いつものように鏡の前に立った。
髭を剃ろうと思いシェーバーのスイッチを入れようとした田丸聡は、顔をしかめた。スイッチをオンにしても一向に独特の擬音が鳴り響かなかったからだ。原因はなんだろう、と思い試行錯誤した結果、電池が入っていないことに気づいた。
なぜ、電池がない?
母か?姉か?と聡の頭を過った。
が、両方とも女性ということに気づき、聡はその考えを振り払った。いや、もしかしたら興味本位でショーバーを使用したのかもしれない。それに女性の社会進出が進んで、過度なストレスや意思決定にさらされ男性と同じ様な職務を経験した結果、女性にもオス化の兆候が表れ出したというのをテレビで観た。その兆候は至って明らかに分かる。
〝髭が生えるのだ〟
そう思った矢先に、「聡、朝食できたわよ」と三十歳にもなって尚、実家暮らしの恩恵に授かり、朝食が出て来る境遇に感謝しつつ聡は食卓へ向かった。
既に姉は起きてい、味噌汁を啜っていた。
「聡、一週間後に氷河期だよ。準備できてるの」
母は言った。
「時計修理していてそれどころじゃなかった」
聡はテーブルにあるキュウリの漬物を口に放りこんだ。姉の水樹が、「行儀悪い」と努めて冷静に言った。そしていつの間にか黒縁の眼鏡をかけていた。さっきまで味噌汁を啜っていたはずなのに。そのスピーディーな展開に聡は開いた口が塞がらなかった。
「あんたね。父さんが死んでフラッと戻ってきたと思ったら、この様だよ。最初から時計屋継いでればいいものを」
と母は積年の恨みを晴らすかの如く、恫喝した。
「もう、歌わないの?」
水樹が聡を見た。姉弟でなかったら彼は姉に惚れているだろう。手入れの行き届いた長い黒髪、整った顔立ち。普段は無表情だが時折見せる笑顔は、一瞬で心を掴む。なによりワンピースがよく似合う。なのに未婚。
「プロを目指すのは諦めたけど、趣味では歌おうかなとは思ってる」
聡はバツの悪い表情をした。
「あんたね、父さんがあれだけ反対してたのに、それを押し切ってまで〝俺はプロになる〟って言って家飛び出したくせに。ああ、もう父さんが可哀相」
そう言いながら母の感情が卵に乗り移り、スクランブルエッグの焦げたものがテーブルに並べられた。
「母さん、音楽の世界はとても大変なのよ」と水樹はスクランブルエッグをつまみ、顔を崩し、「たしかに今はどこの世界も大変だけど、それでも挑戦するだけ偉いわよ。だって、ほとんどの人が現実を見るんだもん。夢みたって、いいと思う」
朝から討論番組のような熱のこもった発言を、水樹は冷静に言った。
小さい時から姉は聡の味方だった。小さい時にいじめら、泣いて帰ってきた聡に、「どうしたの?」とやさしい声で語りかけ、その内容を知るや否や、「報復よ」と家を飛び出し、問題の相手の家の玄関扉に絵の具を塗り付けた。その扉には、「いつでも私が相手になるわよ」と赤字で書かれていたらしい。それ以来、ぴたりと聡に対する嫌がらせは止まった。それ以来、近所では『絵の具の水樹』という通り名が付けられた。そんな水樹は画家である。あながち通り名も間違ってなかったみたいだ。
「水樹ちゃんに、そう言われるとね。お母さん何も言えないわよ」と母は口ごもり、「今度、千住で個展開くんでしょ?聡と観にいくわね」と話題を変えた。
しかし姉は母の問いかけに無言だった。そんなの聞かなくてもわかるでしょ、と言いたげな表情にも見えるが、ポーカーフェイスは崩さなかった。
聡はテレビを点けた。連日に渡って『氷河期到来』のニュースが伝えられている。日本はお国柄なのか落ち着きを取り戻した。お偉い研究機関が『氷河期が来ます』という報道は最初、総スカンもいいところだった。
しかしだんだんと天候の激変が深刻になるにつれ、真実味を帯び、一時期人々はパニックに陥った。数年前に聡も齧っていたパンを横取りされ、「このパンが重要なんだ」と捨て台詞を吐かれた記憶がある。齧りかけのパンを奪うほど、人々の理性は乱され、善悪の判断ができなくなっていた。
