那月は入学式前に髪を染め、ピアスも開けた。
今まで我慢してきた分青春謳歌するんだ、と両親に告げたら、父はワンピースを2着買ってくれ、母は化粧品一式フルセットで買ってくれた。
大学での友人もでき、念願だったカフェでのバイトも決まり、那月の大学デビューは上手くいった。
ただ一つ、入学して以降、ヤマナカエイスケと一度も会えずにいた那月は合格したことを報告できていないことを気にしていた。
だが那月はヤマナカエイスケのこと何も知らなかった。年は幾つで、学生か社会人か、はたまた好きなものは嫌いなものは何か、知りたい気持ちが募った。
知りたいと思うこの気持ちも、あの笑顔ももう一度見たいという欲求も、那月はなんだかそわそわして落ち着かない日々を過ごしていた。
楽しいはずの毎日に物足りなさを感じ始めていた。
それでも日々はどんどんと過ぎていって、街路樹は新緑が美しくなり、気づけばゴールデンウイーク。
大型連休中のカフェは定休日無視で連日営業だという。目まぐるしい厨房内。ドリンクのコップがもう無くなりそうなくらい忙しかった。
那月が小さく短いため息をついた。
「大丈夫?紺野ちゃん。」
「はい、大丈夫です。」
一つ年上の大学生、渡刈隆二が声をかけた。那月がへらっと愛想笑いしながら小さく敬礼をすると、隆二が那月の肩をトントンと叩いた。
「今ちょっとキリついてるから休憩室行ってちょっと休んでおいで。」
「でも...。」
「いいのいいの先輩に任せなさい。」
隆二がニカッと笑った。
隆二の言葉に甘えて休憩室で机にうつ伏せる。
流石に疲労を感じていた。休憩室に置いてあるチョコレートを口に放り込むと甘さが溶けて口中に広がってなんとなく疲れが取れる気がした。
大きく伸びをして、浮腫んだ脹脛ををトントンと叩いて気合を入れた。
休憩室から戻ると数組既に会計が終わっていて、テーブル片付けている隆二と目が合った。ペコっと会釈をすると隆二は再びニカッと笑った。
ピーク時に来ていたお客さんが大半帰った頃には17時を回っていた。18時には遅番と交代するため気合を入れ直した。
カランカランという音を立ててカフェ扉が開いた。少し肌寒くなり始めた風がすっと通った。
「いらっしゃいませ。お一人様ですか?カウンター席のお好きなところどうぞ。」
いつものように、声を1トーン上げて席案内をする。お冷を汲んでカウンター席の1番奥へ座った男性の前に優しくコトンと置いた。
「ご注文いかがなさいますか?」
帽子を取った男性がコーヒー。ホットね。と柔和な笑顔を見せた。
「や、ヤマナカさん。」
思わず声を上げて、暫く瞬きをした。
「やっぱり紺野ちゃんだ。」
またへらっと柔和に笑う。この笑顔に那月は今までも癒されてきたのだった。
「ほらほら先輩の目が怖いから、コーヒーお願いね、おねえさん」
レジのところで点検をしていた隆二が不思議そうにチラチラとこちらを見ていた。
コーヒーを淹れながら那月は考えた。話したいことも聞きたいこともある。だが今ここでは聞けないと。
「お待たせしました。ブレンドコーヒーになります。」
「ありがと。」
あちちと言いながらヤマナカエイスケがコーヒーをすすり始めた。
そのコーヒーカップの底が見えたのが18時まであと5分というところだった。
「ご馳走様でした。」
レジでお会計をしながら那月は勇気を出して伝えた。
「この後お時間ありませんか?」
「いいよ。」
即答だった。ヤマナカエイスケが恐らく伊達眼鏡であろうそれをくいっと上げていつもの笑みを見せた。
「18時で終わりなんです。」
「いいよ、いいよ待ってるよ。」
18時になった瞬間タイムカードを切って、隆二に簡単に挨拶して店先で待つヤマナカエイスケの元へ急いだ。
「おまたせ、しました。」
少し息を切らしてヤマナカエイスケの元へ行くと笑われた。
「そんなに急がなくても俺は逃げないよ。」
一人称は俺だったっけ、と那月は思った。
「お待たせしてはいけないと思いまして。」
「大丈夫だよ、那月ちゃん。」
さらっと呼ばれた下の名前にキョトンとしていると目の前に手のひらをかざされた。
「おーい聞いてる?ねえ飯食べてもいい?あ、でもそれならお母さんに連絡しないとまずいよね?」
「わ、ごめんなさい。じゃあ母にメール打っときます。」
「よしじゃあ、俺の行きつけが近くにあるからそこ行こう。」
夕飯食べて帰るなら親に連絡しなきゃなんて、ヤマナカさんはちゃんとしてるんだな、なんて感心してたらもうお店に着いたようだった。正味5分ほどで着いたそこは赤と緑と白の国旗が掲げられていた。
