課外授業は偽装恋人 先生、よろしくお願いします

 俺は本名のまま、作品を公募に出していた。俺の原稿に触れて読んだ咲久良は、俺を知った。そして、高校で出逢った。

 いや、それさえもあやしい。
 咲久良は俺を知っていて、俺が働いている高校を選んで受験したのかもしれない。俺に近づくために。

「先生はおとなしく、みずほの誘惑に乗っていればよかったのに。中途半端に聖職者ぶるのはよくないわ。ほんとうは、みずほの身体が欲しかったんでしょう。今からでも認めるなら、あげてもいいのよ。そうしたら、こちらもみずほとの関係を黙っていてあげる。でも、私のことも同じように愛して」

 とんでもない提案である。取り引きには条件、といったところか。

「先生、けっこう守備範囲が広くていらっしゃるようだし。教師と生徒とその母親の三角関係。ふふふ、新しい作品が書けそう。拒否したら、あなたを社会的に抹殺してあげる。みずほが、先生との仲を必死にアピールして、婚約解消に向けてアピールしていた証拠が、こちらには大量にあるのよ。高校に訴えたら、どうなるかしら」
「ごめんなさい、先生! 婚約解消できるなら、ほんとうは誰でもよかった。でも、あんな無理なお願いを頼めるの、身近には先生しかいなくて。でも、先生っていう職業じゃ、やっぱりアウトだった……みたい」

 坂崎が持っていた証拠写真は、咲久良当人が故意に流出したようだ。

 進んでも地獄、引いても地獄。体面を繕うには、咲久良と冴木鏡子の母子ふたりを相手にしなければならないし、あえて清廉な人間を主張すれば職を失う。

「あやまって済むと思ったら、大間違いだぞ咲久良。この世には、とんでもない悪人が相当数いる。善人面をかぶっている、悪魔がね」
「ママはずるい。私の好きな相手を、次々と奪うんだもの。坂崎さんだけじゃなくて、先生まで?」
「私は、咲久良家の責任を果たした。あなたも早くに結婚して子を生んで、そのあとに好きなことをすればいいじゃない」

 かつての咲久良は、坂崎のことが好きだったのか。確かに見た目は好青年だ、痛いほど分かりやすい。

「さ、先生。私の部屋へどうぞ。みずほも部屋に戻りなさい。これからは、おとなの時間」

 冴木鏡子は俺にしなだれかかった。咲久良のしぐさとまったく同じだ。おそらくは咲久良が真似ているのだろうが、似過ぎていて萎える。

「先生、どうかなさって?」

 反応しない俺に、冴木鏡子が入室を促す。
 俺とは二十ほど違うはずだが、歳の割には若くてきれいな女だと思うし、そもそも歳にはあまりこだわりがない。年上でもいい女は好きだ。しかし、冴木鏡子は受けつけられない。

「できません。あなたとはできません。過去のことはもちろん、孤立無援の咲久良を踏みにじることはできない。咲久良、行こう」
「先生……!」
「俺を辞めさせたいなら、どうぞご自由に。でも、婚約は解消だ。咲久良、行くぞ。それと忠告ですが、三角関係ばかりテーマにするのはどうかと思いますよ、陳腐です。おなかいっぱいです」

 咲久良の手をしっかりつないだ俺は、咲久良家を出ようと廊下を進みはじめた。とにかく、この忌まわしい家を出たい。
 感情で行動するなんてバカげたことをするつもりはなかったのに、俺は担任のクラスの女子生徒を連れて逃げようとしていた。これから、仕事はどうする。結婚はどうする。

 不安そうに、咲久良が俺にしがみついてきた。けれど、必死に笑顔を作っている。相当無理をしているようだ。手が震えている。

「だいじょうぶ、なんとかする。俺にまかせろ」

 そう答えるしかないが、そう言っている俺当人がもっとも不安だ。

 玄関までたどり着くと、人影がふたつあった。

「誰か、いる?」

 怪訝そうに見つめる咲久良に対し、人影のひとつが咲久良に向かって抱きついてきた。

「みずほちゃーん! みずほちゃん。ぼくのかわいい、みずほちゃん!」
 小太りでメガネ、頭の薄い中年。けれど仕立てのよいスーツを着ている。
 あ……この姿。婚約者なる男は、こんな感じかと勝手に想像した風貌。なるほど、婚約者ではなく、もっと身近な人物がそれに近い姿だったとは。

