寝起きから続く眩暈はいつものことだった。今朝は嘔気もあって朝食はロールパンを半分とオレンジジュースを一口飲んだだけだった。
 朦朧とする意識の中で知らない男性の声が響いた。
 誰かに身体を持ち上げられたようなふわっとした感覚があったが、身体に力が入らない。
 救急車らしき独特のサイレンが脳裏で響く。
「意識戻りました。」
「もっかいバイタルとってー。」
「血圧88/56、レート102、SpO2 95%です。」
「搬送先までこのままモニタリング続けます。」

     ***

 次に紺野那月が目覚めたのは天井の高い、白く広い部屋だった。薬品、というより消毒の匂い。硬いベッドの上。そこは救急外来の初療室だった。左手に点滴1本。
 いくつかベッドがあるようで、那月の周りに人はいなかったがカーテンの向こう側では複数の話し声が聞こえた。
 そうか駅で倒れたんだ、と那月が気づくのに暫く時間がかかったのは意識が朦朧としていたからだった。
 那月が目覚めたことに気がついた看護師が医師を呼びに行った。
「至急採血でヘモグロビン7.7っていう低い数値出てるから、一先ず貧血ね。」
 白衣のイケメンがさらっと言った。
「あとは過労と寝不足かな。一応倒れた時頭打ってるかもしれないから念のため精密検査しようね。」
 精密検査のため一泊入院らしい。受験生という立場上あまり学校は休みたくはないが仕方がなかった。
 2日間休みなら赤本一気に進めるチャンスかと思い直して時間を有効活用しようと、朦朧とする頭で考えた。
 点滴をつないだまま、車椅子に移り看護師と共に病棟へ向かうことになった。
 救急外来の廊下で一人の男性が座っている。
「そうそう紺野さん、そこの男性が救急車呼んで、同乗してくれたのよ。一言挨拶しとく?」
「あ、はい。」
 看護師が車椅子をその男性の元へ近づける。華奢な肩のライン。茶髪の少し長い髪。少し垂れ目の優しい眼差し。
「紺野那月と言います。あの、ご迷惑をおかけしてすみません。ありがとうございました。」
 男性は柔和に笑って言った。
「びっくりしたよー。フラフラしてるなーと思ったら案の定倒れるんだから。」
 穏やかな少し低い声が無事でよかった、と続いた。男性はすっと立ち上がってひらひらと手を振りながら去っていった。
「あの、あの待ってください。お礼を......。」
「いいのいいの。早く元気になってね。」
 再び柔和に笑う。目尻が下がる。
「じゃ、じゃあ、お名前だけでも......」
「んー...ヤマナカエイスケ。」
 病室は四人床の窓際で他のベッドは高齢の女性ばかりだった。那月は病室のベッドの上で天井を見つめながら、小さな声で彼の名を繰り返していた。
「ヤマナカエイスケ、さん。」
 どちらかといえば童顔のヤマナカエイスケと名乗ったその男性はとても穏やかな表情をしていた。人の良さそうなあの柔和な笑みはとても落ち着いていて大人の男性のようにも見えた。
 そんなことを考えながらぼーっとしているといつしか眠っていた。
 コトコトという音で目が覚めたのは1時間ほど経ってからだった。
「お母さん。」
「あ、起きた?疲れてたのね。ごめんね気づいてあげられなくて。」
「ううん自分でもびっくりしちゃった。心配かけてごめんね。」
 母はとても優しい。華奢で女性らしくて美人で、優しくて那月のことをとても大切にしている。那月にとって自慢の母だった。
「病院食は貧血食が出るって。それ以外のおやつはなんでもオッケーって言われたから売店で何か買ってこようか?」
「じゃあ、プリンかな。あと勉強したいから鞄とって。時間が惜しい」
 真面目ね、と母は笑いながら布団の上に鞄を置いて売店に出かけた。
 次の日は一日中検査だった。車椅子で病院中の検査室を回った気がするほど目まぐるしく、結局勉強をする暇など殆ど無かった。
 夕方には詳しい採血の結果も出て、単純な若い女性によくある貧血だと分かり、転倒時に頭を始め全身を打撲した様子はなさそうだと医師から説明を受けた。鉄剤を処方され、週に1回点滴に通うよう予約を取って退院した。オレンジ色の夕日が眩しかった。
 たった2日ベッド上の生活をしただけで、完全に体力が落ちていた。病棟から父の車までで那月は軽い息切れを起こし、エレベーターでは壁に寄りかかり、待合ではベンチに腰掛けて一旦休憩しなければそれ以上歩けそうもなかった。父の車ではラジオから流行りのポップスが流れていたがそれに耳を傾ける前にうとうとと眠った。