私服姿、わりといいかもと思った瞬間、たぶん俺は教師の道を外していた。
帰りの車の中、助手席に座る教え子・咲久良(さくら)の身体を、頭の中ではいけないと思いつつ、俺はぎゅっと強く、抱き締めていた。
華奢で頼りないけれど、そのぬくもりは、ほんものだった。
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「鬼教師、としぞー」
俺は、教え子たちからそう呼ばれている。
東京近郊の、とある県にある高校で、国語を教えている現役の教師だ。
高校のランクは、よくもないし悪くもない、『まあ普通』の範囲内に位置している。
女子の制服は、胸もとのリボンがちょっとかわいい。しかし、スカート丈の長さは、校則遵守! 煩悩退散!
俺の名前は、土方歳三(ひじかたとしぞう)。
もちろん、本名だ。
二十七年の人生を振り返っても、この名前のせいで、さんざんからかわれて痛くて苦い思いを、さんざんしてきた。
元祖の土方……幕末に活躍した『新選組副長の土方歳三』とは、遠い遠い親戚というか、いちおう末裔筋に当たるらしく、土方の本家に同じ名前を使ってもいいか、断りを入れた上で、俺に命名したらしい。
常々、俺の母は言っていた。
『副長の土方って、あんたと同じ五月五日生まれだって聞いてね。これは運命でしょ、運命。ま、しゃれだね。これも個性。一度聞いたら、忘れないよ』
名前の由来は単純な理由だった。
迷惑だ。
子どもの名前で遊ぶなっつーの。名前に、個性はいらん。
確かに、名刺要らずな名前には、相当な破壊力があった。
ただし、失笑の。
今どき、歳三ってなんだよ。長男なのに、『三』かよ。
同じ新選組でも、『総司』とか『勇』とかのほうが、まだ現代でも使えるし、ましだって。
改名するにはどうすればいいか、多感な中学生のころは本気で考えていろいろ調べたほどだった。
しかし、今はもう、諦めた。
斜め下方向に目立つ名前のおかげで、こうしてなついてくれる生徒がいるし、慣れた。
「おいお前ら、鞄の中に妙なもの隠していないか。風紀・進路指導の鬼土方が、御用改めしてもいいんだぜ?」
わりと顔立ちのいい俺が、冷たく笑ってそう啖呵を切ると、生徒たちはきゃあきゃあ喜んで廊下を走って逃げてゆく。
どうだ。これぐらいの返しは、うまくできるようになった。
「おい、そこ。廊下は、走らない!」
俺の声が、廊下いっぱいに響いた、いつもの朝だった。
今日は日曜だったが、朝早くから出勤だった。
教師には、休日出勤がよくある。ほんとうに、よくある。研究のための出張もあるが、多いのは部活動の指導だ。
国語という教科担当ゆえ、俺は文芸創作部の顧問を任されている。
部員は十名ほどの、小さな部。運動部などを割り振られたら、やれ練習だ、やれ大会だのと、貴重な休日が消滅してしまうので、俺はこの部を大切に大切に指導している。
趣味で、毎朝ランニングをしているなんて公言したら、絶対に運動部担当になってしまう。ゆるーい活動万歳、地味部大好き!