 どこかの変質者かと思ったが、それはインターネットの画像で見たことがある、咲久良の父親だった。

「パパ? どうしてここへ」

 咲久良も驚いている。
 パパ……この見た目で『パパ』かよ。『おっさん』の間違いだろ?

「みずほちゃん、ひとりにして悪かったね、ね、ね? ママがね、いつもね、みずほちゃんに近づくなと、うるさく言うからね、ごめんね。傷つけちゃって、ほんとうにごめんね、ううっ」

 年甲斐もなく、父はすでに号泣していた。
 これでも、議員なのか……この市の未来は暗い。おそるべし、世襲制度。
 お肌だけはいやにぴかぴかのつるつるで、頬の上では涙が宝石のように輝いている。

 あんな母でも、容姿は父親に似なくてよかったな、咲久良。
 と、本気で声をかけてしまいそうになるほど、対照的な姿をしている。咲久良は、自分よりも背の低い父を見下ろすようして、やさしくなだめている。

「泣き止んで、お願い。私、平気だよ」
「これから、みずほちゃんのことは、ぼくが面倒をみる! 結婚なんてさせるものか。ずーっと、一緒にいようね!」

 がしっと娘の手を握る、父。しかし、娘の顔つきは曇っている。しかも、一歩下がった。

「ええと、その件だけど。私、ここにいる先生と、駆け落ちすることにしたんだ」

 おいおい。その紹介の仕方、最悪じゃないか。見るからに、咲久良の父は病的なほどの娘溺愛なのに。
 しかも、駆け落ちってなんだ。俺はそんな宣言を一度もしていないのに、咲久良の頭の中ではそういうことになっているのか? 命の危険を感じた。

「な、なんだ、と。ぼくのみずほちゃんが、駆け……落ち?」
「咲久良先生、こちらはみずほさんの通っている高校の担任教師で、土方先生とおっしゃいます。みずほさんが困っているのを見て、親身になっていろいろと相談に乗ってくれたそうです。今夜もこんな遅い時間まで、咲久良家の問題に付き合ってくださったんですよ、土方先生おつかれさまでした」

 もうひとつの人影は、坂崎だった。数時間前に別れたばかりなのに、早過ぎる再会。『親身になって』の部分、やけに力が入っていたような気がしたが?

 坂崎の的確フォローが入り、咲久良の父は少し安心したように息をついた。

「そうでしたか。みずほちゃんの担任先生ですか、男前ですね。いやはや、お恥ずかしいところを見せてしまいました。ぼく、いえ私は普段みずほちゃ……娘と別居しているもので、久々に会えてつい調子が上がってしまいました。改めまして、咲久良みずほの父、剣です」
「こちらこそ、初めまして。クラス担任の土方です」

「ねえ。玄関先では失礼ですし、上がっていただいたら」

 廊下の奥から、冴木鏡子が気だるそうに歩いてきた。

「ひ、ひーっ。出た」

 咲久良の父は、冴木鏡子のことがよほど怖いらしく、傍から眺めて気の毒なほどに震え上った。

「あなたもどうぞ」

 冴木鏡子はすたすたと歩く。そのあとに坂崎が続く。

「パパ、歩ける?」
「みずほちゃんが支えてくれたらね」
「もう、仕方のない子。パパは、大きいのに甘えん坊だね」
「だって、みずほちゃんが大好きなんだもん!」

 こっそり帰ろうと思ったほどだった。しかし、俺の様子も咲久良は目の端に捕えていた。

「先生も行きますよ。帰りは車を出します。なんなら、泊まっていってください? 私の部屋に」

 話が終わり次第、すぐに帰ろう。俺は心に誓った。
 通された客間には、父・咲久良剣、母・冴木鏡子、娘のみずほ。それに、俺の四人が揃って座った。
 最後に、坂崎があたたかいコーヒーを持ってきて、勢揃い。

