小走りで戻ってきた咲久良が、ペットボトルとお釣りを返してくれた。両手で、ぎゅっと。こういうところは変わっていない。
「先生、ご自分で飲めますか」
「ああ。悪いな」
俺はキャップを外すと勢いよく、半分ぐらいの量を一気に飲んだ。喉を鳴らして。うまい。水はうまい。
深酒すれば、最悪な気分になることは自明なのに、どうしていつも飲んでしまうんだ。結論、人間には水がいちばんだ。
「……今の質問、おかしくなかったか。俺が水を欲しているのに、自分で飲めなかったら、どうしたんだお前」
「あ。そのときはですね、ストローをもらってくるとか、くふうしようと」
「もしかして、口移ししたかったんじゃないのか、おい?」
「やめてください、酔っぱらいは無理です。それに私、先生の生徒です。恋人ごっこも、もうやめたんです。今さらそんなこと、できるはずありませんよ。それ以上言ったら、セクハラ教師だって学校に訴えますよ」
「あっそ。恋人ごっこをやめたとたん、急につれない態度を取るな、お前。まあ、用が済めば、そんなものか」
「まるであべこべですね、これまでと。先生が私を追いかけるなんて」
「追いかけてなどいない。自宅まで送っているところ。おい、このお釣りで菓子でも買えよ」
「私を小銭で釣るつもりですか。仕方ないですね、じゃあアイスでも食べようかな」
そのあと、会話が途切れた。
俺は水を飲んでいる。咲久良はアイスを食べながら、そのへんをうろうろしている。
さっきまでの調子で、『では、先に帰ります』ぐらい言われてもおかしくないのに、俺たちは距離を置きながらも離れなかった。
俺が寄り道を強いたせいで、咲久良の自宅前に着いたときには四時半を過ぎていた。
「ありがとうございました」
酔っぱらいに付き合わされて帰宅がだいぶ遅くなったのに、咲久良は礼儀正しく頭を下げて俺に挨拶をした。
「明日も、バイトなのか」
「はい。でも、来ないでください。担任の先生にいちいち監視されるなんて、仕事やりづらいし、恥ずかしいので」
「俺は俺の金で飲み食いしているだけだ。お前を監視しようなんて目的はない」
「いいですか。明日は、絶対に来ないでください」
「だったら、仕事が終わったら、俺の部屋に来い」
つい、本音が出てしまった。俺は、咲久良と一緒にいたいのだ。
笑顔が見たい。泣かせたくない。ほかの女ではだめだ。こいつの甘い声で『としくん』と呼ばれたい。
けれど、俺は教師で咲久良は生徒。
教え子との恋に溺れるなんて愚行、俺は決してしないと心に誓ったはずなのに。
「いいや、今のは嘘。なし。冗談。忘れろ」
必死にごまかした。なのに、咲久良の顔は真剣だった。
「本気、ですか」
「だから今のは」
「私、あなたの生徒ですよ。そのへんの遊び相手と、同類にしないでくださいね。もし、先生が本気なら、覚悟を決めて私も考え直します。せっかく、諦めようと思えてきたのに。手離した途端に惜しくなったんですか」
若い咲久良は純粋で無垢だった。
俺が失ってしまったものを、咲久良はまだ持っている。こんなところに惹かれているのかもしれない。俺の心は揺れた。
……欲しい。
咲久良が欲しい。多少のリスクを背負っても、構わない。
「俺のことが、男として少しでも好きなら、来てほしい。面倒なことは、俺が全部なんとかする。好きだ、みずほ」
とうとう、言ってしまった……。
酔った勢いで、生徒に対して本気で告白するとか。しかも、担任クラスの女子生徒に。どうかしている。
