秋津はほとぼりが冷めるまで海外へ逃げた。そして三十歳の時に哀しみが言えぬまま、足立区梅島に戻って来た。柚葉にも危険が及ぶと思い、連絡はしなかった。今は何をしてるのかもわからない。殺し屋組織は解体されたとも、存続しているとも言われ情報が錯綜したが、秋津にとってはもうどうでもいいことだった。職歴がないにも関わらず雇ってもらった岩崎には感謝したい。
そもそも、『ブラックバード』で働き出したのも、かつて父が経営したライブハウス裏にあるマンションに戻らなければ働くことはなかった。大量のチラシが郵便ポストに入っている中で、たまたま黄色いチラシがあり、〝会社立ち上げました。数字に強い人募集 月給二十五万〟と記載されていた。立ち上げなら古くさい社員同士のしがらみはないだろう、と思い、日本に戻ったら全うな仕事をしようと思っていた秋津にとって好都合だった。
面接官は岩崎一人で、オフィスは奇しくも銃撃戦があった場所だった。罪滅ぼしのために、あの時の過信を戒めるために、新たな出発を胸に抱き、面接に臨んだ。
「弊社はね、職歴気にしないから。気持ちだけ持ってきて」
と仏のような表情を岩崎はした。
採用が決まり、次の日から秋津は働き始めだ。お金がどう流れ、それがどういった用途で使われるのか、どういった用途がまずかったのか、そういうのを考え、処理するのが面白かった。そしてやりがいがあった。クライアントからも〝秋津君の提案で資金に余裕が生まれたよ〟と感謝を述べられると嬉しかった。その積み重ねが秋津を仕事の鬼にした。どういったルートの人脈があるのか海外のクライアントを岩崎が営業し獲得して、社員十名と小規模ながら、多大な利益をあげるまでにいたった。気づけば過去を消し、記憶を封印し、感情というものがなくなっていた。孤独を孤独とも思わなくなっていた。
色々あったな、秋津は思わず声を漏らす。冷気を漂わせているだろう雲間から淡い光が覗いていた。
秋津は腕時計を確認する。九時五分前だった。
急いでオフィスに戻った。運動不足が露呈してか、僅かな距離なのに息が切れた。
オフィスの扉を秋津は開けた。
岩崎が社長デスクに腰掛け、正面に女性が頷いている光景が秋津の目に飛び込んで来た。
「おお、秋津君。ちょうどよかった」と岩崎が席を立ち、回りこんで秋津との距離を詰めにかかる。女性は座ったままだ。なにやら書類を眺めている。
「新人さんですか?」
秋津は訊いた。
「そうそう。新人の清野柚葉さんです」
岩崎がいつもの飄々とした口調とは裏腹に、秋津は固まっていた。
柚葉?まさか。
女性が振り返る。やはり柚葉だった。年齢を重ねても肌の艶、センター分け、卵形の顔は何ひとつ変わってなかった。唯一目元の小じわが目立つぐらいだ。
秋津が固まっていると、「清野柚葉さんはね、独身なんだって。なんでも愛し合っていた人が突然消えちゃったみたいだよ。悲しいよね、せつないよね」と岩崎が、なぜか楽しそうに言った。
「清野柚葉です。少ない期間ですがよろしくお願い致します」
柚葉は丁寧に一礼し秋津の顔を見た。秋津も顔を外せずにいた。
「まあ、秋津君。僕は清野柚葉さんに長い年月を掛けて色々説明してたら疲れちゃったから、外の風に当たってくるよ」
長い年月?なにを言ってるんだこの社長は、と秋津は思った。
岩崎はオフィスの外に出ようと秋津を通りこした。
「あの、社長!これはどういうことでしょうか」
秋津は岩崎の方を振り向いた。その場に沈黙が生まれ、暖房器具のブーンという音だけが響いていた。背後から柚葉の視線を感じる。
「倉林君がね」と岩崎から意外な名前が飛び出したことに驚き、秋津は固唾を呑んだ。「秋津君のことをよく話してくれたんだよ。〝俺はやさしい男を殺し屋にしてしまった〟〝あいつの弾くギターいいですよ〟〝なんか女ができたみたいなんですよ〟〝もうあいつに仕事回すの辞めてもらえませんか〟ってね」
秋津は涙が止まらなかった。止めることすらできなかった。抑えても、抑えても、止めることはできなかった。
そして、秋津は目の前にいる人物を理解した。そうだったのか。
「あの時は、本当に申し訳ございませんでした」
秋津は涙声で頭を下げた。
「いいんだよ。これは僕の罪滅ぼしでもあるんだから。もう楽に生きなさい。氷河期来る前に、君のギターが聞きたいな。全然弾いてくれなかったもんね」と岩崎は扉の方へ向き「The End(じゃあね)」と右手を挙げ扉を開けた。
秋津の肩に手が置かれた。柚葉の手だった。
「全部、聞いたわ。これからはずっと一緒よ」
柚葉は言った。
罪が消えるのかはわからない。だから許されるとも思わない。それでも秋津にとって一人で孤独に生きるのは疲れた。目の前の柚葉をやさしく抱きしめ、彼女の胸で涙が枯れるまで泣いた。彼女は秋津の頭を撫で、「また、あなたが弾くギター聞きたいな」と砂糖菓子のように甘く言った。
「結局、あなたが得る愛は、あなたが与える愛に等しい(And, in the end, the love you take/ Is equal to the love you make.)」