「どうぞ。粗茶ですが」

 出されたコーヒーは味わい深く、香り高く、軽い眠気と酔いを吹き飛ばした。粗茶なんて、とんでもない謙遜だ。

「みずほさんはミルクを入れますよね」
「はい。ください」

 自分の淹れたコーヒーに自信があるようで、しかも咲久良の好みは熟知しているといった目で坂崎は、俺のことを睨みつつ、どうだと言わんばかりにせせら笑んだ。
 咲久良も咲久良だ。俺の家に泊まったときは確か、ブラックでコーヒーを飲んでいたのに。涼しい顔をしていたが、あれはやせ我慢だったのか。

「で、呼んでもいないのに、どうしてあらわれたのよ。剣さん」

 続く沈黙に耐えられなくなったようで、腕を組んだ冴木鏡子が口火を切った。

「みずほちゃんは、ぼくが育てる。女親のほうがよかれと思って預けていたのに、結婚なんて絶対にさせないんだから。絶対に絶対に絶対に」
「待ってよ、私は土方先生と駆け落ち……」
「みずほは、咲久良家のひとり娘。よそさんにはあげられない。諦めて婿を取りなさい、ねえ坂崎さん?」
「冴木先生がそうおっしゃるなら、わたしはいつでも。ふふふ」
「いやよ。坂崎さんは、ママの恋人でしょ」
「な、なに? 坂崎くん、うちの妻と?」
「いいえ、元弟子というだけです。今は、咲久良先生の秘書ですよ」

「ちょっと待て、お前ら!」

 それぞれが、自分の都合のよい論を主張するだけで、話は一向に進まない。

「全員、黙れ。持論をひっこめろ。この調子では、夜が明けても終わらない。各自の意見を鬼教師・土方歳三が、順番に聞いてやる。ただし、ひとことだけだ。まずは、咲久良父!」
「は、はい!」

「最善の策は。どう考えている」
「ぼくがみずほちゃんを引き取る!」

「次。咲久良母」
「みずほの結婚(私に都合のよい男と)」

「……咲久良はどうだ?」
「婚約解消! 土方先生と同棲→結婚。でき婚でも可! でもでも、進学もしたい!」
「強欲者。三つも発言するな、ひとつに絞れ」
「じゃ、じゃあ……土方先生と、ほんとうの恋人どうしになりたい」

 こんな非常時だってのに、頬を赤らめて歳相応に照れるなよ。その愛らしさに、聞いている俺も恥ずかしくなる。

「次、坂崎氏は」
「みずほさんと結婚」


 なるほど。
 全員、まったく違うことを言ったけれど、結局のところ、咲久良本人の将来を案じていることに変わりはない。

「咲久良、もう一度だけ聞く。一番の望みはなんだ」

 皆の視線が、咲久良に集まった。咲久良は伏し目がちに、ローテーブル上のコーヒーカップを見つめていたが、意を決したように顔を上げた。

「……し、進学、したい。咲久良家以外の世界を、もっと知りたい。たくさん勉強しないと、先生の奥さんにはなれそうにないし。家事も、世の中のことも、もっと学びたい」

 ようやく、咲久良の本音を引き出せた俺は、心の中で自分に拍手を送った。
 がんばった、俺。ブラボー、俺!

「というわけだ、分かったかこのバカども。結婚だの婚約だの、咲久良にはまだ早いんだ。いちばん大切なのは、咲久良家のしきたりではなく、本人の気持ち。こいつを真実愛しているなら、たくさん旅をさせろ。もっと賢い人間に成長するだろう」

 皆がうなだれている中、俺はひとり帰り支度をはじめた。

「土方先生、待ってください。先生は、私とどうしたいの。先生のご意見をまだ伺っていません」
「先生のご意見? そんなの決まっている。平穏な教員生活だ。こんな騒がしい家とは無縁の暮らしをしたいね」