でも、本心だった。
絶対に口にしてはならない、本心だった。
俺は自己嫌悪に陥った。
咲久良を送ったあと、どう帰ったか、よく覚えていない。
確か、行きに寄ったコンビニでまた酒を飲んだんだ。
自分のバカさ加減にあきれ、ビールではなくもっと強いウイスキーを選んでちびちび飲みながら、夕暮れの道を朦朧としながら歩いた。半泣きだったかもしれない。
咲久良が見たら、百年の恋も醒めてしまうだろう、俺の不甲斐ない姿。
部屋に着いたときにはもう真っ暗で、気がついたら玄関に寝ていた。ドアを開けてすぐに倒れ込んだようだった。
「ちっ、夜中の二時かよ」
ふらふらになりながら、俺はシャワーを浴びた。朦朧としたまま歯磨きをして溺れるようにベッドで寝た。そうだ、咲久良と添い寝した夜もあったことを、おぼろげに思い出しながら。
あいつの肌、ふわふわだったな。いつか、抱いてみたい。高校を卒業したら、一回ぐらいさせてくれるかな。あっ、また愚かな妄想をしてしまった。
……。
……、……。
……、……、……。
「いつまで、寝ているんですか。もう、午後の三時で・す・よ」
枕が喋った。
しかし、違った。俺は寝ぼけていた。
枕もとの目覚まし時計を手繰り寄せると、針は午後三時五分を示していた。
おかしい。
俺が寝たのは夜中の二時半だったのに。あれか、すでに十二時間以上経過したというのか。時間をワープしたとしか思えない。
「走らない……と」
身体がうまく動かない。短時間で、極度にアルコールが入ったせいか、全身がやたらと重だるい。痺れているかのように。目の前も真っ暗だ。俺は頭をかかえた。
「今は無理ですよ。まず、お水でもいかがでしょう」
「水、くれ」
渡されたコップには、冷たい水がなみなみと入っていた。とてもありがたい。俺は飲んだ。もう一杯、所望した。夢かもしれないが、やたらと懇切丁寧だ。
「おはようございます、としくん。昼間っから潰れるほどの飲み過ぎはいけませんよ、ほどほどにしてくださいね。悩みでもあるんですか? そもそも、男性のほうが短命なんですから。ずっと私をひとりにするつもりですか。ほかの人と再婚してもいいんですか」
一気に目が覚めた。咲久良がいた。
「としくん言った。咲久良が、としくん言った!」
瞬間、俺は歓声を挙げていた。
「ちょっと、ご近所さんに聞こえちゃいますよ。落ち着いてください」
「もう一度呼んでくれ、としくんって。なあ、としくんって。来てくれたんだな、咲久良。昨日のあんな誘い方で」
興奮した俺に、咲久良は冷静だった。
「はい。としくん、どうどう。としくん、落ち着いて。はい、いい子いい子」
頭を撫でられ、どうどう、とか。俺は馬か。
「どうやって、部屋に入った」
「以前と、ほぼ同じです。出入りしていたマンションの住人さんにしれっとついてエレベーターに乗り、としくんのお部屋まで来たら、玄関ドアの鍵は開いていて。こんなご時世なんですから、いくらセキュリティの高いマンションでも、物騒ですよ。でも、としくんはかわいい顔で熟睡でしたね。呼び出しておいて、自分は昼酒で半裸のままお昼寝中とか」
「昼酒昼寝じゃない。夜から寝通し寝ていた」
「ええ? もう、午後の三時なのに? 惨事ですね、これは」
「いいから、もう一杯。水をくれ。冷蔵庫」
それで、本格的に目が覚めた。
俺を介護してくれたのは、枕ではなく、もちろん咲久良だった。
定食屋のアルバイト終了後、約束通り来てくれたのだ。約束通りに!
