七月の初めに母が退院の運びとなり、岩野田家にも安穏なる日々が戻った。
自宅のドアを開けた瞬間のひとの気配、ご飯の支度の温度、あかりの灯る部屋。待ち焦がれた家庭の風景であった。
(お母さんのいる匂いだ)
「ただいま」
「お帰り」
これは学校から帰ってきた分の挨拶。
「お母さんもおかえり」
「はいただいま。長いお留守番どうもありがとう」
こちらは退院おめでとうの挨拶。
自宅療養なので岩野田のお手伝い免除は当分先だ。だが父が帰宅時に母の好物の老舗ババロアを購入、その夜は華やかな晩餐になった。症状に一喜一憂する日々からのひと時の解放である。
「河合君とちゃんと話をした方がいいよ」
それ故だろうか。佐藤ミヤコに促されても、岩野田は多くが望めない。心の奥底に出来た枷は硬く、元来の引っ込み思案も顔を出す。
(でもミヤコさん、うち、お母さんが帰ってきたの)
だがそんな思考はとても言えない。佐藤達から見たら自分はきっと甘ったれだ。
「忙しくて……話すきっかけも無くて」
「気持ちがしんどくて動けない?」
佐藤は冷静である。
「しんどいなら仕方ないよ。そういう時もあるよね。でも、このままなのは良くないよ」
真摯な言葉は岩野田の胸に響いた。やっぱり自分は甘ったれだ。
「リュウ君も言ってたけど二人はまだ別れてないよ。これからも四人で仲良しでいたいよ。だからみかこちゃん、全道の決勝戦は一緒に観に行こうね。あのコ達は勝ちあがるよ。私、ひとりで観るのは寂しいよ」
最後に「今度一緒にお買い物に行こうか」と美少女に明るく誘われ、岩野田の背筋は思い切り伸びたのだった。
(そういえば私、最近お手入れサボってた!)
そうだよ。二人とも女子として凛々しく生きるのよ。
(ミヤコさんも忙しいのに気を使ってくれた。観戦も誘ってくれて)
そうなんだよ。佐藤だって岩野田と仲良くなれて嬉しいのだから。
(でも、お母さんが帰ってきたの)
だからそれが良くない。
とはいえ、隠してきた傷が痛むのは自然の流れ。適切に対処しようではないか。
その後のスケジュールは多忙を極めた。夏休み前の授業は前倒しになり、本番を控えた部活動は熱を帯びる。特に市民体育館で顔を合わせる氷川商・氷川中両校は、それぞれが刺激となり、各ボルテージも加速した。
岩野田に余裕はまるで無い。当然河合もそれどころではない。お互いの存在は判っていても、リアクションなど出来はしない。
ネット越しに岩野田は河合の気迫を感じる。河合にも岩野田の献身ぶりが視える。お互いがそれぞれに集中している時、少しのギクシャクが喧噪に紛れる。
どんどん切れ味が増す河合。どんどん顔つきが大人びてくる岩野田。お互いがそれぞれの成長に気付く。彼の背が伸びている。彼女の髪が伸びている。過ぎた時間が目に見える。
喧噪から逃れると、見ないフリをしていた痛みが疼きだす。何かを感じて振り向くと、さっきまで視線がこちらに来ていた気配がある。知らないフリをしていても、彼が彼女が、自分を見ているのが背中で判る。
岩野田が一番辛くなるのは、帰宅して自宅玄関に立った時である。
思い出すは春の連休。お母さんの病気で落ち込んでいて、初めて家まで送ってもらった夕刻のひととき。
相反するのが長雨の先月。酷い言葉で傷ついて帰宅した日。玄関に入った途端あの春の日を思い出し、悲しくて訳が判らなくなった。身体の具合も悪くて、河合に対しても珍しくすごく腹が立った。
今は苦しくて仕方がない。有頂天で気付けなかった過ごした時間の大切さ。泣く度に胸の奥に雪が積もって、シンシンと冷えて氷になって。自分ばかり良くしてもらった。だけど何も返せていなくて、何のお役にも立てなくて。
(でも謝る機会も、多分無いね。もし機会があったとしても、河合君はきっと嫌だね)
