「狭いですけど、どうぞ」
 来客用のスリッパを取り出し、ヤマナカエイスケを招き入れた。ヤマナカエイスケはどこか緊張した面持ちで恐る恐る、お邪魔しますと呟いた。
「いつから一人暮らしなの?」
 ヤマナカエイスケはコートを脱ぎながら聞いた。キョロキョロと視線が定まらない。
 那月がその挙動不審な男ののコートを受け取りハンガーにかけるとありがとうと柔和な笑顔を見せた。
 ああこの笑顔だ、と思った那月は口元が緩みそうになるのをこらえて、ビアグラスを出した。
「4年生になってからです。自立したくて。」
「偉いな那月ちゃんは。」
 ヤマナカエイスケの厚く大きな手が那月の頭をぽんぽんと撫でた。ヤマナカエイスケの掌の感触を感慨深く思いながら、那月はビアグラスに綺麗に注いだ缶ビールをヤマナカエイスケの前に差し出した。
「ありがとう。」
 ビールを一口含んでゆっくりと喉を潤す。苦さが喉の奥で名残惜しそうに流れていった。
 そしてゆっくりと長く息を吐いた。
「さて何から話そうかな。」
 先に口を開いたのはヤマナカエイスケだった。
 もう一度今度は短く溜息をついた。那月がゆっくりと声を発した。
「私知りませんでした。」
 ヤマナカエイスケが小さく頷く。その表情は那月が既に俳優ヤマナカエイスケの存在を知っていることを理解しているようだった。
「ユウちゃん。」
 それはあの朝ドラで見た童顔で可愛い大学生役のヤマナカエイスケの役名、太田祐樹の愛称だった。ふははとヤマナカエイスケが笑った。
「笑うところじゃないです。」
 那月がムッとしてヤマナカエイスケを上目遣いで見つめると彼は少し嬉しそうに笑ったままだった。
「そうだねごめんごめん。」
 そう言いながらもヤマナカエイスケの口角は上がったままだった。
「どうして教えてくれなかったんですか?」
 ヤマナカエイスケは少し口籠った。その童顔で少し可愛い雰囲気を残したままで、それでいて本当のヤマナカエイスケは大人の男性なのだとどこかで色気をも感じる憂いを帯びた表情に那月は不覚にもどきりとした。ビールを口に含んで、もう一度言葉を選んでいるようでもあった。
「那月ちゃんに偏見を持って俺のこと見て欲しくなかったんだよ。」
 那月が小首をかしげた。
「俺の周りには、俺が俳優だ有名人だって理由で俺に近づいてくる女の子がいっぱいいる。」
「いっぱい、ですか?」
「まあ、嘘じゃないよね。いっぱいいる。」
 那月は分かりやすく溜息をついた。
「でも那月ちゃんがそういう理由で近づいてきて火傷しちゃ可哀想だからさ。」
 自分が俳優であると認めたその男がふざけるようにヘラヘラと笑うのを見て、那月はまた溜息をついた。
「なんてのは冗談だけど、当時未成年だった那月ちゃんの未来を潰しちゃいけないと思った。」
 そのままヤマナカエイスケは続けた。
「俺は大学を卒業できなかった。だから、那月ちゃんには勉強したり、やるべきことやりたいことに一生懸命になってほしかった。」
 一度はふざけたヤマナカエイスケは再び真っ直ぐな視線で那月を見つめ、憂いを帯びた表情で少し悲しそうに笑った。
「実は、那月ちゃんが高校生の時倒れたあの時、一目惚れだったんだ。可愛い子だなと思っていたらふらふらと倒れ込んだ。転ぶ前に身体を支えたんだけど、その時にはもう君は意識がなくてね。真っ白な君はどこかのおとぎ話から出てきた眠ったままのお姫様かと思うくらい美しかった。」
「まあ貧血で青白かっただけですけど。」
 ヤマナカエイスケの口からこぼれ落ちる口説き文句に那月が口を挟むとキッと睨まれた。
 あの駅で倒れた時にどこも打撲しなかったのはヤマナカエイスケが支えてくれたからだったとは那月は思いもしなかった。
 時計の長針と短針がてっぺんで重なった瞬間突然ヤマナカエイスケが切り出した。
「ねえ今日俺誕生日なんだけど。」
 那月がポカンとしているとヤマナカエイスケは続けた。
「何かプレゼント頂戴。」
 アラサー男が無邪気に笑う。
「何も用意してないですよ!?え!?ほんとに?」
 那月は焦って早口になった。キョロキョロと部屋中を見渡してみてもプレゼントになりそうなものは何もない。
「うんほんとに。」
「でも、でもーー」
 吃っていると再びアラサー男が笑った。
「じゃあさ、プレゼントにちゅーして?」
 この人は何をいうか。那月は目をまん丸くさせて動きを止めた。22歳になるまで真面目にほぼ勉強一筋で生きてきた那月は、彼氏もできたことはないしキスをしたこともない。耳まで赤くなるのがわかった。