「女の子ってこういうお店好きでしょ?」
とても女ったらしっぽい発言に、那月はちょっと胸がちくっとした気がしたけれど気にしないことにした。なんとなく見覚えのあるその店構えに店先のメニュー。
「ここって有名なとこじゃないですか?」
「お、知ってる?」
「インスタで見たことあります。いちごのパフェが映えるって聞いたことあります。」
よくお洒落な友人達が一度は行くべきと言っていたイタリアンだと気づいたのは店に踏み入ってからだった。
「いらっしゃいませヤマナカさん。奥の席とってありますよ。」
ギャルソンエプロンの比較的若い男性店員が席まで案内してくれる。
「ヤマナカさん常連ですか?」
「常連ってほどじゃないけど、女の子連れてくるのには無難なお店だからたまに来るよ」
再び放たれる女ったらし発言に先ほどと同じように再び胸がちくっとした気がした。
「俺はスプマンテ飲むけど、那月ちゃんはどうする?」
「じゃあ、ジンジャーエールを。」
「食べれないものは?」
「特にはないです」
「ジンジャーエール甘い方一つとスプマンテグラスで。あと生ハム入れて適当に前菜作ってくれる?あと、パスタ2種類シェアしようか。」
何も言ってないのにジンジャーエールは甘い方を頼んでくれたヤマナカエイスケはさらさらさらとまるで定型文でも読み上げるように食べ物も注文すると、メニューを閉じてさっきの男性店員に渡した。
唖然としている那月をヤマナカエイスケが覗き込んだ。
「どうしたの?」
「なんか、ヤマナカさん大人ですね」
「そりゃあもうアラサーですから」
童顔の目の前の男性がまさかアラサーだなんて思いもしなかった那月は唖然とした。
「那月ちゃん、心の声漏れてるよ?」
ヤマナカエイスケは声を上げてはははと笑った。
「アラサーっていってもまだ20代だけどね」
那月ちゃんからしたらおじさんだよね、とまた笑った。
ドリンクが届いて乾杯をする。ヤマナカエイスケの飲むスプマンテとやらは多分スパークリングワインで綺麗な泡がその細長いグラスから上がっていた。緑の瓶のジンジャーエールは少し辛くてスッキリと甘かった。
「で、話があったんだっけ?」
一口スプマンテを飲んだヤマナカエイスケが口を開いた。
「はい、あの時、あの3月の地下鉄で再会した時にお話しした合格発表、合格でした。」
「おーよかったよかった。おめでとう。倒れながら頑張ったもんな。」
ヤマナカエイスケは自分のことのように喜び拍手をしてから那月に握手を求めた。
「その節は本当にお世話になりました。」
「いえいえ、元気になった那月ちゃんと再会できてよかったです。」
合格発表からおよそ2ヶ月。那月はこの日が来るとは思っていなかった。伝えられたことに安堵した。
ヤマナカエイスケは握手した手を離すと柔和に笑いながら那月の頭をぽんぽんと撫でた。
そしてスプマンテの残りを一気飲みして、次は白ちょうだいとギャルソンエプロンの男性に声をかけた。
お料理はどれも美味しくて、お腹がいっぱいになった頃、キッチンから花火のついたデザートプレートが運ばれてきた。
“ Congratulations Natsuki “
白い四角いプレートにはチョコレートで文字が書いてあって、小さめのイチゴのミルフィーユに、イチゴのソルベ、さらに小さいイチゴのパフェが乗っていた。
「改めておめでとう那月ちゃん。」
「ありがとうございますヤマナカさん。」
「いえいえ、せっかくだからお祝いしたいなって思ったの。」
那月はとっても嬉しい、そう言いかけたけどなんだか言葉が安っぽくて言うのをやめた。
お店を出るときにはもうとっくにお会計は済んでいて、またいつか奢ってねとまた頭をぽんぽんとされた。
「送るよ。」
タクシーを捕まえて二人で乗り込む。
「ヤマナカさん。わたしヤマナカさんのこと何も知らないです。もっと知りたい。」
ヤマナカエイスケは少し考えたように俯いた。
「じゃあ早く大人になりたまえ。」
そしていつになくまっすぐな瞳で那月を見つめた。
「でもね那月ちゃん。19歳は今しかない。19歳の今しかできないこともある。今を堪能してから、大人になりなさい。急がなくていいよ。待ってるから。」
ヤマナカエイスケは諭すように告げた。
那月がタクシーを降りてお礼を言うとヤマナカエイスケはまたね、とひらひらと手を振った。
きっとまた会える。どこかで。そう、那月は信じることにした。