さらにはどうせ氷河期が始まったらセックスは出来ないだろう、というよくわからない理由からか強姦が多発した。いつの時代も女性に対する犯罪は多いが、その時期は十倍にまで膨れ上がり、女性に対し外出禁止令が出たほどだ。さらに家にいても危険な場合もあり、数名で生活を共にするように、という政府の通達があった。そういう強姦などを行う輩の頭脳は氷河期=世界の終幕、らしい。それはあながち間違ってはいないが、生き残る確率もある。ただ、比較的生き残る確率は低いのかもしれない。いつの時代も、三大欲求は重要な位置を占めると、聡は思う。
「ここ最近は、天候穏やかだよね。あまり実感湧かないな」
水樹がテレビを観ながら言った。
「一週間前は竜巻が起こって、雷も落ちたもんね。氷河期って寒くなるだけだと思ったけど」
「怒ってるのよ」
母は言った。
「怒ってる?」
珍しく水樹が聞き返す。
「ほら、父さん職人気質だから言葉数少ないじゃない」と母はお茶を啜り、椅子に腰掛けた。その時椅子の木材が母の体重で軋んだ。オナラじゃないわよ、と母は付け加える。最初にそのネタを目撃し聞いたときは笑ったが、毎日同じネタを毎回同じタイミングで行うので、さすがに飽きる。
そして母が話を続けた。
「でも、聡がプロになるんだ、って言った時は、今まで溜め込んでいたものを発散するかのように言葉を捲し立てじゃない。だから、そういうこと」
「どういうこと?」
聡は肩からガクンとなり訊いた。
「地球も溜め込んでたってことよ。だから今は発散の最中か、予兆、よ」
と水樹は補足した。
「わかりやすい」
聡は焦げたスクランブルエッグを避け、焦げてないものを箸でひとつかみし言った。
「お母さんの言いたいことは水樹ちゃんが言ってくれました」
母は立ち上がり椅子を軋ませ台所に向かった。
「姉貴、よく理解できたね」
聡は言った。
数秒間の沈黙後、「だって、親子だもん」と水樹は焦らすように言った。
髭を剃ろうと思いシェーバーのスイッチを入れようとした田丸聡は、顔をしかめた。スイッチをオンにしても一向に独特の擬音が鳴り響かなかったからだ。原因はなんだろう、と思い試行錯誤した結果、電池が入っていないことに気づいた。
なぜ、電池がない?
母か?姉か?と聡の頭を過った。
が、両方とも女性ということに気づき、聡はその考えを振り払った。いや、もしかしたら興味本位でショーバーを使用したのかもしれない。それに女性の社会進出が進んで、過度なストレスや意思決定にさらされ男性と同じ様な職務を経験した結果、女性にもオス化の兆候が表れ出したというのをテレビで観た。その兆候は至って明らかに分かる。
〝髭が生えるのだ〟
そう思った矢先に、「聡、朝食できたわよ」と三十歳にもなって尚、実家暮らしの恩恵に授かり、朝食が出て来る境遇に感謝しつつ聡は食卓へ向かった。
既に姉は起きてい、味噌汁を啜っていた。
「聡、一週間後に氷河期だよ。準備できてるの」
母は言った。
「時計修理していてそれどころじゃなかった」
聡はテーブルにあるキュウリの漬物を口に放りこんだ。姉の水樹が、「行儀悪い」と努めて冷静に言った。そしていつの間にか黒縁の眼鏡をかけていた。さっきまで味噌汁を啜っていたはずなのに。そのスピーディーな展開に聡は開いた口が塞がらなかった。
「あんたね。父さんが死んでフラッと戻ってきたと思ったら、この様だよ。最初から時計屋継いでればいいものを」
と母は積年の恨みを晴らすかの如く、恫喝した。
「もう、歌わないの?」
水樹が聡を見た。姉弟でなかったら彼は姉に惚れているだろう。手入れの行き届いた長い黒髪、整った顔立ち。普段は無表情だが時折見せる笑顔は、一瞬で心を掴む。なによりワンピースがよく似合う。なのに未婚。
「プロを目指すのは諦めたけど、趣味では歌おうかなとは思ってる」
聡はバツの悪い表情をした。
