翌日。

 少し、寝不足だ。頭が痛い。
 毎朝の日課として、川っぺりを十キロほど走ってから通勤しているが、今日は休んでしまった。
 それ以外は、いつもと同じ一日のはじまり。

「おはようございます」

 昨夜のことは、もしかしたら夢だったのかもしれない。咲久良はただの教え子で、俺は担任教師。
 学校内で一生徒を過剰に意識しないこと、だ。

 あの歳で婚約者がいるというのは驚きだが、咲久良の自宅はいやに大きかったし、やつの父親は議員だ。調べたことはないが、ひとりっ子だし、あのへんの旧家のお嬢さまなのかもしれない。

 俺を誘惑したのは、親への反発か。言い逃れるためとはいえ、恋人のふりなんて失言だった。担任教師として、咲久良とのことはまるく収めなければならない。

 朝のホームルームの時間に教室へ向かうと、咲久良はいつも通り登校していつも通りに過ごしていた。別に、変わった素振りはない。
 車の中で、色仕掛けで迫ってきたくせに、今朝は俺と視線を合わせるつもりもないらしい。楽しそうに、クラスメイトと談笑している。

 なんだ、心配して損をした。


 昼休み。
 食事を終え、職員室で午後の準備をしている俺に、届け物があった。

「入部届です」

 文芸創作部の部長が手に持っているのは、咲久良の入部届だった。今日の日付で、本人の丁寧な署名がある。きれいな字を書く。

「これ、咲久良の」
「彼女、昨日の活動で決心したようです。とても楽しかったから、部に入れてくださいと、今朝届け出がありました」

 俺はいやな予感がした。
 まさかあいつ、俺の過去作を本気で読もうとしているのか。残念ながら、あの作品は事情があって、引っ越しを機にデータを処分した。手もとには残っていない。

「そ、そうか。部長は、あいつのことでなにか知っていることはあるかな」
「なにか、とおっしゃいますと?」

 三年の男子部長は、眼鏡の奥をきらりと光らせた。

「いや、その。変わったこととか、噂とか。ああ、別に変な意味じゃない。こんな時期によく入部するなあ、と思って。なにかあったのかな、なんてね」
「彼女は以前から、創作を好んでいたようなので、部誌を貸したことは何度かあります。あと、土方先生個人にも、興味があるようでしたね」
「俺に?」

 そのことばに、体温が上がるのを感じた。冷静を保つのが難しい。

「はい。先生の出身はどこで、今はひとり暮らしなのかとか、彼女はいるのかとか、個人的なことをよく聞かれました。もちろん、よくは知らないと答えましたよ。そのうち、直接聞きに来るかもしれませんよ。先生と生徒の恋愛なんて、けしからんことです。叱り飛ばしてください、そのときは。がっちりと!」

 あいつ、俺のことを内偵していたのか。

「……入部届は、受理しておく」

 帰りのホームルームが終わっても、咲久良は俺にとうとう一度も話しかけようとしなかった。しびれを切らした俺が近づいたところ、咲久良はクラスの友人たちと寄り道をする相談をしていた。

「咲久良。お前、少し残れ」

 そう呼んだとき、はじめて視線が合った。

 驚いたような顔をしたあと、すぐに満足そうに口角を上げた。
 わざとだ、わざと。俺の気を引くために、こいつ絶対にわざと一日中無視していやがった!

「なんのお話ですか、先生?」

 素っ気ない。媚びもない。同じ口が、昨日は『としくん』なんて呼んだとは思えない。かわいくない。

「なんのって。入部届の話だ、入部の!」
「先生、朝は風紀の巡回でお忙しそうだったので、入部届は部長さんに預けたんですが。部活をはじめるのに、担当顧問の面接があるんですか。へー、知りませんでした」

「いいから、ちょっと来い! 咲久良は借りるぞ」