今まで我慢してきた分青春謳歌するんだ、と両親に告げたら、父はワンピースを2着買ってくれ、母は化粧品一式フルセットで買ってくれた。
大学での友人もでき、念願だったカフェでのバイトも決まり、那月の大学デビューは上手くいった。
ただ一つ、入学して以降、ヤマナカエイスケと一度も会えずにいた那月は合格したことを報告できていないことを気にしていた。
だが那月はヤマナカエイスケのこと何も知らなかった。年は幾つで、学生か社会人か、はたまた好きなものは嫌いなものは何か、知りたい気持ちが募った。
知りたいと思うこの気持ちも、あの笑顔ももう一度見たいという欲求も、那月はなんだかそわそわして落ち着かない日々を過ごしていた。
楽しいはずの毎日に物足りなさを感じ始めていた。
それでも日々はどんどんと過ぎていって、街路樹は新緑が美しくなり、気づけばゴールデンウイーク。
大型連休中のカフェは定休日無視で連日営業だという。目まぐるしい厨房内。ドリンクのコップがもう無くなりそうなくらい忙しかった。
那月が小さく短いため息をついた。
「大丈夫?紺野ちゃん。」
「はい、大丈夫です。」
一つ年上の大学生、渡刈隆二が声をかけた。那月がへらっと愛想笑いしながら小さく敬礼をすると、隆二が那月の肩をトントンと叩いた。
「今ちょっとキリついてるから休憩室行ってちょっと休んでおいで。」
「でも...。」
「いいのいいの先輩に任せなさい。」
隆二がニカッと笑った。
隆二の言葉に甘えて休憩室で机にうつ伏せる。
流石に疲労を感じていた。休憩室に置いてあるチョコレートを口に放り込むと甘さが溶けて口中に広がってなんとなく疲れが取れる気がした。
大きく伸びをして、浮腫んだ脹脛ををトントンと叩いて気合を入れた。
休憩室から戻ると数組既に会計が終わっていて、テーブル片付けている隆二と目が合った。ペコっと会釈をすると隆二は再びニカッと笑った。
ピーク時に来ていたお客さんが大半帰った頃には17時を回っていた。18時には遅番と交代するため気合を入れ直した。
カランカランという音を立ててカフェ扉が開いた。少し肌寒くなり始めた風がすっと通った。
「いらっしゃいませ。お一人様ですか?カウンター席のお好きなところどうぞ。」
いつものように、声を1トーン上げて席案内をする。お冷を汲んでカウンター席の1番奥へ座った男性の前に優しくコトンと置いた。
「ご注文いかがなさいますか?」
帽子を取った男性がコーヒー。ホットね。と柔和な笑顔を見せた。
「や、ヤマナカさん。」
思わず声を上げて、暫く瞬きをした。
「やっぱり紺野ちゃんだ。」
またへらっと柔和に笑う。この笑顔に那月は今までも癒されてきたのだった。
「ほらほら先輩の目が怖いから、コーヒーお願いね、おねえさん」
レジのところで点検をしていた隆二が不思議そうにチラチラとこちらを見ていた。
コーヒーを淹れながら那月は考えた。話したいことも聞きたいこともある。だが今ここでは聞けないと。
「お待たせしました。ブレンドコーヒーになります。」
「ありがと。」
あちちと言いながらヤマナカエイスケがコーヒーをすすり始めた。
そのコーヒーカップの底が見えたのが18時まであと5分というところだった。
「ご馳走様でした。」
レジでお会計をしながら那月は勇気を出して伝えた。
「この後お時間ありませんか?」
「いいよ。」
即答だった。ヤマナカエイスケが恐らく伊達眼鏡であろうそれをくいっと上げていつもの笑みを見せた。
「18時で終わりなんです。」
「いいよ、いいよ待ってるよ。」
18時になった瞬間タイムカードを切って、隆二に簡単に挨拶して店先で待つヤマナカエイスケの元へ急いだ。
「おまたせ、しました。」
少し息を切らしてヤマナカエイスケの元へ行くと笑われた。
「そんなに急がなくても俺は逃げないよ。」
一人称は俺だったっけ、と那月は思った。
「お待たせしてはいけないと思いまして。」
「大丈夫だよ、那月ちゃん。」
さらっと呼ばれた下の名前にキョトンとしていると目の前に手のひらをかざされた。
「おーい聞いてる?ねえ飯食べてもいい?あ、でもそれならお母さんに連絡しないとまずいよね?」
「わ、ごめんなさい。じゃあ母にメール打っときます。」
「よしじゃあ、俺の行きつけが近くにあるからそこ行こう。」
夕飯食べて帰るなら親に連絡しなきゃなんて、ヤマナカさんはちゃんとしてるんだな、なんて感心してたらもうお店に着いたようだった。正味5分ほどで着いたそこは赤と緑と白の国旗が掲げられていた。
