鈴は、あっさりと就活ガイドを引っ込めた。

 私は美鈴の、こういうところが結構好きだ。

 ちゅるちゅるときつねうどんを平らげた美鈴は、

「ああ、そうだ」

 と声を上げた。

「校門のところにさ、めっちゃ格好いいお姉さんいたんだよね!」

「かっこいい、お姉さん?」

「そ。服とか、マジで好みだわ! 誰か待ってる風だったんだけど、見たことない人だったよ」

「そうなんだ」

「いやあ、私も早くまた髪染めてえわぁ」

 と、美鈴は快活に笑った。

「ちなみに、」

 なんとなく、私はある予感を覚えながら美鈴に聞いてみる。

「校門にいた女の人って、どんな人?」

「え? 髪の毛がウルフカットでさ、夏ミカンみたいな色してんの!」

 柑橘系の髪色の、ベリーショートの、かっこいい女性。

 ――まさか。

「うわ、いる!」

 その、まさかだった。

 恐る恐る校門に向かうと、バレンシアオレンジみたいな髪をかきあげている美女がいた。

 黒い合皮のジャケットに、スキニージーンズ、ごっついブーツ。

 見紛うことなき、才谷杏子だった。

「よう、いたね。神崎はるかさん」

「な、あ、どうしてここに?」

「調べた」

「ストーキング技術っ!」

 恐ろしいことをこともなげに言う才谷は、大きなバイクに気だるげにもたれかかっている。

 初対面のときよりも耳を貫くピアスが大きいし、数が増えている気がする。

 わずか数日で。
 狼狽える私に、才谷さんは愉快そうに笑う。

「細かいことはいいからさ……ほいっ!」

「わっ」

 才谷が何かを投げつけてきた。

 ぼすん、と胸にあたって落ちたものを両手でキャッチする。

 つるりとした流線形。

 ヘルメットだ。

「はい、乗って乗って」

「え、あ、いや」

「バイト?」

「えい、今日は休みですけど」

「レポート?」

「特には……」

「それともデートの予定でも?」

「全然ないです」

 いくつかの質疑応答。

「――じゃあ、ちょっくら付き合ってよ」

 と、才谷はルージュに彩られた唇を形よく釣り上げて笑う。

 美人だな、と改めて思う。

 その証拠に、校門前を行きかう学生たちがチラチラとこちらに視線を投げてくる。

 大学三年以上しかいないこのキャンパスにおいては、服装の奇抜さだけでもよく目立つ。

 それに加えて、ドがつく美人である。視線を集めるなという方が難しい。

「……夕食前には帰りますからね」

「門限?」

「いいえ、」

 慣れないフルフェイスのヘルメットを恐る恐る被って言う。

「家に待ってる人がいるので」

 今日もたぶん、お味噌汁を作って。

 私を待っている。