いつものように荒川に美穂はいた。高校へは進学しなかった。それどころではなかった。二年前に母が逮捕されてしまったから。警察やマスコミなどが自宅に押し寄せ、母はその場で手錠をかけられ、全面的に罪を認めた。深く反省し娘を助けるためだった、という情状酌量の余地があるとして、懲役二十五年執行猶予五年の判決が裁判所から言い渡された。母が美人ということもあり、連日に渡ってマスコミが張り込みをし、美穂にインタビューしようと押し寄せ、精神がおかしくなりかけ、また男の友達の家に転がり込んだ。ほとぼりが冷めるまでは学校にはいかず、学校側もそれを察してか中学は卒業させてもらった。

 美穂はそれでよかった。変に同情されることもなく穏やかに過ごせるから。それにもしかしたら同情なんかされないかもしれない、という思いのが強かった。大人たちの噂が連鎖し、子供たちにいく。白い目で見られるのはわかりきっていた。

 後日、美穂一人が学校に呼ばれ卒業証書を手渡された。

 人の気持ちを読めないハゲ頭の校長が、「いずれ『氷河期』が来る。その生きるか死ぬかの状況に比べれば、今の現況を乗り越えることは容易いことだ」と気の効かないセリフを放った。

 それに対し美穂は、「素敵なお言葉ありがとうございます」と大人が気に入るだろう謙虚さを滲ませ深々とお辞儀をした。案の定、「その心構えだ」と校長は自分の言ったセリフが生徒に響いたことを確信した。

 大人というのは自分が偉いと思い、優秀だと思い込む生き物なのだと美穂はこの時感じた。

 が、雄一のように何か一つ歯車が狂うと、立ち戻れなくなる。酒に逃げるもの、ひきこもるもの、暴力をふるうもの、内に溜まった怒りをそれらで発散させるのだろう。

 心を強く持ち再出発を図ろうと思ったが、具体的な計画が美穂にはなかった。だから、いつも寂しく物思いに耽っていた荒川を彼女は見つめる。

「君は、もしかしたら悩みを抱えているのではないか?」

 美穂の背後から声がした。歌舞伎役者にいそうな舞台でよく通る声だった。彼女は振り向いた。そこにはスーツをしっかりと着こなしたスマートな男性がいた。白シャツに蝶ネクタイという組み合わせ。髪はトップを立たせさっぱりとした短髪。頬は幾分やつれているが、堀が深く顎のラインがしっかりしていた。右目の上にほくろがあるのが印象的な男だった。
「誰ですか?」
 美穂は訊いた。

「ああ、ごめんなさいね」と言い、胸ポケットから名刺を一枚取出し美穂に手渡した。「黒岩清澄と申します」
 美穂は名刺を眺めた。

 宗教法人 『ロード』 幹部A面 黒岩清澄
 と印字されていた。

 美穂は名刺というものをはじてみたが、幹部A?と首を傾げた。

「ああ、疑問は察していますよ。幹部Aの部分ですよね」よく通る声で黒岩が美穂に訊き、彼女は頷いた。

「とくに意味はないんですよ。あれ、意味はあるのかな。たしかですね。教祖が、ビートルズというバンドが好きで彼らのアルバムに『アビー・ロード』というのがあるんですがね、それがA面、B面って別れてるんですよ。そういうことです」と要領の得ない説明を黒岩がした。
 それでも美穂は首を傾げ、「よくわからないです」と言った。

「ええ、それで結構。知らないということはこれから学ぶべきことが多いということでもあるのですから」 
 ニッと黒岩が笑った。彼の右上の奥歯に金歯があることを美穂は確認した。
「で、なんの用ですか?」

 美穂は金歯を見てからより一層の警戒感を露にした。〝金〟というのはメダル意外よい印象がない。金ネック、金指輪、金のジッポー、何かといかがわしい人間は身につける品を金で固める傾向がある。
「君を我が組織に迎え入れようと思って?」

「宗教団体に?」

「そう、宗教団体に」
 黒岩は真顔で言った。一切美穂と視線を外さなかった。彼女は本気ということが伺えた。視線を逸らす人間は、心の内にやましいことを隠している。それがここ数年での彼女の結論、だ。

「なぜ私なの?」

「君には闇がある心の深い闇が。昔、報道を観ましたよ。週刊誌もですけどね」黒岩は言った。おそらく母に関する記事だろう。ということは美穂にも察しがついた。

「少女Aって美穂ちゃんでしょ?身よりもない。頼るものもない。せっかく将来性がある美貌。人を惹き付けるオーラ。僕は数日で君の才に気づきましたよ。別に組織に入信するからと言って非人道的な行いをするわけではないから心配しないでください。この世で大事なのってわかります?」

 美穂は首を横に振った。家族は瓦解し、世間では白い目で見られる。大事なものは〝自分〟でもある。が、生きる上で大切なものがあった。

「お金でしょ」
 美穂は今更なにいってるの?という蔑んだ口調で黒岩に言った。

「その歳で随分現実的なお答えをお持ちでいらっしゃる。それに関しては否定しません。もっと大事なのは」黒岩は人さし指を一本指を立て、「規則正しい生活です」と笑顔を見せた。

「規則正しい生活?」
 そんな生活に何の意味があるのか、美穂には理解できなかった。

「規則正しい生活はリズムを生みます。そう、魅力ある曲。何年経っても色褪せない曲。語り継がれる曲。それらに共通するのは流麗なリズムです。そのリズムが循環することで日々の生活に張りができる。それを繰り返す内にまた違うリズムという名の習慣を取り入れたくなる。その繰り返しが人を成長させるのです。私たち組織のモットーは規則正しさです」

 黒岩が喋る言葉にはリズムがあり、なにかしら人の心を落ち着かせる声質だと美穂は感じた。

「あまり興味がないかも」
 と美穂は言ったものの、実際には行く当てもなく、かといって未成年者なのに夜の仕事をするのには抵抗があった。

「そう言うと思いましたよ。一度来てください。美穂さんが見たことない世界がそこにはありますよ。それに」黒岩の癖なのか人さし指をまた一本立て、「興味を抱くためには、見たり、聞いたり、人と触れ合わなければなりません。そのお手伝いを僕はしようと思います。せっかくダイアモンドになれる器なのに、今のままでは石ころですよ。川の流れのままリズム良く生き、いずれ広大な海へ出ましょう」と締めくくった。

 美穂は黒岩を見た。蛾が彼の目の前を旋回していたが、一切瞬きをせず彼女を見つめていた。どことなく彼の口調は信頼を感じさせるものがり、金歯をのぞけばその無邪気な笑顔は好感を抱く。

「じゃあ、後ろ向いてもらっていいですか?」

 美穂は訊いた。意表を突かれた黒岩は表情を崩しつつも彼女に背中を見せた。別に背中が見たいわけではない。ただお尻が見たかったのだ。黒岩のお尻はきゅっと上に上がっていて引き締まっていた。美穂の父親のお尻がそうだったからだ。よく小さい手でお尻を鷲掴みにしたのを彼女は思い出した。
「うん。合格」
 と美穂は言った。
「合格?」と黒岩は美穂の振り向き訝ったが、「おお、美穂さんの笑顔は美しい」とすぐに表情をほころばせた。奥歯の金歯が太陽に反射して鋭く光っていた。