「女の子ってこういうお店好きでしょ?」
とても女ったらしっぽい発言に、那月はちょっと胸がちくっとした気がしたけれど気にしないことにした。なんとなく見覚えのあるその店構えに店先のメニュー。
「ここって有名なとこじゃないですか?」
「お、知ってる?」
「インスタで見たことあります。いちごのパフェが映えるって聞いたことあります。」
よくお洒落な友人達が一度は行くべきと言っていたイタリアンだと気づいたのは店に踏み入ってからだった。
「いらっしゃいませヤマナカさん。奥の席とってありますよ。」
ギャルソンエプロンの比較的若い男性店員が席まで案内してくれる。
「ヤマナカさん常連ですか?」
「常連ってほどじゃないけど、女の子連れてくるのには無難なお店だからたまに来るよ」
再び放たれる女ったらし発言に先ほどと同じように再び胸がちくっとした気がした。
「俺はスプマンテ飲むけど、那月ちゃんはどうする?」
「じゃあ、ジンジャーエールを。」
「食べれないものは?」
「特にはないです」
「ジンジャーエール甘い方一つとスプマンテグラスで。あと生ハム入れて適当に前菜作ってくれる?あと、パスタ2種類シェアしようか。」
何も言ってないのにジンジャーエールは甘い方を頼んでくれたヤマナカエイスケはさらさらさらとまるで定型文でも読み上げるように食べ物も注文すると、メニューを閉じてさっきの男性店員に渡した。
唖然としている那月をヤマナカエイスケが覗き込んだ。
「どうしたの?」
「なんか、ヤマナカさん大人ですね」
「そりゃあもうアラサーですから」
童顔の目の前の男性がまさかアラサーだなんて思いもしなかった那月は唖然とした。
「那月ちゃん、心の声漏れてるよ?」
ヤマナカエイスケは声を上げてはははと笑った。
「アラサーっていってもまだ20代だけどね」
那月ちゃんからしたらおじさんだよね、とまた笑った。
ドリンクが届いて乾杯をする。ヤマナカエイスケの飲むスプマンテとやらは多分スパークリングワインで綺麗な泡がその細長いグラスから上がっていた。緑の瓶のジンジャーエールは少し辛くてスッキリと甘かった。
「で、話があったんだっけ?」
一口スプマンテを飲んだヤマナカエイスケが口を開いた。
「はい、あの時、あの3月の地下鉄で再会した時にお話しした合格発表、合格でした。」
「おーよかったよかった。おめでとう。倒れながら頑張ったもんな。」
ヤマナカエイスケは自分のことのように喜び拍手をしてから那月に握手を求めた。
「その節は本当にお世話になりました。」
「いえいえ、元気になった那月ちゃんと再会できてよかったです。」
合格発表からおよそ2ヶ月。那月はこの日が来るとは思っていなかった。伝えられたことに安堵した。
ヤマナカエイスケは握手した手を離すと柔和に笑いながら那月の頭をぽんぽんと撫でた。
そしてスプマンテの残りを一気飲みして、次は白ちょうだいとギャルソンエプロンの男性に声をかけた。
お料理はどれも美味しくて、お腹がいっぱいになった頃、キッチンから花火のついたデザートプレートが運ばれてきた。
“ Congratulations Natsuki “
白い四角いプレートにはチョコレートで文字が書いてあって、小さめのイチゴのミルフィーユに、イチゴのソルベ、さらに小さいイチゴのパフェが乗っていた。
「改めておめでとう那月ちゃん。」
「ありがとうございますヤマナカさん。」
「いえいえ、せっかくだからお祝いしたいなって思ったの。」
那月はとっても嬉しい、そう言いかけたけどなんだか言葉が安っぽくて言うのをやめた。
お店を出るときにはもうとっくにお会計は済んでいて、またいつか奢ってねとまた頭をぽんぽんとされた。
「送るよ。」
タクシーを捕まえて二人で乗り込む。
「ヤマナカさん。わたしヤマナカさんのこと何も知らないです。もっと知りたい。」
ヤマナカエイスケは少し考えたように俯いた。
「じゃあ早く大人になりたまえ。」
そしていつになくまっすぐな瞳で那月を見つめた。
「でもね那月ちゃん。19歳は今しかない。19歳の今しかできないこともある。今を堪能してから、大人になりなさい。急がなくていいよ。待ってるから。」
ヤマナカエイスケは諭すように告げた。
那月がタクシーを降りてお礼を言うとヤマナカエイスケはまたね、とひらひらと手を振った。
きっとまた会える。どこかで。そう、那月は信じることにした。