雨が降ってきたので書類鞄から折りたたみ傘を取出し、秋津宗則は手際良く傘をさした。だが、雨の勢いが強く、素早く寸分の狂いもなく傘を開いたはずなのに、着ていたスーツはびしょ濡れになった。自分の中で落ち度があったのかもしれない。
 間違いない。
 絶対そうだ。
 職業柄全てを完璧に美しく処理しなければ、秋津の気は収まらない。それが使命であると彼は思い込んでいる。来年に四十歳を控え、今年で三十九という年齢にもかかわらず身体には一切の贅肉はない。ゴルフでほどよく焼けた肌に、漆黒で艶やかな手入れの行き届いた短い髪。毎日爪が伸びていないかを日課にしている。爪の伸びは不衛生の第一歩、だ。彼はそう考える。
 足立区梅島に住み、梅島駅から徒歩二十秒にある経理のアウトソーシング会社で秋津は働いている。その付近には古風なライブハウスがあり若者が睨みをきかせたむろし、車道を渡ったその目の前には焼き鳥屋がある。そこの焼き鳥屋の軟骨が美味しいことは、秋津の頭の中に入っている。
 秋津は業務開始の三十分前に出社しタイムカードを押した。なのでタイムカードの日付の部分は常に〝8:30〟だ。給与計算も自分で行うため、月末に自分のタイムカードを見るといつも苦笑する。たまには逸脱してもいいのではないか?いや、それはやめておこう。
「秋津君、毎日寸分の狂いもない出社だね。地球は君に〝正確性〟という恵みを与えたね」
 経理アウトソーシング会社『ブラックバード』の社長である岩崎が言った。元々は公認会計士として監査法人に勤めていたが、「いかんせん体質が合わない」という理由からアウトソーシングの会社を立ち上げた、と聞かされた。だが、岩崎の人柄なのか自由気ままで飄々としている性格のためか日本というよりは海外での取引が多い。アメリカはもとより、ジャカルタ、インド、イギリス、フランス、と今では取引先を拡大している。一度アフガニスタンから依頼があり、「もしかしたらテロリストになれってこと?」秋津を含めた従業員数十名の前で、軽い冗談を飛ばしたこともある。が、数名が笑い、数名は無表情だった。社の特徴として一ヶ月毎に提出するレポートをクライアントに提出する際に、アメ玉も郵送する。それは社長のお気に入りのアメ玉で、秋津も好む。昔懐かしの駄菓子屋で売っていそうな甘ったるいアメ玉だ。そのアメ玉欲しさに依頼してくる取引先も多い。
 秋津は岩崎を見た。ビートル好きがたたってか、髪型はジョン・レノン風だった。少しウェーブかかっている。対人営業ではないが、不衛生感が漂う。それでいて眼鏡の奥に細い目が控えている。社名である、『ブラックバード』はビートルズの曲名から盗み取ったことは間違いないだろう。そして岩崎のカラオケの十八番は、「ブラックバード」、だ。
「社長、申し訳ないですが言っている意味がわかりかねます」
 デスクの下に鞄を置き、椅子に腰掛けパソコンの起動ボタンを押した秋津は言った。
 起動音が社内に響き、「まあまあそこはサラッと流してよ。流しちゃ駄目だね。地球は僕らに衣食住を提供してくれたり、天候の恵みを与えたり、風景の素晴らしさをわからしてくれるじゃない」と岩崎は、でしょ、と秋津に促してきたので軽く頷いた。
 さらに岩崎は続ける。
「それと一緒だよ。秋津君と仕事していると、こういう生き方もあるんだな。〝正確〟に日々を過ごす大切さもあるんだな、って気づかせれるんだよ」
 岩崎が朝から熱弁をふるう。外は秋津の出社前より雨脚が強くなっているようだ。窓を叩きつける音が聞こえる。
〝僕達に気づいて、ねえ気づいてよ〟
 そんな風に雨音が刻んでいるように秋津は思えた。
「僕の生き方はそこまで褒められるものでもないですし、面白くもないと思います」
「心を閉じるね秋津君は。本当だったら三日後に『氷河期籠もり』が始まるから仕事は休んでいいのに。他の社員はみんな休んでるよ。氷河期直前休暇を取得して」
 岩崎は、氷河期直前休暇というネーミングが気に入っているのか、その後二回繰り返した。
「この仕事が好きなのと、仕事ぐらいしかやることもないですし」
 秋津はマウスを器用に操作し、メールフォルダを開いた。新着メールが三件受信された。どれも返信の必要がないものだった。
「秋津君、嬉しいことを言ってくれるね。この会社を立ち上げてよかったよ」
 岩崎は幾分か上気した声で言った。まだそこに社長がいたことに秋津は驚いた。
「世界中に貢献している社長のことは凄いと思っています。それに」秋津は一拍間を空けた。岩崎が続きを聞こうと身を乗り出して来る。「社長は気取ったところがないですし。他の傲慢な創業者タイプとは違う気がします」
「おお、最大の褒め言葉だよ。ありがとう」
 本当に嬉しいのだろう、嘘偽りのない口角の上がった笑顔を岩崎は見せた。ディズニーにいるクマのキャラクターみたいだった。自然と秋津も笑顔になる。
「おっ!笑ったね。秋津君は笑った方がいいよ。笑顔は人をあたたかく包み込むからさ」禅問答のようなことを岩崎は言った。
 笑顔?