今日は、県外にある、有名作家の文学館を見学に行くことになっており、朝早く学校に集合し、学校所有のマイクロバスに乗った。
部活動の一環だが、制服では堅苦しいのではないかという意見が一部女子の間から挙がり、まあ息抜きでいいかなと、俺は派手でない範囲での私服を許した。生徒の側面を見る機会にもなると考えたからだ。
このやり方に、懐疑的な同僚も数人はいるけれど、生徒は特別感のある私服行動が大好きだ。修学旅行などで弾け過ぎないよう、素地を作っておくことも必要だとか生徒側に立った言い訳を俺は作りつつ、現在に至っている。
まあ、そもそも文芸創作部などに入部する生徒は元来地味で、行楽地に出ても、はじけようない真面目な粒ばかりなのだが、創作部は素敵な教師が顧問であり、私服行動がたまにあるという理由で、一定数の生徒を毎年それなりに獲得していた。このまま、安泰であってほしい。運動部、イヤ。ゼッタイ。
「体験入部の、咲久良みずほさん。先生、ご存知ですよね」
朝、部長が俺の前に連れて来たのは、俺が担任しているクラスの女子生徒だった。もちろん、俺は頷いた。
「おはようございます、土方先生」
咲久良みずほ。
高原の乙女をイメージさせるような、白いワンピースを着ていた。ほかの女子が身につけたら浮いてしまうかもしれないような難しい服を、さらりと着こなしている。
クラスの中でも、咲久良は控え目で、行動もおとなしい。いわゆる、目立たない子。そういえば部活動にはどこにも参加していなかったなと、咲久良のプロフィールを頭で思い浮かべた。
しかし、全世界が泣き出しそうな・圧巻の・王道・お嬢さまスタイル。
なかなかいいじゃないか。かなり化けるな。今まで、隠していただけか。俺の下心は、私服の咲久良を値踏みしていた。いやいや、教師としてあるまじき行為。自戒しろ。
「おはよう、咲久良。こんな時期に、体験入部か」
地味な文芸創作部への、中途入部は珍しい。こういう輩は、訳ありだ。
部の中に、気になる男子でもいるのだろうか。部内で恋愛関係になると、荒れる。少人数なら、なおのこと。それか、学校への点数稼ぎでの部活動?
だが、俺は笑顔を浮かべて本音を隠した。
「大歓迎だ。今日は一日、楽しんでいってくれ」
「はい」
「足りないところがあれば、どんどん提案してほしい。外部からの意見は貴重だ」
「ありがとうございます」
再び、咲久良は頷いた。いい笑顔だ。制服では気がつかなかった。白い服に、表情が映えているだけではないようだ。
これはわりと、好みのタイプかもしれない……おっと。
いやいや、俺はなにを妄想しているのだ。相手は生徒で、十歳も年下だ。奇妙でバカな考えは捨てろ。この妙な感情は、着ている服のせいだ。
バカな考え……いわゆる、『教師と生徒』の禁断の恋愛は、御法度のように言われているが、わりとある。ざらにある。諸先輩の実話をいくつも聞いてきた。
中には、きちんと手順を踏んで結婚したつわものも存在するし、生徒との深ーい仲が学校にバレてクビ、なんていう憐れな末路を辿った教師もいる。
俺は、生徒との恋愛は絶対にしないと思って教師生活五年目を迎えていたが、初めて咲久良にどきりとした。悔しい。不覚にも、小娘相手に動揺するなんて。
咲久良も咲久良だ。
いくら弱小文化部とはいえ、こんなお嬢さまスタイルの部活動ではないということを、今日はきちんと教えてやらなければならない。
ほかの女子は九割、健康的なTシャツに、定番ファストファッションのジーンズ姿。ほら、男子生徒が、咲久良の姿を見て赤くなっている。
俺が運転するマイクロバスで、目的地へと出発した。
新参の咲久良が浮いていないか、俺はそれとなく観察していたが、学年関係なく男子とも女子とも、そこそこうまく渡り合っていた。控え目だが、ただおとなしいだけではないらしい。
文学館の見学を順調に終え、次の部活活動日までに今日の感想をまとめておくことが宿題となり、帰路に着いた。しかし、困難はここからはじまった。
