翌朝。

 帰宅が遅かったゆえに長く眠れなかったが、早くに目が覚めてしまった。悪くない寝起きだ。さっと着替えて、日課のジョギングをする。淡々、黙々。今朝も富士山がうつくしい。

 咲久良が選んだ赤いシューズは俺の趣味ではないけれど、河口までずっと続く、色気のない土手沿いのランニングロードに華を咲かせてくれる。一歩一歩、踏みしめるように走る俺。単純。

 シャワーを浴びて出勤。
 朝食は職員室で軽くパンをかじり、風紀取り締まりの校内巡回に出る。

 変わらない、いつもの朝の風景だ。


 朝のホームルームで確認したが、咲久良はきちんと登校していた。いつもの表情。俺には無関心といった風を作っている。

「せんせー、今朝は目の下にクマあるよ」
「寝不足土方」

 生徒の冷やかしが飛ぶ。こっちは二十七のおっさんだ。まだ、それなりに若いつもりでも、夜更かししたら、すぐ顔に出るのは当然。若さあふれる高校生たちとは違う。

 一時間目、二時間目。俺は通常業務に戻っていた。
 三時間目は空き時間だったので、コーヒーを飲みながら国語準備室で、戻ってきた俺の懐かしい原稿をひとりで読むことにした。

 書棚に並んでいる、冴木鏡子の小説を取り出して席に着く。例の、『境界線』が掲載されている短編集だ。さっき、学校内の図書室で借りてきた。

 俺の書いた小説は長編、冴木鏡子の小説は短編ではあるものの、就職にあたって上京した男が田舎に置いてきた女を捨てるという筋はまったく同じ。
 よくある設定といえばそれまでだが、男が都会の暗部に触れて純粋さを失ってゆく過程も一致し過ぎている。だいぶ年月を経た今、久々に双方を読み返したけれど、やはり『クロ』だ。

 コーヒーを飲む。ただのインスタントだし、坂崎の淹れたものにはかなわない。けれど、落ち着いた。

 今さら、俺がどうこう言っても、すでにこの作品は冴木鏡子の血と肉になっている。あれから一作も書いていない俺と比較するのは間違ってるし、しろうとの俺が騒いでも抹殺されるだけだ。
 こうして、オリジナル原稿は手もとに戻ってきたし、流用した事実は冴木鏡子も認めた。謝罪はなかったけれど、俺の問題はじゅうぶん解決した。

 最後に、書いた本人が読んでやったことで、供養にもなったはずだ。俺は原稿の束をシュレッダーにかけた。あくまで事務的に、なにも感じずに。ほんとうは原稿を燃やして、この世から存在を消したかったけれど、火災報知器が鳴るのを怖れて、それはやめた。

 細々とした紙屑なった原稿を眺め、感傷にひたっている場合ではない。四時間目は、担任クラスでの授業だった。


 淡々と、日常が流れている。

 担任の授業となると、教師も生徒もお互いに緊張を緩めてしまい、いくらかダレる。
 授業前半はしっかり講義したが、後半は小論文の課題を出し、ラクしてしまった。今日は特に疲労もたまっている。やっぱり、歳を取った。朝は若いはずだったのに。

「先生、これ」

 やけに早く課題を終えた咲久良が、教卓までやって来た。

 おいおい、もうできたのかよ。開始五分しか経っていないのに。俺は不審に感じて提出された紙をざっと見た。最後の行までびっしりと書いてある。ちっ。俺は心の中で舌打ちをした。いいかげんや適当な仕上がりなら、突き返したのに。

 ん? なにか、用紙に添付されている。
 目立たないように、作文用紙とともに差し出したのは、白い封筒だった。

 これを手渡すために、課題をトップスピードで終わらせたらしい。こいつ、やっぱりできるんだな。利き手の手のひらの脇が、シャーペンの芯汚れで真っ黒だ。なりふり構わず、一気に書いた証拠。

 すぐに開くよう、しつこく目で促してくるので、ちらと教室の様子を確かめる。ほかの生徒は皆、課題に手こずっていたので、そっと封を開けて中身を取り出した。入っていたメモ用紙を読む。

『放課後、進路指導室で待っています』

 卒業後の相談か。前向きでいいことだ、俺は指で小さく丸を作って頷いた。了解のしるしのつもりだった。
 咲久良も、頷いて満足そうにほほえんだ。こいつの笑顔は、やっぱりいい。が、そのうち、誰かのものになるんだな……なるよな、当然。