「嘘つき。先生の嘘つき! 先生の本音は、私と一緒にいたい。違いますか」
「恋人のふりは、これで終わりだ。明日から、志望校の分析をしよう。協力する。お前が、隠し持っている本来の学力なら、これから受験勉強をはじめても、じゅうぶん間に合う。付属以外の大学が合うと思う。俺の上着と鞄がお前の部屋に置いてあるはずだ。持って来い」
「先生!」

「早くしろ、明日も……いや、もう今日だな。今日も、学校がある。遅刻したら、許さないからな」


 翌朝。

 帰宅が遅かったゆえに長く眠れなかったが、早くに目が覚めてしまった。悪くない寝起きだ。さっと着替えて、日課のジョギングをする。淡々、黙々。今朝も富士山がうつくしい。

 咲久良が選んだ赤いシューズは俺の趣味ではないけれど、河口までずっと続く、色気のない土手沿いのランニングロードに華を咲かせてくれる。一歩一歩、踏みしめるように走る俺。単純。

 シャワーを浴びて出勤。
 朝食は職員室で軽くパンをかじり、風紀取り締まりの校内巡回に出る。

 変わらない、いつもの朝の風景だ。


 朝のホームルームで確認したが、咲久良はきちんと登校していた。いつもの表情。俺には無関心といった風を作っている。

「せんせー、今朝は目の下にクマあるよ」
「寝不足土方」

 生徒の冷やかしが飛ぶ。こっちは二十七のおっさんだ。まだ、それなりに若いつもりでも、夜更かししたら、すぐ顔に出るのは当然。若さあふれる高校生たちとは違う。

 一時間目、二時間目。俺は通常業務に戻っていた。
 三時間目は空き時間だったので、コーヒーを飲みながら国語準備室で、戻ってきた俺の懐かしい原稿をひとりで読むことにした。

 書棚に並んでいる、冴木鏡子の小説を取り出して席に着く。例の、『境界線』が掲載されている短編集だ。さっき、学校内の図書室で借りてきた。

 俺の書いた小説は長編、冴木鏡子の小説は短編ではあるものの、就職にあたって上京した男が田舎に置いてきた女を捨てるという筋はまったく同じ。
 よくある設定といえばそれまでだが、男が都会の暗部に触れて純粋さを失ってゆく過程も一致し過ぎている。だいぶ年月を経た今、久々に双方を読み返したけれど、やはり『クロ』だ。

 コーヒーを飲む。ただのインスタントだし、坂崎の淹れたものにはかなわない。けれど、落ち着いた。

 今さら、俺がどうこう言っても、すでにこの作品は冴木鏡子の血と肉になっている。あれから一作も書いていない俺と比較するのは間違ってるし、しろうとの俺が騒いでも抹殺されるだけだ。
 こうして、オリジナル原稿は手もとに戻ってきたし、流用した事実は冴木鏡子も認めた。謝罪はなかったけれど、俺の問題はじゅうぶん解決した。

 最後に、書いた本人が読んでやったことで、供養にもなったはずだ。俺は原稿の束をシュレッダーにかけた。あくまで事務的に、なにも感じずに。ほんとうは原稿を燃やして、この世から存在を消したかったけれど、火災報知器が鳴るのを怖れて、それはやめた。

 細々とした紙屑なった原稿を眺め、感傷にひたっている場合ではない。四時間目は、担任クラスでの授業だった。


 淡々と、日常が流れている。

 担任の授業となると、教師も生徒もお互いに緊張を緩めてしまい、いくらかダレる。
 授業前半はしっかり講義したが、後半は小論文の課題を出し、ラクしてしまった。今日は特に疲労もたまっている。やっぱり、歳を取った。朝は若いはずだったのに。

「先生、これ」

 やけに早く課題を終えた咲久良が、教卓までやって来た。

 おいおい、もうできたのかよ。開始五分しか経っていないのに。俺は不審に感じて提出された紙をざっと見た。最後の行までびっしりと書いてある。ちっ。俺は心の中で舌打ちをした。いいかげんや適当な仕上がりなら、突き返したのに。