高速道路での事故による、大渋滞に巻き込まれたのだ。
学校への帰着時間は大幅に超過し、本来ならば学校解散のはずが、生徒の帰宅を考慮し、俺があちこちの駅まで送り届けることになってしまった。
最後に残った生徒は、咲久良だった。
白ワンピースは夜の暗さにも負けずに、明るい。
「私、わりと先生のおうちの近くなんですよ、自宅。もちろん、送ってくれますよね」
「ああ。当然だ。生徒の安全確保は教師の義務」
嫌とは言えない。体験入部のお前がいなかったら、今日の仕事はもう終わっていたのになんて、とても言えない。
俺は学校の駐車場にバスを戻すと、自分の車に乗り替えた。
正直、運転はもう疲れた。早く眠りたいし、ハラも空いている。時計は午後九時を回っていた。
「もちろん行ってやる。道案内、できるか」
「ええ。ありがとうございます」
俺は、脳内にある佐久良に関するデータを引っ張り出した。
確かに、咲久良の家は俺のマンションと同じ方向。車ならば二十分ほどで着くだろうが、咲久良の自宅の詳細が分からない。
「おい、家に連絡しろ。遅くなったが、これから帰ると」
「ええ? 子どもみたいですね」
「いいから早く」
「はーい」
ちょっと、ふくれて見せる。
外見はオトナっぽく、きれい系でまとめていても、こういう幼いところは、年相応かそれ以下だ。
「迷惑じゃなかったら、メシをおごってやる。お前、あちこち寄って、帰るのが最後になったからな。送迎、特別に食事付き」
「それ、いいですね! その条件、了解しました」
「なら、親に許可を取れ」
「ぐぬぬ……鬼畜!」
「さっさとしろ。学校に、置いて行かれたいのか」
そのひとことで、咲久良はバッグの中から携帯電話を取り出した。今どき女子高生、現金なものだ。
「……うん、そう。今、帰り。遅くなったから、先生が送ってくれているの。うん、だいじょうぶ」
「咲久良。電話、代われ。親御さんには俺から挨拶する」
俺は携帯をなかば奪うようにして、咲久良の親と話をした。遅くなったことを早目にきっちり謝罪しておくことは、とても大切だ。
幸い、咲久良の母親とおぼしき電話の相手は、了解してくれた。
餌付けして満足させたら、さっさと送り届けよう。これ以上遅くなると、いくら担任と生徒の関係でも、言い訳できないあやしい時間帯になってしまう。
咲久良の着ている、お嬢さま服には合わないなと思いつつも、俺は自分の家に近い、いつも通っている定食屋の、のれんをくぐった。
「いらっしゃい、先生。あら珍しい、若い女の子連れなんて」
いきなり、おばちゃん店員の、厭味の洗礼を受けた。
「放っておいてくれ」
「先生なのに、そんな若い子とお付き合いしていいのかしらねー。あやしい」
「頼みます。見ないでください!」
よく、大盛りサービスしてくれる、太っ腹のおばちゃんだが、今日は仔細を問われたくない。
しかし、咲久良は丁寧に頭を下げて笑顔で『こんばんは』と、あいさつしてしまっている。自己紹介までしそうな勢いだった。あわてて、俺は咲久良の手を引っ張って適当なテーブル席に座った。
こんな時間になると、この界隈で安定して美味な食事を提供してくれる店はここぐらいしか思いつかない。それに、下手に色気のある店になんて、生徒を連れていけない。
「とりあえず、なんでもうまい。とくに、中華系がおすすめだ」
咲久良は、店内を珍しそうに眺めている。
手書きのメニュー表が、壁一面にぎっしりと並んでいる。やや遅い時間とはいえ、そこそこ繁盛している。はっきり言って、そこらへんでチェーン展開しているファミレスには絶対に負けない。味もサービスも。早さも。
あえて弱点を述べるならば、庶民的で雑然としているところか。場末な雰囲気、それも独特な持ち味だが、女子どもには分かるまい。分かられてたまるか。
「先生、このお店はよく来るんですか」
「ああ。自炊は、ほとんどしないんでね。俺のマンションに近いし、車も停められるからな」
「先生のおうち、行ってみたい。見たいな、泊まりたい」