背伸びして気を張る姿も、いつもとても眩しかった。
成長著しい江口は、体育館での二人を見て瞬時に判断、実働に移していた。
(岩野田さん達、何かあったな)
既にオノレに正直に生きると心得た江口である。ある意味で容赦も捨てている。
「おかあさん、タオル貸してー」
「え、岩野田、とうとうおかあさんになっちゃったの」
岩野田の呼び名変更に大家達からも同情され、岩野田もキレ気味に返すのであった。
「おかあさんじゃありません」
「そんな事言わないでよおかあさーん」
「甘えるんじゃないっ」
疑似親子状態であった。
「借りる前に貸したタオル全部返して」
「うんわかった。でも早く汗拭かないと風邪ひいちゃう」
「ええい、これでも使うがいい!」
岩野田が投げるタオルは色気皆無の新聞社の粗品である。
「ウチの兄がどうもスミマセンー」
今度は高い所から声が降る。見れば江口の弟が観覧席から手を振っている。尚、その横には綺麗な社会人風女性が。
「アナタが岩野田さんね。いつも弟がお世話になってます」
大きめの紙袋を抱えて笑うのは、江口のお姉さんであった。
「シュウトがこんなに沢山のタオルを借りっぱなしで。ご迷惑掛けて御免なさいね」
有名店の焼き菓子と共にわざわざ返却にお越しくださった美女。
色めきだつのは江口の先輩同輩諸君である。
「おい芋、ちゃんと紹介しろ」
「姉上様にコートまで来てもらえよ」
顧問・部員達の鼻の下が伸びきるのは壮観である。素敵なお姉さんを前に皆のテンションが上がる。
(初めてあった気がしないけど、何処かで会ったのかな?)
コート際に下りてきた江口姉弟と楽しく会話をしながら、しかし岩野田は何も思い出せない。姉弟の登場に江口は無駄に緊張し、弟はニコニコしながら皆を見ていた。和気あいあいであった。
翻弄されるのはワタクシである。
(岩野田と江口のお姉さん、以前親友だった過去がある!)
脳内センサーが反応したのだ。浮かぶは江口と岩野田の夫婦時代。当時の江口姉は隣接する酒屋の愛娘なのであった。大所帯で苦労する若嫁の岩野田を、いつも心配し応援していたのだ。江口に苦言を呈すのは今世でもお馴染みの情景である。
江口姉も岩野田を見た瞬間に(良い子だな。弟と仲良くなってくれないかな)と願っている。ケンジさんの傍観はここも見越してかもしれぬ。慧眼である。
一方のネットの向こう側、氷川中コートの河合は沈黙を守って練習に勤しんでいる。周囲をスガワラが固め、イロコイの気配は絶賛排除中である。
(おいマサキ、ヤバいぞ。いいのかよ)
氷川商のコートの様子を察した大澤はひとり焦るが、河合は一言「集中しろ」とだけ返している。だが内心は穏やかではないらしい。チューニビョンの効力は後一カ月弱。
(何だよ意地はって。でもオレは忠告したかんな。後は知らねえぞ)
大澤も嘆息して終了している。やり取りの簡潔さから二人の信頼が判るが、こちらも深い縁があるからだ。過去で何度も親友や仲間、家族の繋がりをこなしている。
しかしワタクシの勘の冴え具合はどうだ。勝手に映像が浮かんでは消える。リンキーに感化されたのであろうか。
氷川商インターハイ壮行会は夏休み前の全校集会後であった。蒸し暑い体育館の壇上、大注目株は江口の存在が大きい男子バスケ部。
「えぐっちゃーん!」
「シュウトー!」
全女子生徒からの黄色い声が館内にコダマする。ニコヤカに佇む江口に対し、しかしマネ達は冷静であった。
(見事なオスマシですネ)
(いつもそうやって落ち着いているといいネ)
(いいか、そのままボロは出すなよ、出すんじゃないよ)
どれが誰の心の声かお分かりいただけたであろうか。