 ん? なにか、用紙に添付されている。
 目立たないように、作文用紙とともに差し出したのは、白い封筒だった。

 これを手渡すために、課題をトップスピードで終わらせたらしい。こいつ、やっぱりできるんだな。利き手の手のひらの脇が、シャーペンの芯汚れで真っ黒だ。なりふり構わず、一気に書いた証拠。

 すぐに開くよう、しつこく目で促してくるので、ちらと教室の様子を確かめる。ほかの生徒は皆、課題に手こずっていたので、そっと封を開けて中身を取り出した。入っていたメモ用紙を読む。

『放課後、進路指導室で待っています』

 卒業後の相談か。前向きでいいことだ、俺は指で小さく丸を作って頷いた。了解のしるしのつもりだった。
 咲久良も、頷いて満足そうにほほえんだ。こいつの笑顔は、やっぱりいい。が、そのうち、誰かのものになるんだな……なるよな、当然。
 放課後が近づくにつれて、俺は浮わついてきた。

 早く、咲久良とふたりきりで話がしたかったのだ。昨日のこと、進路のこと。もしかしたら、感謝されたかったのかもしれない。

 だが、ふたりきりの時間が来るのを楽しみに待っていたと、咲久良に思われたくなくて、俺はわざとゆっくり進路指導室へ赴いた。
 どうせ咲久良のことだ、婚約問題から頭を切り替え、明るい将来に向けてひとりでもいろいろ調べていることだろう。

「待たせたな、咲久良」

 ドアを開いた瞬間、俺は全身硬直した。

 誰かいる。咲久良か?
 
 否。

 進路指導室にうずくまっていたのは、咲久良ではなくほかの生徒だった。髪型が違う。誰だ? 俺は必死に頭を動かそうとした。けれど、目の前の生徒を直視できないので、正体が分からない。

 なぜなら、生徒は女子で、上半身裸だったのだ。
 お前はどこの誰だ……聞きたいけれど、俺は声が出なかった。

「きゃあああああああああーっ! やめてください、土方先生。誰か、助けて」

 進路指導室を突き抜け、廊下に響き渡ったその悲鳴。

 俺は、すぐさま駆けつけてきた教職員たちによって、捕縛された。
 どういうわけか、俺は『女子生徒に手を出した、いかがわしい淫行教師』という嫌疑で、自宅謹慎を申しつけられた。


 処分が決まるまでは保留ということになっているものの、反論は認められそうになかった。校内では、俺に襲われたという女子生徒の訴えが全面的に肯定されている。
 教師にとって、悪い噂や評判は致命的だ。ましてや、女子生徒への淫行疑惑。社会的に抹殺されたも同然。

「冗談じゃない。あの部屋には三秒もいなかった。いくら俺でも、そんな短時間じゃなにもできないっつーの」

 俺は壁をたたいて日々を過ごした。

 進路指導室で俺を嵌めた女子生徒は、三年の女子だった。時間が経ってから、ようやく思い出した。

 あいつは、文芸創作部部長の彼女。

 彼女は部に入っていない。けれど、ときおり部長と一緒に俺のところへ顔を出すからわりと覚えている。直接、俺がクラス担任や教科を受け持ったことはない。

 しかし、薄ーい認識しかない女子生徒に、なぜ騙されたのか。呼び出しの手紙を持っていたのは、咲久良だった。そして、咲久良は来なかった。


 家族会議が終わったあと、咲久良本人からは、あの忌まわしい呼び出し手紙をもらっただけだ。
 もちろん、俺のほうから連絡してもよかったのだが、こちらから恋人ごっこ終了を切り出したために、言えなかった。今、下手に行動を起こして巻き込んだら、あいつも人生が終わる。

 まさか、あいつにも嵌められた? 用済みの男として、捨てられた? 俺は恋人ごっこを遂行する上で、あいつの家庭の事情を深く知り過ぎた……そういうことなのか? 教師と生徒の甘い青春物語かと思ったら、ミステリーだったのか?