「バカ。今、何時だと思っている」
「じゃあ、昼間になら、訪問してもいいですか」
「愚問だっつーの。で、なにを注文するんだ」
俺は決めている。
中華焼きそば。セットのスープも、かなりいける逸品だ。ビールを頼みたいが今は車なので、ぐっと我慢する。
「先生のおすすめで」
こういう主体性のない女は面倒だなと思いつつ、俺はメニュー表を眺めた。
初めて連れて来られた店だ、緊張しているのかもしれない。しかも、若い女には縁がない系の店だろうし。
「じゃあ、中華丼とか、あんかけ系はどうだ」
総じて、女はとろみ系が好きだ。なぜか。
「はい。じゃあそれを、お願いします」
やがて運ばれてきた食事をとりはじめると、身体がアルコールを欲していることに気がついた。長時間運転によるストレスで、疲れているのだろう。しかしこのあと、咲久良を自宅まで送らなければならない、うう。なんという無常。
その俺の禁断症状を察したのか、咲久良はおとなびた笑みを浮かべた。
「お酒、頼んでもいいんですよ。我慢しないでください」
「まだ、お前を送る仕事が残っている」
「それなら、別に気にしないでください。私、先生のお部屋に泊まります。このお店から、歩いて帰れますよね。車は、ここの駐車場にひと晩だけ停められるよう、交渉します。お泊りに必要なものは、コンビニに寄って揃えますよ」
「あのなあ、お前」
「それとも先生のお部屋、女性ものの小物を完備していますか。私、誰が使ったのか分からないものって、共用できないんですよ」
「こっちの話を聞け」
「もちろん、聞いています。私、先生が好きです。結婚してください」
お、おいおい。こんな求婚ってあるか。しかも、雑然とした街の定食屋で。うれしくない。
「咲久良、もっと自分を大切にしろ」
「しています。ですから今日、どこにも行くあてのなかった私は、創作部の小旅行に参加しました。土方先生がいるから。実は私、親から婚約者を押しつけられていて。今夜、うちで待っているんです、相手が。家に帰るの、怖いんです。私、咲久良家のひとり娘だから、高校を出たら結婚しろと言われていて……でも、私はいやです、そんなの。もっと知りたい。勉強したいのに。世の中を知りたいのに」
咲久良は、ぐっと涙をこらえて中華丼を食べ進めている。たまに、唇をきゅっと噛むしぐさが、いじらしい。おいおい、まじか。
その、健気な姿に、俺は心を打たれてしまう。
「お前は若い。結婚なんて、早い。だが、さっき電話で話をした感じでは、ごく普通の親御さんだったようだが」
「あれは担任向けの、外面です。家の中では、ほんとにひどい鬼畜ですよ。先生、助けてください」
「担任の俺が、家まで送るって言っている。そのとき、判断する。俺も何年か教師やっているんでね。だいたいのことは分かる」
「でも、怖いんです。生徒の訴えを無視するつもりですか」
涙がこぼれた。咲久良は泣いている。
器用なことに、中華丼を平らげつつ。
理由はあれども、女子生徒を俺のマンションに泊めるわけにはいかない。
しかも、よくよく見ると、好みのタイプにけっこう近いのだ。なにか起きてしまうかもしれない。いや、このままでは起きるだろう。起こしてはならない。
食事を終えた俺は、さっさとお勘定を済ませ、おばちゃん店員に口止めをし、咲久良を助手席に押し込めると、車に乗った。
さっき、定食屋でトイレに行ったとき、住所録で咲久良の住所をこっそり確かめておいた。わりと近い場所だが、最終バスがかなり早くに終わる地域だった。やれやれ、自転車通学をすればいいのに。今夜のところは、送るしかない。
「いいか。俺は教師で、お前は生徒だ。学校でのことならともかく、家庭の事情には深く突っ込めない。相談ぐらいなら乗ってもいいが、こんな形で俺を巻き込むな」
「そこをあえてお願いしています、先生」
最後の手段とでも呼ぶのだろう、咲久良は身を張ってきた。
甘い声を出し、運転席の俺の身体の上に乗っかってきたのだ。大胆にも!