悲願は初戦突破。大きなエールと校歌斉唱に見送られ、レギュラー組と吉野マネは今年度開催地である内地の某県に旅立ち、留守番組は部室のお掃除に取り掛かった。
開かずのロッカー内にひそむ歴代思春期男子ご用達雑誌をブチ切れながら全て焼却処分にしたマネ達の武勇伝を、ワタクシは後世に伝えたい。
疲れ果てた三人はアイス屋さんに寄り道である。
「お掃除風水、効くといいなあ」
「勝ち上がって欲しいよね」
切実なる悲願であった。
「江口はお馬鹿じゃないといいなあ」
「吉野先輩を困らせないでほしいね」
悩みは堂々巡りであった。
「そういえば岩野田の呼び名、おかあさんになっちゃったんだね。大丈夫?」
大家に心配され、眉間に皺を寄せる岩野田。
「江口はきっと家庭的な暖かさに憧れてるんだね」
自分はいいおとうさんを目指すって言ってたな、と、ふと思い出す岩野田。江口の真意は迷子になっている模様。
「前から思ってたけど、おかあさん風味なら茨木が適任だよね。義務感しか無い私と違って茨木はマジの優しさだもの。母性を感じるよ」
「そ、そんなことないよ、私はコドモっぽいだけだよ、そ、それに江口の好みは岩野田みたいな冷静な女の子だよ!」
茨木の異様な慌てぶりは何だ。岩野田と大家に違和感が沸き起こる。
「あの、茨木、もしかして」
「ひょっとして」
茨木の頰は真っ赤である。二人は全てを察し、「今まで気づかなくてゴメン」と謝った。
「そんなんじゃないから!」
「でも江口の何処がいいの。天然なとこ、じゃないか、顔かな」
茨木の顔が益々赤くなった。
「そうか。顔なのか」
「だったら弟君で良いじゃん。中身が良さげだよ」
「本当にそんなんじゃないから!」
「今後の江口のお世話係は茨木にしようか。適任だよ」
「うん、今までホントにゴメン。江口を散々ディスってきたのもゴメン。好みはそれぞれだよね」
「本当に本当に違うからー!」
茨木はパニクっていたが、多数決でその場は納められてしまった。数の暴力であろう。
二日後のインターハイ初日、第三試合。氷川商は見事一回戦を突破し、岩野田達は狂喜乱舞した。氷川中もあっさりと市大会、地区大会を優勝し、全道大会のコマに進んでいる。
自宅のドアを開けた瞬間のひとの気配、ご飯の支度の温度、あかりの灯る部屋。待ち焦がれた家庭の風景であった。
(お母さんのいる匂いだ)
「ただいま」
「お帰り」
これは学校から帰ってきた分の挨拶。
「お母さんもおかえり」
「はいただいま。長いお留守番どうもありがとう」
こちらは退院おめでとうの挨拶。
自宅療養なので岩野田のお手伝い免除は当分先だ。だが父が帰宅時に母の好物の老舗ババロアを購入、その夜は華やかな晩餐になった。症状に一喜一憂する日々からのひと時の解放である。
「河合君とちゃんと話をした方がいいよ」
それ故だろうか。佐藤ミヤコに促されても、岩野田は多くが望めない。心の奥底に出来た枷は硬く、元来の引っ込み思案も顔を出す。
(でもミヤコさん、うち、お母さんが帰ってきたの)
だがそんな思考はとても言えない。佐藤達から見たら自分はきっと甘ったれだ。
「忙しくて……話すきっかけも無くて」
「気持ちがしんどくて動けない?」
佐藤は冷静である。
「しんどいなら仕方ないよ。そういう時もあるよね。でも、このままなのは良くないよ」
真摯な言葉は岩野田の胸に響いた。やっぱり自分は甘ったれだ。
「リュウ君も言ってたけど二人はまだ別れてないよ。これからも四人で仲良しでいたいよ。だからみかこちゃん、全道の決勝戦は一緒に観に行こうね。あのコ達は勝ちあがるよ。私、ひとりで観るのは寂しいよ」
最後に「今度一緒にお買い物に行こうか」と美少女に明るく誘われ、岩野田の背筋は思い切り伸びたのだった。
(そういえば私、最近お手入れサボってた!)