「あんなにつきまとって来たんだし、あいつのほうからなにか言ってくればいいのに」

 血迷った俺は責任転嫁に走っていた。

 このままでは、女子生徒に手を出したという罪で解雇されるだろう。
 あんなところで裸になって待ちぶせなんて、俺を陥れるためでしかない。女子生徒の裸なんてほとんど見ていない。肩の端や下着をほんの少し垣間見て驚いただけだ。
 なのに、仕事を失うなんて。理由が理由だけに、再就職だって厳しい。積んだ、終わった、俺の人生。

「女って、つくづく怖い生き物だ」


 外出できないので、昨夜の俺は酔った勢いに乗じ、携帯の履歴に残っていた適当な女を部屋に呼び出してめちゃくちゃしたが、気分は晴れないどころか、猛省して沈む一方。
 ……さらに堕落してどうするんだ、俺。

 自己嫌悪のあまり、ベッドから一歩も出られない。我ながら、ひどい。
 そんなとき、部屋のチャイムが鳴った。しつこく、何回も。

 昨日の女かと思い、俺は無視した。始発電車は走りはじめたころ、現実に立ち返った俺は、女を部屋から追い出したのだ。我ながら、ひどい対応をする男。

 チャイムは鳴り止まない。耳を塞いだが、それでも鳴り続ける。

 不機嫌を引きずりながら、俺はインターホンの画面を見た。咲久良だった。
 しかも、マンションのエントランスではなく、すぐそこの、玄関ドア先に立っている。しかもしかも、制服姿のままで。

「げ、まずい!」

 はっとして時計を見上げると、午後五時前。下校途中で寄ったらしい。
 俺はあわてて玄関に向かった。廊下を、超短距離ダッシュだ。
 淫行教師のもとへ女子生徒が訪問……そんな姿が目撃されたら、万死に値する。

「あー、いたいた。こんにちは、土方先生。自宅謹慎中ですから、いますよね当然」

「……淫行教師の自宅マンションを制服でうろついていたら、ますます俺の弁解の余地もなくなるだろうに」
「だいじょうぶ。今日は、クラスの代表で来ました」
「女子のお前が、クラスの? 委員でもないくせに。不自然だろ。お前まで追い込まれるぞ」
「その点は心配ありません。クラスの大多数が、推薦で付属狙いです。内申書のために、目立つ行動はいかにも控えたいという雰囲気でしたので、外部受験をするふりをした私が、仕方なく引き受けたという感じにしておきました」

 なるほど、考えたものだ。クラス公認ゆえ、あえて堂々とマンションへ来たのか。

「みんな、おかしいって言っています!」

「みんなって、誰だ。おかしいって、なにが?」
「みんなとは、うちのクラスの生徒です。先生が、あの三年生女子に嵌められたことが、おかしいんです」
「あのなあ、嵌められたって、そもそもお前が手紙を俺に渡した時点で……」

 廊下を、マンションの住人が通りかかった。
 声を大きくしている俺を不審そうに横目で確認して行った。まずい、このまま玄関先で話していては人目につく。できれば部屋には上げたくなかったが、仕方ない。

「とにかく、少しだけ入れ。少しの間だけだ」

 俺は『少し』を強調した。

「はい。では、おじゃまします。先生、ずっと寝ていたんですか、寝ぐせだらけですよ。頭、もしゃもしゃ」
「ああ。日課のランニングもできない生活でね」
「それは御愁傷さまです」
「あのなあ」

「うわー。先日よりも、室内が荒れていますね。それに、女物の香水くさいです。換気しましょう」

 そう言って、咲久良は部屋の窓を全開にした。
 ふわっと、外気に包まれる。風が心地いい。ああ、外に出たい。籠の中の鳥だった。
「ふうん。自宅謹慎中に女性を連れ込むとは、いい根性していますね」
「お前のせいで、デートの約束を破ったからな、その埋め合わせだ。連れ込んだ程度で騒ぐな。俺はオトナの男だ。お前だって、以前はあの坂崎とかいう、いけ好かない男と……」