「先生、助けてください。こんなことを相談できるの、私には先生しかいないんです」
シートベルトが思った以上に食い込んで身体の動きを邪魔をするので、とっさに咲久良をほどけない。
生身の咲久良は想像より重く、甘い香りがしている。女だった。こんな場面、学校関係者に見つかったら、即免職だろう。
急直下、急展開。
しかし俺は、女子生徒を喰うつもりはさらっさらない。外見はともかく、中身は幼いままの生徒と恋愛なんてできるかっての。
ならばこの、俺の上に乗っかっている物体は、女子生徒ではない。ただの搭載物。俺の脳内で、せっけんの塊とでも置き換えて考えよう。うーん。甘いから、角砂糖かも。いや、このやわらかさは、つきたての餅だな。しっとり、むにむにの、もっちもち。食べたらさぞかし、美味……いや、やめておこう。
「おい、咲久良。離れろ、冷静になれ」
「いや。私、先生といたい」
こんなことなら、部員の勧誘など声かけするんじゃなかった。現状維持で、よかったのに。危険物件、俺の手には負えない。
高校生でも、咲久良からはしっかり雌の匂いがした。押しても押しても、くっついてくる。力づくで荒っぽく扱うこともできるが、けがなどさせてしまったら俺の査定に響く。
女から迫られるのは、悪くない。むしろ、心地よい。
けれど、時と場合による。
「咲久良、正気に戻れ」
「正気です。私のまわりで、手っ取り早く結婚できそうな人は先生しかいないんです。それとも、先生には心に決めた女性がいるんですか」
おいおい、軽くひっかけられる男なら誰でもいいのか。どうなってんだ、こいつは。
しかし現状、彼女や恋人と呼べる決まった女はいない。性格上、付き合ったりするのは面倒なので、最近はひと晩遊んで終わりの関係が多い。
俺はことばに詰まった。適当に嘘をついてもいいが、それでは俺の良心が痛む。
「いたらどうする。結婚はしなくても、俺はそこそこ遊んでいる。そういうの、咲久良の年ごろには汚く感じるだろう。やめておけ、な?」
「私が先生のことを支えます。だから、もう黙っていてください。今日、先生がずっと私のことを見ていたの、知っていますよ」
「それは、飛び入りのお前が心配で」
「だから、黙って」
バイパスを走る車のヘッドライトが、ときおり俺たちの姿を照らし出す。
唇を重ね合わせたあとは、なし崩し的に咲久良を抱き寄せていた。まるで青春小説かよ、と突っ込みたくなるほどに。
あたたかくてやわらかい咲久良の身体を、離したくなかった。好意というよりは、本能だった。女に飢えていたつもりなんてまるでないのに。むさぼるように、女の唇を追いかけた。
相手の女は教え子だった、と思い出したときはもう、遅かった。
ぱちり、と電子音。
「はい。証拠写真を撮りましたし、もう離れていいですよー。ご協力ありがとうございましたっ☆」
ちゃっかり、咲久良は俺との濃厚な絡み画像を携帯で撮影していた。
「おい、今の……! 消せ、消さないと、俺は」
「悪用はしません。ただ、私には本気の男性がいると、親に説明したいだけです。通っている高校の担任教師なんて、まさか言いませんよ」
いや、本気の相手なら、どこの誰なのかという話になるに決まっている、そのとき、俺が相手なんてことになったら……俺、破滅?
「頼む、今の画像は削除してくれ。証拠はまずい。いいか、落ち着け。困っているなら、恋人のふりぐらいはしよう。婚約が解消されればいいんだな。約束する。正直、お前のことはいいなって思ったし」
「きゃー、うれしい! では、契約成立ってことで。ふたりのときは、先生じゃなくて『としくん』って呼びます」
「と、としくん?」
「彼氏じゃなくて、恋人って響きはいいですね。『としくんの恋人』。とても気に入りました。としくん。私、キスが初めてでした。すごく……驚いたけど、としくんなら、まかせてもいいかなって」
そこで、にこりと愛らしい笑顔を見せる。
……くっそ、こいつめ。教師を手玉に取るなんて。性格以外は、文句なしにかわいいのに!
