那月が在籍する某国公立大学保健学科看護学部では1~3年で座学と実習をこなし、4年で研究と国家試験対策をする。就職は半数以上が系列の大学病院へ、残りは地元に帰る学生もいれば保健師になって企業へ就職する学生、はたまた助産師資格取得を目指す学生もいた。
 那月は倒れてから病院にかかることが多く、いつしか憧れ看護師を目指すことにしていた。
 勉強は好きだから座学は良かった。だが実習は指導者と教員との狭間で板挟みに遭うことも多く挫折しそうになることも多々あったが、なんとか全ての単位を取得した。
 那月はヤマナカエイスケと約束した、今しかやれないことを存分にやった。
 勉強も、バイトも、自分磨きも。運動は苦手だったが、ウォーキングから始め5km程度のジョギングなら難なく走れるようになった。
 更に実家暮らしだったが両親を説得して一人暮らしを始めたのは4年生の4月からだった。順調に国家試験をパスすれば大学病院に就職が内定していた那月は大学病院の自転車圏内に小さなアパートを借りた。一人暮らしは自由そのものであったが、油断をすれば体調を崩しそうになったし、実際に風邪をひいたときなんかは誰かの助けを求めたくなった。帰宅すると既に出来上がっているほかほかの夕食も、脱衣所に脱ぎ散らかしておけば綺麗に畳んで戻ってくる洗濯物も、全ては母あってのことだった。
 ふとあらゆる負担に挫折しそうになるとヤマナカエイスケのことを思い出した。彼のことを考えるだけで頑張れた。
 一人暮らしを始めてからテレビを持たなくてよいと購入しなかったが、就職して引っ越すというバイト先の隆二が24インチのテレビを譲ってくれたのを機にテレビを見るようになった。実家にいるときも実習中は朝が早くテレビを見る時間はなかったが、4年生になって朝少しゆったりできるようになりテレビをつけて支度をすることが増えた。
 その日たまたまテレビの電源を入れるとNHK朝の連続テレビ小説が映った。
 オープニングはここ数年で有名になった男性シンガーソングライターだった。
特別好きというわけでもなかったがなんとなく朝から元気が出るBGMだと思った。朝食のトーストをかじると少し焼き過ぎていてパンが硬かった。もぐもぐと咀嚼しながら引き続き朝ドラを見た。
 適温になったポタージュを飲もうとキッチンに木のスプーンを取りに行く。テレビを背にした瞬間、聞き覚えのある声がした。急いで振り向くと木のスプーンが那月の手から落ちた。
 テレビのステレオからヤマナカエイスケの少し低くて柔らかな声が聞こえた。穏やかな表情で笑うそれは明らかにヤマナカエイスケで、那月の知っているヤマナカエイスケと同じなようでそうでないような気もした。
大学生役のヤマナカエイスケはアラサーとは思えぬ若いオーラを振りまいていた。
「可愛い。」
 心の声が漏れていた。
 あれから3年。あのご飯から3年。
 確かに忙しくてメディア媒体から離れ気味ではあった那月は自分が一緒にご飯に行った人が俳優だったってことに気づかなかったことを悔やんだ。
 ヤマナカエイスケに会いたい。声が聞きたい。あの笑顔が見たい。
 それは俳優ヤマナカエイスケに向けられたものではなく、久しぶりに目にした懐かしい人に対するものだった。3年間抑えてきた欲求がふつふつとこみ上げてきていた。那月は自分で認めることができなかったその思いが、ダムが崩壊するように抑えきれなかった。胸がぎゅっと締め付けられた。
 一度食事に行ったくらいで厚かましい気もした。しかし気づいてしまったその感情をどうにか伝えたい気持ちもあった。
 だがヤマナカエイスケの連絡は知らなかった。ましてや朝ドラ出演中でとても忙しいことは想像がついた。バイト先のカフェがヤマナカエイスケの生活圏だったとしても多忙であれば偶然会えることは稀であると那月はやっと理解した。
一通り興奮して、想いが溢れかえった後那月は寂しくなった。
 きっともう手の届かない人なんだろう、と那月は思った。有名な人があんなお客さんの多いカフェになんて二度と来ないと思うとなんだかぽっかりと胸に穴が開いてしまったようだった。
 悶々と考えた末、ヤマナカエイスケとの思い出は大事にしまってしまうことにした。楽しみにしていた俳優ヤマナカエイスケの出る朝ドラもいつしか最終回を迎えた。もう朝のNHKをつけても、もう俳優ヤマナカエイスケは出てこない。
 追いかけることが嫌になってまたテレビをつけない日々が増えた。
 ヤマナカエイスケのことは良い思い出だったと思うことにして、那月は勉学に打ち込んだ。夏の間ずっと研究室や図書館で論文を書いた。やっとの事で研究が終わって、あとは国家試験対策メインで卒業試験も視野に入れて勉強に励むことに決めたのがもう秋も深まり、そろそろ冬物のコートを出そうか悩み始めた頃だった。
 ヤマナカエイスケも、忙しい中頑張っている。今やるべきこと、今しかやれないことをやる、と那月は切り替えた。
 それから毎日10時間国家試験対策と、週に3回のバイトをこなす日々が続いた。
 クリスマスイヴと当日のカフェは昼夜問わずお客さんが多く、スタッフ増員で回していた。例年通り今年も大盛況で、休憩もなかなか入れず、ずっと途切れなくバタバタしていた。
 閉店10分前、ラストオーダーも終わって厨房は片付けに入っていた。ホールの掃除はまだこれからで掃除のできる席から少しずつ掃除していた。
「紺野ちゃんそこ終わったら上がっていいよ。」
 店長が厨房から那月に声をかけた時には既に23時を5分回っていた。
「じゃあお言葉に甘えてお先に失礼しまーす。」
「お疲れ様でーす。」
 バイト仲間にに声をかけ自転車に跨った。
 自宅までここから自転車で5分、小腹の空いた那月はコンビニに寄ることにした。
 明日も昼からバイトだから朝食用にパンをひとつ。サラダチキンと、低糖質の缶ビールをひとつ。クリスマスイヴにサラダチキンと、低糖質ビール。なんて寂しい女子大生なの、と打ち伏しがれながらレジに向かう途中にパンを選んでいた。
「よう。那月ちゃんじゃないですか。」
 那月がこの声を忘れるわけがなかった。
「ヤマナカさん...。」
 振り返る前には声を発していた。恐る恐る振り返り見上げるとブリーチしたような茶髪のヤマナカエイスケが立っていた。
「元気だった?」
 はい、と返事をするのが精一杯だった。
 もう3年以上も会ってない。テレビで目にしてしまったせいでなんだか、どんな顔して話したらいいのか分からなかった。
 那月が言葉に詰まっていると、子犬のような瞳でヤマナカエイスケが見つめた。
 止まっていた時間が、ギーっと音を立てて歯車が動き始めた音がした。
「あの、ここではなんですし、そのうちに来ませんか?」
 自分でも驚くほど、突飛押しもなくて積極的である。
「え?」
 まさかそう来るとは思っていなかったであろうヤマナカエイスケが目を見開く。
「この近所で一人暮らしをしています。ここで立ち話も微妙かと。」
 確かにね、と頷きながらヤマナカエイスケが納得したように呟いた。
 ヤマナカエイスケも缶ビールを1本、那月が持っていた買い物カゴに入れて、カゴを奪い取って、さっとレジまで運んでさっと会計を済ませた。
 二人で並んで歩くのは3年半以上ぶりであった。
 恥ずかしいような、気まずいような、でも本当はヤマナカエイスケに会えて嬉しい気持ちが強いのも確かだった。