「自分の名誉のために言っておきますが、当時の私、坂崎さんには完全片思いでしたよ。私の、純粋な気持ちに気がついた母が、いやがらせで誘惑する過程を、逐一見せつけてきましたが」
「そうだったのか? じゃあ、お前はまだ処女……!」
「面と向かってなんてこと言うんですか、ひどい。生々しいですね。私は清い身です」

 そうなのか、俺は安堵した。よかった、咲久良は坂崎のものになっていなかった。ほっとしたあまり、ぐるる~と腹が鳴った。

「おなか、鳴りましたよ。空腹ですか」
「今日はなにも食べていない。冷蔵庫に、なにもない」

「手のかかる人ですね、先生は。なにか、買ってきましょうか」
「作っては、くれないのか」

「恋人ごっこは、解消されましたので。手短に、話をしたら帰ります。誤解されたら困るでしょう、先生も。今日は先日置いた私の荷物、お泊りセットを回収しに来たんです。証拠隠滅。で、本題に入りますが、学校では先生の処分について意見が分かれています」

 なんだ、もう食事は作ってもらえないのか。おいしかったのに。俺はひどく落胆した。特定の生徒と親密になるにはよくないことだと思いつつも、どこか咲久良には期待していた。

「分かれている?」
「はい。先生への厳重処分を求める派。言うまでもなく、被害女子生徒の友人たちと女性教師の大多数。先生、学校の女性教職員数人とも深いお付き合いをしましたね。土方先生は風紀を標榜しながらも、中身は至って軽薄だというもっぱらの噂です」
「う……」

 痛いところを突かれた。誘ったことはある。誘われたこともある。

「教師とはいえ、人間。自然の摂理」
「そんなことばで、簡単に騙されませんよ。一方で、下半身奔放教師・土方歳三を援護する、健気な一派もいます。うちのクラスの生徒です」

 おい、『健気』って、自分で言うか?

「先生は先日、結婚したいって話しましたよね。結婚を考えている先生が、女子生徒をしかも校内で襲うなんバカなことはしないって、みんなが先生を支持しています。結婚宣言、しておいてよかったですね。全世界を敵に回しても、担任クラスの生徒だけは先生の味方なんて、ドラマみたいで妬けます。もちろん私も、先生の潔白を信じていますよ」
「お前」

「私の場合は、知らず知らずのうちに、先生を罠に仕掛けてしまった負い目もあります。でもあの手紙、先輩から『部長からのことづけだから、あとで先生に渡して』と言われて預かったんです。中身は読んでいません」
「俺は、お前からもらった時点で、お前の手紙だと思い込んだが、そういえば……お前の字じゃなかったな。丁寧で綺麗な字だったが」

「先生、私に未練たらたらですね。いいですか、あんな素っ気ない封筒、私は使いませんよ。普通に事務封筒じゃないですか」
「ああ。確かにそうだった」

 現在、呼び出しに使われた手紙は証拠品として学校側に押収されてしまっているが、覚えている。よくある、ただの白封筒だった。

 以前、咲久良の進路調査票用紙が入っていた封筒は、女の子らしいかわいいものだった。少女趣味過ぎるほどに。

「それに、先生が入室したときには彼女、すでに脱いでいたという噂を耳にしました」
「その通りだ。俺が進路指導室に入ったときには、すでに。でも、証拠がない。それを言っても、脱いでいた脱いでいないの水掛け論」

「証拠になりそうなものは、あります。進路指導室の突き当り、廊下奥に設置されている、最近設置されたという監視カメラの映像です。先生の主張が真実なら、先生の入室後、彼女の裸に遭遇して、すぐに騒ぎになるはずです」

「それだ、咲久良! でかした! あのカメラが、俺の無実を晴らしてくれる」


 すぐさま、俺は学校に電話して、身の潔白を証明できる証拠の存在に気がついたと主張した。
 かくして、俺は無実放免となった。


 記録された映像を確認してみると、明らかに罠だった。

 俺が進路指導室に足を踏み入れた直後に彼女の悲鳴、あわてて部屋を出る俺、その後駆けつける教職員の姿が鮮明に映っている。この流れでは、さすがの俺だって女にはなにもできない。