 いつからか笑顔を見せなくなった。
 いつからだろう?
 五年前か。十年前か。
 秋津が思考を巡らせていた時、岩崎がその思考の旅を遮った。
「結婚とかしないの、秋津君は?」
「しないです。というか三日後には氷河期籠もりですよね?意味ないですよ」
 秋津は憮然とした口調で言った。
「三日もあるよ」
 岩崎が食い下がる。
「言い忘れました。相手がいないもので」
「岩崎君の容姿なら女性には不自由ない暮らしだと思うんだけな」と岩崎は憧れともとれる発言をし、「勿体ない」となぜか天を仰いだ。その絵面は神に慈悲を乞うようであった。
「あまり結婚という制度に興味がないもので」
「そうなの?でもさ今は仕事があるからいいけど、氷河期始まったら孤独が待ってると思うんだ、僕は。その時に家族や恋人がいた方が支えにお互いの支えになるし、励みになるよ。なにより孤独は人を蝕むよ」
 岩崎は後ろに手を回し、足を少し開き、〝休め〟の体勢で言った。この人は一体何者なんだろう、と秋津は思った。社長というのは事実として認定されているが、不思議な人だとも思う。
「それは起こった後に考えますよ」
 秋津は言う。
「起こった後じゃ、遅いんだよ、秋津君」
 間髪入れず岩崎が切り返した。
 その素早い切り返しに思わず、「えっ!」と秋津は耳を岩崎の方に傾けた。
「起こった後じゃ、遅いよ。そうやって人は後悔していくんだ。誰しも後悔という欠片を何個も胸に収めている。結局それを消化できずに後悔だけが先行してしまう」
 と岩崎が真剣な時だけに垣間見せる細い目を少し開き瞳を露にした。
 後悔、秋津の忘れかけていた記憶、いや忘れようと自分に言い聞かせたものが深い井戸の底から浮上してくるのを感じた。
〝いい思い出より、嫌な思い出の方が覚えているものよね〟
 秋津の頭の中に、その言葉が点滅を繰り返す。
 喉が渇いてきた。
 息も荒くなる。
「だから、あのときこうしておけば、これをやっておけば、っていう後悔だけは秋津君にはしてほしくないんだよ。せっかくの人生なんだから、さ。それに」岩崎も秋津の手法を使い、「女性は男に足りないものを教えてくれる。女性以外で君に足りないものはなんだろうね」と言った。
 俺に足りないもの?秋津は考えた。感情、か。喜怒哀楽は自分でもある方だと思う。人よりは反応が薄いだけだ。それにどんなときも今まで全てを一人でこなしてきた。
 秋津は考えすぎて、頭が痛くなった。腕時計を確認した。まだ業務開始前だった。
「社長、お話の途中で悪いんですが、煙草吸ってきていいですか?」
 秋津は訊いた。
「ああ、全然いいよ。これ持ってきなよ。ちょっと待ってて」
 そう言って、岩崎は自分のデスク周辺に置かれている包むを秋津に手渡した。
「これは?」
「ああ、家内が作ってくれた特製サンドウィッチ。美味しいから食べてよ」
「ありがとうございます。社長のは?」
「僕の分はちゃんとあるから心配しないでよ。今日はそんなに忙しくないから、ゆっくり煙草を吸って、ゆっくりサンドウィッチを食べて、秋津君」
 細い目を垂らし柔和な笑みを岩崎はこぼした。
「心遣い感謝します」
 秋津は簡潔に言った。
「そんなにかしこまらないでよ」と岩崎は言うが、彼は社長であり上下関係はきっちりとしたい秋津はおどけた態度を取ることができない。
 もしかしたら融通が効かないという部分が秋津に足りないところかもしれない。全てを頭の中で構築してしまい、逸脱した行為に対して歪みが生じる。そう、今まさに地球が氷河期を迎え、四季は崩壊し、天候不順な毎日に辟易しているように。
 煙草を吸う前に秋津は岩崎に訊いておくことがあった。
「そういえば今日は新入社員が来るのでしょうか?そのようなメールがありましたが」
「ああ、そうなんだよ。三日間日払いでいいからって。社員っていうかアルバイトという感じかな」