「あんたね、父さんがあれだけ反対してたのに、それを押し切ってまで〝俺はプロになる〟って言って家飛び出したくせに。ああ、もう父さんが可哀相」
そう言いながら母の感情が卵に乗り移り、スクランブルエッグの焦げたものがテーブルに並べられた。
「母さん、音楽の世界はとても大変なのよ」と水樹はスクランブルエッグをつまみ、顔を崩し、「たしかに今はどこの世界も大変だけど、それでも挑戦するだけ偉いわよ。だって、ほとんどの人が現実を見るんだもん。夢みたって、いいと思う」
朝から討論番組のような熱のこもった発言を、水樹は冷静に言った。
小さい時から姉は聡の味方だった。小さい時にいじめら、泣いて帰ってきた聡に、「どうしたの?」とやさしい声で語りかけ、その内容を知るや否や、「報復よ」と家を飛び出し、問題の相手の家の玄関扉に絵の具を塗り付けた。その扉には、「いつでも私が相手になるわよ」と赤字で書かれていたらしい。それ以来、ぴたりと聡に対する嫌がらせは止まった。それ以来、近所では『絵の具の水樹』という通り名が付けられた。そんな水樹は画家である。あながち通り名も間違ってなかったみたいだ。
「水樹ちゃんに、そう言われるとね。お母さん何も言えないわよ」と母は口ごもり、「今度、千住で個展開くんでしょ?聡と観にいくわね」と話題を変えた。
しかし姉は母の問いかけに無言だった。そんなの聞かなくてもわかるでしょ、と言いたげな表情にも見えるが、ポーカーフェイスは崩さなかった。
聡はテレビを点けた。連日に渡って『氷河期到来』のニュースが伝えられている。日本はお国柄なのか落ち着きを取り戻した。お偉い研究機関が『氷河期が来ます』という報道は最初、総スカンもいいところだった。
しかしだんだんと天候の激変が深刻になるにつれ、真実味を帯び、一時期人々はパニックに陥った。数年前に聡も齧っていたパンを横取りされ、「このパンが重要なんだ」と捨て台詞を吐かれた記憶がある。齧りかけのパンを奪うほど、人々の理性は乱され、善悪の判断ができなくなっていた。
さらにはどうせ氷河期が始まったらセックスは出来ないだろう、というよくわからない理由からか強姦が多発した。いつの時代も女性に対する犯罪は多いが、その時期は十倍にまで膨れ上がり、女性に対し外出禁止令が出たほどだ。さらに家にいても危険な場合もあり、数名で生活を共にするように、という政府の通達があった。そういう強姦などを行う輩の頭脳は氷河期=世界の終幕、らしい。それはあながち間違ってはいないが、生き残る確率もある。ただ、比較的生き残る確率は低いのかもしれない。いつの時代も、三大欲求は重要な位置を占めると、聡は思う。
「ここ最近は、天候穏やかだよね。あまり実感湧かないな」
水樹がテレビを観ながら言った。
「一週間前は竜巻が起こって、雷も落ちたもんね。氷河期って寒くなるだけだと思ったけど」
「怒ってるのよ」
母は言った。
「怒ってる?」
珍しく水樹が聞き返す。
「ほら、父さん職人気質だから言葉数少ないじゃない」と母はお茶を啜り、椅子に腰掛けた。その時椅子の木材が母の体重で軋んだ。オナラじゃないわよ、と母は付け加える。最初にそのネタを目撃し聞いたときは笑ったが、毎日同じネタを毎回同じタイミングで行うので、さすがに飽きる。
そして母が話を続けた。
「でも、聡がプロになるんだ、って言った時は、今まで溜め込んでいたものを発散するかのように言葉を捲し立てじゃない。だから、そういうこと」
「どういうこと?」
聡は肩からガクンとなり訊いた。
「地球も溜め込んでたってことよ。だから今は発散の最中か、予兆、よ」
と水樹は補足した。
「わかりやすい」
聡は焦げたスクランブルエッグを避け、焦げてないものを箸でひとつかみし言った。
「お母さんの言いたいことは水樹ちゃんが言ってくれました」
母は立ち上がり椅子を軋ませ台所に向かった。
「姉貴、よく理解できたね」
聡は言った。
数秒間の沈黙後、「だって、親子だもん」と水樹は焦らすように言った。