なのに、俺は恥ずかしくてなにも言えないし、手も出せない。それ以前に、酒くさくてためらってしまう。キスもできない。うれしいような、うれしくないような。中学生かよ。
ようやくひと息ついて、ジャージを着ることができた。しかし、ベッドから起き上がる気力がまだない。だるい。
そんな俺を見て諦めたのか、咲久良は部屋の隅で携帯ゲームをしている。
……かわいい。見ているだけでもかわいい。『としくん』と呼んでくれた。咲久良は変わっていなかった。
しかし、そんな淡い思いではだめだ。咲久良を押し倒して、俺のものにするために呼んだのだ。喰いたい。
なのに。
咲久良がそばにいてくれるだけで今、幸福感に包まれている。
「絶対にしあわせにする。だから、今夜はここに泊まれよ」
驚く咲久良の顔。こういう、間の抜けた表情も愛らしい。
「本気の恋は秘するものだ」
「は、はい!」
「覚悟、してくれ」
俺は、咲久良の身体の上に跨った。ゆっくりと重なる唇。強引に舌を絡めた。咲久良の唇からは、やがてかわいい声が漏れてくる……はずなのに。
「いやあああ、お酒くさい! 無理です、無理。未成年者には、どうしたって無理です。今日は帰りますね。明日また、学校で会いましょう先生」
「さ、咲久良」
「さようなら、先生」
「おい、俺は不完全燃焼……明日、国語準備室で襲うぞ。いいのか」
「我慢です、我慢。私、としくんが大好きですけど、卒業式を終えるまでは、としくんに抱かれるつもりはありませんよ。許すのは唇だけです。それ以上は絶対に許しません」
「あの親を説得して、俺はお前と結婚したいとさえ思っている。なのに、味見もできないのかよ。ちょっとでいい、少し触らせろ。俺の欲望をどうしてくれる」
「だ・め・で・す」
きっぱり、断られた。
「おい、咲久良」
「あと! ふたりきりのときは、名前で呼んでください。『みずほ』って。昨日の別れ際のあれ、きゅんきゅんしました。じゃあね、としくん?」
相愛なのに。おいおい、今さらお預けとか、ないだろうに? どうすんだ、俺の欲望の行く先は。
俺の目の前は、再び真っ暗闇に落ちた。
平均点普通っ子の仮面を脱いだ咲久良は、めきめきと成績を上げた。三年生では、文系特進クラスに入るだろう。
さすがは作家・冴木鏡子の娘。俺が担任できなくなることが惜しい。手離したくないのに、さらに追い打ちをかける話が届いた。
「来年、創作文芸部は、部から同好会に格下げになる見込みだ。部員数が減っていたこともあるし、部長の彼女が部を巻き込んで騒動を起こしたのが響いた。部長たちが卒業するから、責任は問われないと思った俺が甘かった」
「それは残念ですね」
「となると、部の顧問も解任される。俺は、運動部……具体的には、陸上とかバスケットとかサッカーとか、そっち方面のハードな顧問を担当させられるらしい。そうなれば、土日は練習、長い休みは合宿や大会で休みが奪われる。お前とゆっくり、いちゃいちゃもできない」
「じゃあこの生活、今年度いっぱいで終わりですね」
週末の昼は定食屋でアルバイトをして、それが終わったら俺の部屋に来るのが、最近のいつもの流れと化していた。
定食屋のおばちゃんには、俺と咲久良が、実はらぶらぶだとバレているかもしれないので、ここのところ俺は怖くて行っていない。
「おい、納得するのか?」
「波風立てて、目立ちたくありません。それに、私には受験勉強がありますし、創作したいものを少しずつまとめたいので、こんなふうにとしくんの部屋に入りびたるわけにもいきませんよ。ちょうどいいかもしれません。受験が終わったら、卒業です。まったく逢えないわけではありませんし、私は耐えます」
「受験勉強、俺が教えてやるって。点の取れる小論文の書き方、採点者の受けのいい解答方法。教科書には載っていない受験マニュアルを丁寧に教えてやる。ただし、ふたりっきりのときに」