ともかく、俺は懇願し、抱き合う画像はどうにか諦めてもらい、再び車を降りて定食屋のおばちゃん店員に、ふたりの写真を撮り直してもらった。
肩に手を回すよう強要した咲久良は、『恋人』の俺に身を寄り添わせている作られた構図。しかし、どう見ても、初々しいカップルそのものだった。絶対、おばちゃんに誤解されたよ……どうすんだ。
「ふーん、まずまずですね」
「それを、親にはどのように説明するんだ」
「将来を誓った、大切な人。結婚を視野に入れた恋人。比翼連理、二世の契り!」
真顔で言うので、思わず吹き出してしまいそうになる。
「担任とは言いません。ただ、『社会人、サラリーマンです』、と。うちの親は先生の顔を知りませんし、騙すのなんて軽いですよ。あー、よかった。先生がやさしくて。あっ、でもこれからは、ほかの子にやさしくしたらだめですよ。濃厚画像のほうを、学校に叩きつけますからね?」
それって、ほとんど脅迫。
けれど、カップル画像を手にした咲久良はかなり上機嫌で、俺に送られて帰宅した。あまりの遅さに、婚約者はしびれをきらして帰ってしまったのだという。
咲久良の自宅は、ほんとうに大きな一軒家だった。暗くてよく見えないけれど、壁がずーっと続いている。聞けば、向かい・斜め・両・隣り、見渡す限り一面が、咲久良の持っている土地らしい。
門を解錠しながら、咲久良は振り向いた。
「そういえば、先生は文芸創作部を担当していますが、ご自分でも小説とか、詩とか書いたこと、あるんですか」
「書かない。今の俺は、現場監督みたいなものだ」
「『今の俺』ってことは、昔の先生は」
「学生時代だ、学生……見よう見まねで恋愛小説を書いて、とある新人賞の最終候補に残ったことがあったが、審査員のひとりに完全否定されて小説家デビューはできなかった」
「見よう見まねって、自分の経験談ですか」
「言わせるな」
「是非、読んでみたいですね」
「やめとけ。しろうとの作文レベルだぞ。駄文」
「いいえ。元文学青年、照れないでください?」
「原稿の元データは、なくした。提出したものも、返却されなかったし」
咲久良は小さく首をかしげて笑った。いい笑みだ。自分のセールスポイントをよく理解している。
「楽しみにしていますね。読んだら、今度は私が書きますよ。文芸創作部に入って、先生の仇を討ちます。それじゃ、先生。また明日」
仇。話が壮大になってしまったが、早く帰したいので俺は笑顔を作った。
「おう。気をつけて」
「ありがとうございます」
「ああ、そうだ。先生、プライベート用の携帯番号とアドレスを教えてください。これから、恋人どうしになるんです」
「ふりだ、恋人のふり。間違えるな、そこ重要」
確かにいろいろ、打ち合わせなければならない。学校では人目につく。
俺はメモ用紙をちぎると、街灯を頼りに綴った走り書きを咲久良に手渡した。
「うれしい、としくん」
遅い帰宅に、叱られるだろうけれど、咲久良の脚はステップを踏むように軽やかだった。闇の中で、白いスカートがぼんやりと翻った。
「……原稿、『なくした』んじゃなくて、『捨てた』が正しい、かな」
その夜、電話なりメールなりなにか連絡が入るかと、やや期待していたけれど、咲久良からはなんの着信もなかった。
からかわれたのか?
そもそも、あんなに手馴れた誘いかた、ごくごく普通の高校生ができるものなのか?