 あっぱれ、物的証拠。咲久良のミラクルな助言で、俺の人生は助かった。


 部長の彼女は、今回の騒動について嫉妬ゆえ行ったのだと白状した。

 部長は、俺に心酔どころか、ひそかに恋慕っていたというのだ。もちろん俺も部長も、男。部長本人は叶わぬ恋と割り切っていたらしいが、彼女は面白くなかったらしい。
 そこへ、咲久良が入部した。咲久良を使える、と感じた彼女は咲久良に手紙を託し、利用した。俺はまんまと騙されたわけだ。


 よくもまあ、ここまで考えたもの。それこそ、小説にでも仕立てたら、きっとおもしろいネタになるだろう。現実とは奇なり。

「ほんとうにごめんなさい、先生」

 部長の彼女は、身体を半分に折り曲げるようにしながら誤った。部長も一緒に頭を下げてくれた。

「こいつの気持ちをくみ取れなかったぼくも、同罪です。咲久良さん、きみの洞察力はすごい。きみのような人になら、土方先生を任せられるのに。先生、咲久良さんと結婚してくださいよ。普段から、とても仲がいいじゃないですか」

 なぜか、俄然咲久良押しになった部長に、俺は辟易した。

「ありがとうございます、部長。ほんとうは私たち、すでに深いお付き合いをしているんです」
「おい、嘘はやめろ?」
「照れちゃって、やだあ。でも、内緒にしていてくださいね。教師と生徒ですから。土方先生のことは、私が必ず大切にしますので……とまあ、これはほんの冗談ですけど、クラス担任である今年度いっぱいまでは、せいぜいお世話します」
「頼もしいな、咲久良さんは」

 それを聞いた部長は満足そうに頷き、帰った。

 文芸創作部、しばらく休部となりそうだ。せっかくの、競作課題も中止。文化祭への参加もないだろう。来年は、忙しい運動部の顧問にさせられるかもしれない。


「残念でした。『恋』がお題の競作、楽しみにしていたのに」
「ほかの部員は、書かなくて済んで、ほっとしているだろうな。とりあえずの気持ちで所属している部員が多いんだ」

「ところで、ママに返してもらった、先生の原稿! 読ませてください」
「あれは、もう処分した。今ごろは焼却炉で灰」
「そんな!」

「お前、読んだんだろうが」
「ほんの冒頭だけです」

「いったい、どこで手に入れて読んだんだ」
「母が、たまに気分転換のためにリビングで執筆することがあるんです。そのときは、パソコンと先生の原稿を持って来ていたんです。その、母が席を外したときに、ちょっとだけ読んでしまいました。だって、土方歳三の書いた小説ですよ。気になりますよ。ことばの選びかたというか、感覚がいいなって思っただけで、熟読はしていません。時間もなかったし」

 当時、咲久良は中学生だったという。感覚がいい、と批評されるとは。

「俺のは、もう古い。次は、お前が書けばいい」
「私が?」

 驚いた顔をした咲久良だったが、やがて耳まで赤く染めた。

「書きたいんだろ。親の七光りとは無関係な場所で」
「はい……!」
「『恋』がお題じゃなくてもいい。なにか書いたら、持ってこい。添削してやるが、まずは受験だ」

 目の前の女生徒は、いい笑顔でうなずいた。
 これなら、もう俺がいなくてもだいじょうぶそうだ。

「先生、お世話になりました。しつこくつきまとったこと、謝ります。ごめんなさい。もう、しません」 

 お別れの挨拶みたいになっているが、これでよかったのだ。咲久良は本来進むべき道を歩きはじめた。まばゆいまでの光にあふれた、明るい道を。

「志望校選びだけ、相談に乗ってくださいね。留学も考えています」
「いいんじゃないか。親の監視から離れられて」
「金髪の彼氏ができたら、先生にも紹介してあげますね」
「望みは大きく持て。その日が来るのを、楽しみにしている」

 表面上は一生徒の自立を喜びつつも、作り笑いで手を振るのがやっとだった。