「おいで。大丈夫だから。」
 腕を掴まれて引っ張られるとふらついてアラサー男の隣に座ってしまう。二人の膝がぶつかる。そのまま腰に腕を回されて抱き寄せられる。仄かな煙草の匂い。綺麗な肌。垂れた目尻。ピアスホール3つ。
 それは本能的な動物的な衝動だった。ヤマナカエイスケが那月の頬を親指で撫でると掌から熱が伝わって那月の頬も熱を帯びた。
 那月の潤んだ瞳にヤマナカエイスケが映っていたし、彼の瞳にもまた那月が映っていた。
 そのまま、どちらからともなく短い口付けをした。
 そして那月はおめでとうございます、と続けた。初めてのキスはビールと、仄かな煙草の味がした。
 身体を離そうと少しヤマナカエイスケの胸を押す。
「もうちょっとこうしていたい。」
 ヤマナカエイスケがまた、子犬のような上目遣いで那月を見上げた。
「だめなことないけど、いや、嬉しいけど、いや、そうじゃなくて、もう心臓もたないから、離れてください。」
 那月が少し焦ってヤマナカエイスケの胸を押すと少し口を尖らせてゆっくりと離れた。
 いつの間にか二人ともビールがなくなっていたので、那月はジャスミンティーを入れることにした。ジャスミンティーからのぼる湯気が揺れて空中で消える。淡く甘い香りが立ち込める。
 ヤマナカエイスケがゆっくりと話し始めた。
「那月ちゃんの受験番号覚えてる?」
「え?」
 那月は全く記憶になかった。小首を傾げているとヤマナカエイスケがスラスラと数字を唱えた。
「00120025」
「よく覚えてますね」
「うん、合格発表の日に偶然駅で会ったでしょ。受験票に書いてある受験番号見て驚いたんだ。運命的な何か。俺の誕生日だなって。またいつか、偶然出会えることがあったら、きっとそれは本当に運命だと思った。」
 ヤマナカエイスケは柔和に笑いながら、あちちとジャスミンティーを啜った。どうやら猫舌のようだった。
「那月ちゃんと出会った頃。そう、那月ちゃんが駅で倒れた頃ね。まだ俺はテレビへの出演は少なくて、後から出てきた事務所の後輩たちがどんどん売れてくのを見て、もどかしい思いもしてた。もちろん頂けるお仕事には全力で取り組んでいたし、俺のお芝居を認めてくださる監督もいた。」
 こっちおいで、とヤマナカエイスケに抱き寄せられた。
「くっついてないと寒い。」
「じゃあエアコンの温度上げます。」
「違うの。くっついてたいの。」
 一度は解放されたはずの抱擁に再び捕獲されたがもう拒めなかった。甘えた声と表情のヤマナカエイスケが愛おしく思えて離れるのが勿体無かった。
「再会した時。あの合格発表の日、自信に満ち溢れていて、前向きで一生懸命な那月ちゃんの若いパワーが眩しくて。ああ俺も頑張ろうって思ったんだ。最初は一目惚れだった君に力をもらったんだ。」
 ヤマナカエイスケは那月が知りたかったこと、知らなかった全てを一つ一つ吐露した。言葉を紡ぐようにゆっくりと。
「私もです。」
 すうっと息を吸い込んだ。
「ヤマナカさんとお食事行ったあの、GWに行ったイタリアン。あれ以降、毎日を一生懸命過ごした。勉強も、バイトも、自分磨きもした。」
「那月ちゃん頑張り屋さんだから。」
「ふふふ。ヤマナカさんに見合う女性になりたくて、一つ一つ大人になろうと思った。」
「そうだね、一緒にビール飲めるようになったしね。」
 ヤマナカエイスケの大きく柔らかな手が那月の髪を撫でた。
「これからは、どうするの?もう就職だよね?」
「就職先は大学病院の病棟勤務が決まっています。希望科は出してありますけど通るかどうかはわかりません。でもそれ以前に国家試験に受からなければ意味がなくて。」
 そんな風に伝えるとヤマナカエイスケが柔和に笑って、那月の頭を今度はぽんぽんと優しく撫でた。
「那月ちゃんなら大丈夫。俺もついてる。」
 心配などしていないとでも言うように、ふははとヤマナカエイスケが笑う。
 楽しい時間はあっという間で、いつしか新聞配達の自転車の音がする時間帯になった。
 ヤマナカエイスケがベランダに出る。
「ヤマナカさん寒いですよ。」
 まだ仄暗い空は夜と朝の丁度間のグラデーションだった。空気がツーンとして、鼻先を冷たい空気が通り過ぎる。ヤマナカエイスケが息をはーっと吐くと真っ白になった。
「ほら、月が出てるよ。」
「ほんとだ。」
 細い下弦の月が光っていた。
「「月が綺麗ですね。」」
 二人の声が重なった。