そうだよ。二人とも女子として凛々しく生きるのよ。
(ミヤコさんも忙しいのに気を使ってくれた。観戦も誘ってくれて)
そうなんだよ。佐藤だって岩野田と仲良くなれて嬉しいのだから。
(でも、お母さんが帰ってきたの)
だからそれが良くない。
とはいえ、隠してきた傷が痛むのは自然の流れ。適切に対処しようではないか。
その後のスケジュールは多忙を極めた。夏休み前の授業は前倒しになり、本番を控えた部活動は熱を帯びる。特に市民体育館で顔を合わせる氷川商・氷川中両校は、それぞれが刺激となり、各ボルテージも加速した。
岩野田に余裕はまるで無い。当然河合もそれどころではない。お互いの存在は判っていても、リアクションなど出来はしない。
ネット越しに岩野田は河合の気迫を感じる。河合にも岩野田の献身ぶりが視える。お互いがそれぞれに集中している時、少しのギクシャクが喧噪に紛れる。
どんどん切れ味が増す河合。どんどん顔つきが大人びてくる岩野田。お互いがそれぞれの成長に気付く。彼の背が伸びている。彼女の髪が伸びている。過ぎた時間が目に見える。
喧噪から逃れると、見ないフリをしていた痛みが疼きだす。何かを感じて振り向くと、さっきまで視線がこちらに来ていた気配がある。知らないフリをしていても、彼が彼女が、自分を見ているのが背中で判る。
岩野田が一番辛くなるのは、帰宅して自宅玄関に立った時である。
思い出すは春の連休。お母さんの病気で落ち込んでいて、初めて家まで送ってもらった夕刻のひととき。
相反するのが長雨の先月。酷い言葉で傷ついて帰宅した日。玄関に入った途端あの春の日を思い出し、悲しくて訳が判らなくなった。身体の具合も悪くて、河合に対しても珍しくすごく腹が立った。
今は苦しくて仕方がない。有頂天で気付けなかった過ごした時間の大切さ。泣く度に胸の奥に雪が積もって、シンシンと冷えて氷になって。自分ばかり良くしてもらった。だけど何も返せていなくて、何のお役にも立てなくて。
(でも謝る機会も、多分無いね。もし機会があったとしても、河合君はきっと嫌だね)
背伸びして気を張る姿も、いつもとても眩しかった。
成長著しい江口は、体育館での二人を見て瞬時に判断、実働に移していた。
(岩野田さん達、何かあったな)
既にオノレに正直に生きると心得た江口である。ある意味で容赦も捨てている。
「おかあさん、タオル貸してー」
「え、岩野田、とうとうおかあさんになっちゃったの」
岩野田の呼び名変更に大家達からも同情され、岩野田もキレ気味に返すのであった。
「おかあさんじゃありません」
「そんな事言わないでよおかあさーん」
「甘えるんじゃないっ」
疑似親子状態であった。
「借りる前に貸したタオル全部返して」
「うんわかった。でも早く汗拭かないと風邪ひいちゃう」
「ええい、これでも使うがいい!」
岩野田が投げるタオルは色気皆無の新聞社の粗品である。
「ウチの兄がどうもスミマセンー」
今度は高い所から声が降る。見れば江口の弟が観覧席から手を振っている。尚、その横には綺麗な社会人風女性が。
「アナタが岩野田さんね。いつも弟がお世話になってます」
大きめの紙袋を抱えて笑うのは、江口のお姉さんであった。
「シュウトがこんなに沢山のタオルを借りっぱなしで。ご迷惑掛けて御免なさいね」
有名店の焼き菓子と共にわざわざ返却にお越しくださった美女。
色めきだつのは江口の先輩同輩諸君である。
「おい芋、ちゃんと紹介しろ」
「姉上様にコートまで来てもらえよ」
顧問・部員達の鼻の下が伸びきるのは壮観である。素敵なお姉さんを前に皆のテンションが上がる。
(初めてあった気がしないけど、何処かで会ったのかな?)
コート際に下りてきた江口姉弟と楽しく会話をしながら、しかし岩野田は何も思い出せない。姉弟の登場に江口は無駄に緊張し、弟はニコニコしながら皆を見ていた。和気あいあいであった。
翻弄されるのはワタクシである。
(岩野田と江口のお姉さん、以前親友だった過去がある!)