「……教師のくせに、いやらしい言い方ですね、まったく。早く涸れればいいのに」
「涸れるには早いって! 勝手に涸らすな」
幸い、誰にもまだバレていない。
咲久良家の両親が不在のときには、俺の部屋に泊まって当然のように並んで一緒に寝るけれど、俺たちは最後の一線を守っていた。
いつまで我慢できるかどうか、正直俺には自信がない。
長い夜、咲久良の気配を感じ、眠れないまま朝を迎えてなかば逃げるようにしながら、マンションのを飛び出してランニングをはじめることもある。
こんなに苦しい禁欲生活が続くならば、ひとりでのんびりと寝たほうがましかもしれない。風紀指導の鬼教師が、行き場のない性欲をかかえて悶えて苦しむなんて、面目まるつぶれだ。
「本気の恋は忍ぶもの、ですね。としくん」
「それ、前に俺が言ったことば。みずほ?」
「としくん、もう一度創作してください。女子高生に溺れる教師をネタにして、そっちにとしくんの情欲をぶつけてください、がっちり全部」
「モデルになるか? 実地で教えてやる」
「妄想の世界のみで、お願いします。禁断の、教師×生徒もの。永遠のテーマです。受けますよ。『全女子が泣いた』っていう帯がついて、ベストセラー間違いなし、ドラマ化映画化です。冴木鏡子なんて三流作家、軽く超えちゃいましょう。でもその場合、覆面作家決定です。現役の教師が、教え子との恋愛を小説にしたら、まずいですね。リアル過ぎて! あーあ、せっかくきれいなお顔しているのに、としくんはマスコミに登場できないのかあ、残念」
「なあ、冗談はさておき。現状、どこまでなら許されるんだ? 俺はお前に触れたい」
「見つめ合う。頭を撫でる。手をつなぐ。以上」
「は……はあ? 俺、二十七の健康な男なんだけど」
「私は十七歳の教え子です、しかも箱入りです」
「それは分かっているが、たまにはちょっとぐらい、いいだろ……」
柄になく、俺は猫なで声を使った。しかし、返答は。
「だ・め・で・す!」
「後退してないか? 何度もキスしたし、こうして同じベッドで寝てんのに。友人に聞いてみろ? 今どきの高校生の、男女のお付き合いの、赤裸々な実情を! みずほがほしい!」
最後は、ほとんど駄々っ子だった。自尊心のカケラもない。
「あれ。誰か、言いませんでしたっけ。ほら、また出ました、『本気の恋は忍ぶもの』! なんとなく、『秘すれば花なり』に通じますね、世阿弥ですね、さっすが国語科の先生! それにほら、女子生徒がほしいなんて叫んだら、淫行教師の道へまっしぐらですよ、風紀の鬼・土方先生?」
俺は、みずほに惚れている。全部が欲しい。初めての男になりたい。将来は結婚して、守ってやりたい。家族をつくりたい。
しかし、俺も長男。『歳三』なのに。
どうやって、みずほの両親を説得しようか、それだけが目下の悩みだ。
(了)
「応募した部門」フリーテーマ
400字程度のあらすじ
高校の国語教師・土方歳三(ひじかたとしぞう)二十七歳。教え子の咲久良(さくら)みずほに迫られ、恋人のふりをはじめる。咲久良は高校二年生ながら、家の方針で卒業後即結婚予定。婚約者は親が決めた、母の愛人でもある男性。婚約破棄が咲久良の目標。
早期に偽装の恋人関係を終わらせるため、咲久良の身辺を調査するが、母親は冴木鏡子(さえききょうこ)という流行作家であることを知る。鏡子は、土方がかつて小説新人賞を争った人物。結果、鏡子が受賞、土方は落選したばかりか、そのときの応募原稿を鏡子に盗作される。
土方は咲久良家に乗り込み、『大切なのは本人の意志』と説教。咲久良は婚約解消と進学希望を訴え、家族の了承を受ける。鏡子には盗作を認めさせ、恋人ごっこの関係は終了。咲久良を失った土方だが、愛していることに気がつき、改めて告白。快諾する咲久良だった。