 岩崎がおどけながら言う。「結構、美人だよ」と付け加えた。
「氷河期前なのに珍しいですね」
「そうなんだよ。クライアント先に挨拶回りしたいから一緒に連れていこうかな、と思って。美人だし」
 岩崎は〝美人〟を異様に強調した。だが、そこに卑しさはなく純粋にそう思っている声音だった。秋津はそこにも彼に対して好感を抱く。
 彼のような人間が政治家にもなれば何かが変わったかもしれない。下の痛みもわかり上の苦労もわかる。政治の世界とは孤立奮闘するのは難しいのかもしれない。派閥だとか、一人では物を考えられない人間達がよってたかって、ああでもない、こうでもない、と議論を振りかざす。だが、何も変わらない。いいアイデアは、集団の場合に限らず、必ず一人から出る。その一人が英雄だ。
「煙草は身体に悪いよ」と岩崎は言った。
 その岩崎の言葉を尻目に、秋津は喫煙ブースへ向かった。ブースというのは名ばかりで屋上で吸うだけだ。オフィスは十階にあり、その上がちょうど屋上なので手軽といえば手軽、だ。
 気づけば雨は止んでいた。息を吐くと白い湯気が空に飛んでいく。冬用のスーツでも寒さが全身を覆う。しかし、もやっとした思考をクリアにするにはちょうど良い冷気だった。 
 岩崎は人間に対して地球が恵みを与えている、と言っていた。それは間違いなく事実だろう。だが、 その恩恵に授かりすぎ、資本主義という実体のなさに翻弄され、自然環境は壊され、動物達の住処は減少し、資源は食いつくされた。
『氷河期』が来るというが、今生きている者にとって〝生きる〟という意味をもう一度考えるにはよかったのかもしれない。
 もちろん生き残れれば、の話だが。と彼は思う。
 秋津は胸ポケットから煙草を一本取出し、ライターで火をつけ深々と吸った。そして一気に煙を空気中に吐き出す。冷気に舞う煙の色合いに彼は芸術性を見出す。これが暑い日では駄目だ。
 とくに、冬だ。
 煙草を吸うものはいつしか嫌煙され、肩身が狭くなった。でも、こんな寒い日ぐらいは煙に目を奪われるのもいいのではないか。見る者によっては綺麗だし、見る者によっては顔をしかめる。
 煙草を咥えながら秋津は、岩崎から手渡されたサンドウィッチを包んでいるサランラップを丁寧に開けた。それは玉子サンドだった。ボリュームがあり玉子がパンからはみ出ている。ご丁寧にサランラップに黒のマジックで文字が書かれていた。
〝思い出は忘れた頃に戻って来る〟、と。
 秋津は、その文章がわかるようでわからなかった。当の昔に過去に拘りというものがなくなった。いくら過去を振り返り美化しようと、いい影響を及ぼさないからだ。生きているのは今という時であり、現在だ。過去に何か意味があるのだろうか、未来も〝今〟が創る。だが、一秒後には過去の異物と化す。なら過去にも意味があるということか。思考が混乱してきた。
 玉子サンドを一口食べた。秋津の口の中で玉子の甘味と、パンに塗りつけたであろうマーガリンの濃厚さが広がった。家庭の味、というものがあるならばこういうものを言うのだろう。
 そう、自然と笑みがこぼれる。だが、秋津の笑みは落ち葉のように枯れている。そしてパシャ、と見知らぬ人に踏まれるのだろう。
 秋津は玉子サンドのまろやかな味を口の中に含ませ、包んであったサランラップを右ポケットに入れた。
 玉子サンドは秋津の好物でもある。
 いやでも過去を思い出させる。
 あれは・・・・・・
「ねえ、あなたのギターの音、感情がなくなった。それが魅力でもあり、怖い」
 ベッドで柚葉が秋津の指を触りながら言った。卵形の整った顔立ち、肩まである髪は固定されたようにセンターで分けられている。形のよいこぶりな胸は秋津に芸術美を感じさせ、右頬には近くで見ないとわからない小さいホクロがある。それは彼女を手に入れないとお目にかかれない代物だ。
 柚葉、そうつぶやきながら秋津は屋上から冷気が漂う空を見上げた。