脳内センサーが反応したのだ。浮かぶは江口と岩野田の夫婦時代。当時の江口姉は隣接する酒屋の愛娘なのであった。大所帯で苦労する若嫁の岩野田を、いつも心配し応援していたのだ。江口に苦言を呈すのは今世でもお馴染みの情景である。
江口姉も岩野田を見た瞬間に(良い子だな。弟と仲良くなってくれないかな)と願っている。ケンジさんの傍観はここも見越してかもしれぬ。慧眼である。
一方のネットの向こう側、氷川中コートの河合は沈黙を守って練習に勤しんでいる。周囲をスガワラが固め、イロコイの気配は絶賛排除中である。
(おいマサキ、ヤバいぞ。いいのかよ)
氷川商のコートの様子を察した大澤はひとり焦るが、河合は一言「集中しろ」とだけ返している。だが内心は穏やかではないらしい。チューニビョンの効力は後一カ月弱。
(何だよ意地はって。でもオレは忠告したかんな。後は知らねえぞ)
大澤も嘆息して終了している。やり取りの簡潔さから二人の信頼が判るが、こちらも深い縁があるからだ。過去で何度も親友や仲間、家族の繋がりをこなしている。
しかしワタクシの勘の冴え具合はどうだ。勝手に映像が浮かんでは消える。リンキーに感化されたのであろうか。
氷川商インターハイ壮行会は夏休み前の全校集会後であった。蒸し暑い体育館の壇上、大注目株は江口の存在が大きい男子バスケ部。
「えぐっちゃーん!」
「シュウトー!」
全女子生徒からの黄色い声が館内にコダマする。ニコヤカに佇む江口に対し、しかしマネ達は冷静であった。
(見事なオスマシですネ)
(いつもそうやって落ち着いているといいネ)
(いいか、そのままボロは出すなよ、出すんじゃないよ)
どれが誰の心の声かお分かりいただけたであろうか。
悲願は初戦突破。大きなエールと校歌斉唱に見送られ、レギュラー組と吉野マネは今年度開催地である内地の某県に旅立ち、留守番組は部室のお掃除に取り掛かった。
開かずのロッカー内にひそむ歴代思春期男子ご用達雑誌をブチ切れながら全て焼却処分にしたマネ達の武勇伝を、ワタクシは後世に伝えたい。
疲れ果てた三人はアイス屋さんに寄り道である。
「お掃除風水、効くといいなあ」
「勝ち上がって欲しいよね」
切実なる悲願であった。
「江口はお馬鹿じゃないといいなあ」
「吉野先輩を困らせないでほしいね」
悩みは堂々巡りであった。
「そういえば岩野田の呼び名、おかあさんになっちゃったんだね。大丈夫?」
大家に心配され、眉間に皺を寄せる岩野田。
「江口はきっと家庭的な暖かさに憧れてるんだね」
自分はいいおとうさんを目指すって言ってたな、と、ふと思い出す岩野田。江口の真意は迷子になっている模様。
「前から思ってたけど、おかあさん風味なら茨木が適任だよね。義務感しか無い私と違って茨木はマジの優しさだもの。母性を感じるよ」
「そ、そんなことないよ、私はコドモっぽいだけだよ、そ、それに江口の好みは岩野田みたいな冷静な女の子だよ!」
茨木の異様な慌てぶりは何だ。岩野田と大家に違和感が沸き起こる。
「あの、茨木、もしかして」
「ひょっとして」
茨木の頰は真っ赤である。二人は全てを察し、「今まで気づかなくてゴメン」と謝った。
「そんなんじゃないから!」
「でも江口の何処がいいの。天然なとこ、じゃないか、顔かな」
茨木の顔が益々赤くなった。
「そうか。顔なのか」
「だったら弟君で良いじゃん。中身が良さげだよ」
「本当にそんなんじゃないから!」
「今後の江口のお世話係は茨木にしようか。適任だよ」
「うん、今までホントにゴメン。江口を散々ディスってきたのもゴメン。好みはそれぞれだよね」
「本当に本当に違うからー!」
茨木はパニクっていたが、多数決でその場は納められてしまった。数の暴力であろう。
二日後のインターハイ初日、第三試合。氷川商は見事一回戦を突破し、岩野田達は狂喜乱舞した。氷川中もあっさりと市大会、地区大会を優勝し、全道大会のコマに進んでいる。