秋津は柚葉を抱きながらビートルズ『The End』最後の歌詞を、ふと思い出した。
そもそも、『ブラックバード』で働き出したのも、かつて父が経営したライブハウス裏にあるマンションに戻らなければ働くことはなかった。大量のチラシが郵便ポストに入っている中で、たまたま黄色いチラシがあり、〝会社立ち上げました。数字に強い人募集 月給二十五万〟と記載されていた。立ち上げなら古くさい社員同士のしがらみはないだろう、と思い、日本に戻ったら全うな仕事をしようと思っていた秋津にとって好都合だった。
面接官は岩崎一人で、オフィスは奇しくも銃撃戦があった場所だった。罪滅ぼしのために、あの時の過信を戒めるために、新たな出発を胸に抱き、面接に臨んだ。
「弊社はね、職歴気にしないから。気持ちだけ持ってきて」
と仏のような表情を岩崎はした。
採用が決まり、次の日から秋津は働き始めだ。お金がどう流れ、それがどういった用途で使われるのか、どういった用途がまずかったのか、そういうのを考え、処理するのが面白かった。そしてやりがいがあった。クライアントからも〝秋津君の提案で資金に余裕が生まれたよ〟と感謝を述べられると嬉しかった。その積み重ねが秋津を仕事の鬼にした。どういったルートの人脈があるのか海外のクライアントを岩崎が営業し獲得して、社員十名と小規模ながら、多大な利益をあげるまでにいたった。気づけば過去を消し、記憶を封印し、感情というものがなくなっていた。孤独を孤独とも思わなくなっていた。
色々あったな、秋津は思わず声を漏らす。冷気を漂わせているだろう雲間から淡い光が覗いていた。
秋津は腕時計を確認する。九時五分前だった。
急いでオフィスに戻った。運動不足が露呈してか、僅かな距離なのに息が切れた。
オフィスの扉を秋津は開けた。
岩崎が社長デスクに腰掛け、正面に女性が頷いている光景が秋津の目に飛び込んで来た。
「おお、秋津君。ちょうどよかった」と岩崎が席を立ち、回りこんで秋津との距離を詰めにかかる。女性は座ったままだ。なにやら書類を眺めている。
「新人さんですか?」
秋津は訊いた。
「そうそう。新人の清野柚葉さんです」
岩崎がいつもの飄々とした口調とは裏腹に、秋津は固まっていた。
柚葉?まさか。
女性が振り返る。やはり柚葉だった。年齢を重ねても肌の艶、センター分け、卵形の顔は何ひとつ変わってなかった。唯一目元の小じわが目立つぐらいだ。
秋津が固まっていると、「清野柚葉さんはね、独身なんだって。なんでも愛し合っていた人が突然消えちゃったみたいだよ。悲しいよね、せつないよね」と岩崎が、なぜか楽しそうに言った。
「清野柚葉です。少ない期間ですがよろしくお願い致します」
柚葉は丁寧に一礼し秋津の顔を見た。秋津も顔を外せずにいた。
「まあ、秋津君。僕は清野柚葉さんに長い年月を掛けて色々説明してたら疲れちゃったから、外の風に当たってくるよ」
長い年月?なにを言ってるんだこの社長は、と秋津は思った。
岩崎はオフィスの外に出ようと秋津を通りこした。
「あの、社長!これはどういうことでしょうか」
秋津は岩崎の方を振り向いた。その場に沈黙が生まれ、暖房器具のブーンという音だけが響いていた。背後から柚葉の視線を感じる。
「倉林君がね」と岩崎から意外な名前が飛び出したことに驚き、秋津は固唾を呑んだ。「秋津君のことをよく話してくれたんだよ。〝俺はやさしい男を殺し屋にしてしまった〟〝あいつの弾くギターいいですよ〟〝なんか女ができたみたいなんですよ〟〝もうあいつに仕事回すの辞めてもらえませんか〟ってね」
秋津は涙が止まらなかった。止めることすらできなかった。抑えても、抑えても、止めることはできなかった。
そして、秋津は目の前にいる人物を理解した。そうだったのか。
「あの時は、本当に申し訳ございませんでした」
秋津は涙声で頭を下げた。
「いいんだよ。これは僕の罪滅ぼしでもあるんだから。もう楽に生きなさい。氷河期来る前に、君のギターが聞きたいな。全然弾いてくれなかったもんね」と岩崎は扉の方へ向き「The End(じゃあね)」と右手を挙げ扉を開けた。
秋津の肩に手が置かれた。柚葉の手だった。
「全部、聞いたわ。これからはずっと一緒よ」
柚葉は言った。
罪が消えるのかはわからない。だから許されるとも思わない。それでも秋津にとって一人で孤独に生きるのは疲れた。目の前の柚葉をやさしく抱きしめ、彼女の胸で涙が枯れるまで泣いた。彼女は秋津の頭を撫で、「また、あなたが弾くギター聞きたいな」と砂糖菓子のように甘く言った。
「結局、あなたが得る愛は、あなたが与える愛に等しい(And, in the end, the love you take/ Is equal to the love you make.)」
秋津は柚葉を抱きながらビートルズ『The End』最後の歌詞を、ふと思い出した。