氷河期が始まろうとしていた。といっても事のはじめに人類が経験したのは世界各地での就職氷河期だ。基幹産業を疎かにし、実体もなく、よくわからないIT革命の波に押され、何事もシステマティックに効率よく、かつ簡便に処理することを覚えてしまい、物事を考えているようで考えなくなってしまった。
データに頼り、預金残高のお金がシステム上で行き交う。そして何か社会全体で大きな物事が起こると、そのシステムに印字されていた数値は胡散霧消と化す。ある者はパニックになり、ある者は職業を失い、ある者は懲りずに資本主義の権化と成り果てる。それら資本主義に魅せられた愚かな者達の驕りが、前途有望な若者の職を奪い、いや大学だけではなく高校を卒業をしても職にありつけなくなった。もちろん四十代の働き盛りで、真面目に汗水垂らし地道にコツコツと働いていた者たちも職を失った。
僕はペットボトルに入った水を一口飲んだ。さらにもう一口。
「ねえ、雪人」
早絵が雪人を見ながら言った。その瞳は潤っていて今にも涙がでそうなほどだった。
「なに?」
僕は訊いた。
「雪人って、本当に美味しそうにお水を飲むよね」と早絵は言った。
「それはありがとう。それよりも僕の話は聞いてくれてるの?」
「聞いてるよ。就職氷河期がどうとかでしょ」
早絵は覗き込むように僕を見た。そのままキスでもしてきそうな雰囲気だった。あくまで雰囲気だ。それに僕の話を幾分か上の空で聞いてることは間違いない。これだけ太陽が僕らを照射すれば、身体は火照り、思考を麻痺させる。そしてなにより、喉が渇く。
東京都足立区西新井にあるタワーマンションの屋上にいる。駅から三分で立地条件はいい。僕はそこの七階に住んでいて、早絵は十五階に住んでいる。
一口頂戴、と早絵が言ったので僕は無言でペットボトルを差し出した。
僕は彼女の喉仏を観察した。ゴクゴク、と緩急をつけた動きに見惚れた。ペットボトルに入った水が早絵の体内に侵入していった。
しばし僕らは空を眺め、空気を吸った。
「でもさ、明日から、『氷河期』が始まるなんて信じられないよね」と早絵は言った。
「早絵、まだその部分まで話してないんだ。先走らないでくれよ」
と僕は早絵の肩に手を起き、頼むから、という念を込めた。
「私、映画でも小説でもさ、すぐ結末を知りたくなって、最後から観たり読んだりしちゃうんだよね」
笑うとえくぼが出現し八重歯をのぞかせた屈託のない笑みを早絵は僕に向けた。
「やはり早絵は変わり者だ。それに結末知っても、全体像がわからなければなんのことだかよくわからないじゃないか」
「うん。それでいいの」
「それでいい?」
僕は答えの続きを待った。
早絵は一度立ち上がり、タイトなデニムの後ろポケットから二十一世紀が生んだ革命的製品、アイフォンを手際良く取出し撮影した。僕は空より、革命的製品アイフォンより、早絵の答えが気になった。焦らすのはやめてもらいたい。
約三分間の沈黙の後、早絵はようやく口を開いた。
「それでいいのよ。結末を知ったら、その前の部分は想像するの。そういうやり方が好きなのよ。わたし」
最後の、わたし、には有無を言わせぬものがあった。
「やはり君は少しばかり変わっている」
「そう?」
早絵は首を傾げた。それは計算された角度だった。ショートカットの女性が行うとより一層首のラインが強調される。もちろん大半の人はそんなところは見ていない。だが、僕は見る。彼女の計算しているようで、していない、そういう細かな仕草は僕の心を掴む。
「君の考え方は嫌いではない」
「私も、雪人の考え方は嫌いではない。でも、少し話が長いけどね」と早絵は僕の隣りに座り、「そこも魅力よ」と付け加えた。
「それは嬉しいな。僕の話を楽しんでくれる女性は珍しいし、僕のことを好きになるというのは、地球が破裂するぐらいの出来事だよ」
「破裂はしないけど、氷河期は明日よね」
「早絵」と僕はため息をつき、「何度も言うようだけど、僕はまだその部分を話していないんだ」と言った。
「そうだったね。ごめんね」早絵は素直に謝り、「じゃあ、話の続きを聞こうかな」と言った。
「じゃあ、僕も喋ろうかな」
「人ってさ、実は喋ったり、話を聞いたりするだけでも幸せ感じるんだね」
「随分、達観した物言いだね」
「雪人も、年の割には、かたい物言いね」
と早絵が笑いながら言い、僕もつられて笑った。
「でも、喋る、聞く、ときたら大事な物を忘れてるよ」
僕は空を見上げた。太陽が眩しかった。このまま屋上で寝るのも悪くはない。が、時代は悪い。
「それはなに?」
「早絵もいずれ気づくさ」
「焦れったいなあ」と早絵は頬を膨らませ、「結末が知りたい」とつぶやいた。
データに頼り、預金残高のお金がシステム上で行き交う。そして何か社会全体で大きな物事が起こると、そのシステムに印字されていた数値は胡散霧消と化す。ある者はパニックになり、ある者は職業を失い、ある者は懲りずに資本主義の権化と成り果てる。それら資本主義に魅せられた愚かな者達の驕りが、前途有望な若者の職を奪い、いや大学だけではなく高校を卒業をしても職にありつけなくなった。もちろん四十代の働き盛りで、真面目に汗水垂らし地道にコツコツと働いていた者たちも職を失った。
僕はペットボトルに入った水を一口飲んだ。さらにもう一口。
「ねえ、雪人」
早絵が雪人を見ながら言った。その瞳は潤っていて今にも涙がでそうなほどだった。
「なに?」
僕は訊いた。
「雪人って、本当に美味しそうにお水を飲むよね」と早絵は言った。
「それはありがとう。それよりも僕の話は聞いてくれてるの?」
「聞いてるよ。就職氷河期がどうとかでしょ」
早絵は覗き込むように僕を見た。そのままキスでもしてきそうな雰囲気だった。あくまで雰囲気だ。それに僕の話を幾分か上の空で聞いてることは間違いない。これだけ太陽が僕らを照射すれば、身体は火照り、思考を麻痺させる。そしてなにより、喉が渇く。
東京都足立区西新井にあるタワーマンションの屋上にいる。駅から三分で立地条件はいい。僕はそこの七階に住んでいて、早絵は十五階に住んでいる。
一口頂戴、と早絵が言ったので僕は無言でペットボトルを差し出した。
僕は彼女の喉仏を観察した。ゴクゴク、と緩急をつけた動きに見惚れた。ペットボトルに入った水が早絵の体内に侵入していった。
しばし僕らは空を眺め、空気を吸った。
「でもさ、明日から、『氷河期』が始まるなんて信じられないよね」と早絵は言った。
「早絵、まだその部分まで話してないんだ。先走らないでくれよ」
と僕は早絵の肩に手を起き、頼むから、という念を込めた。
「私、映画でも小説でもさ、すぐ結末を知りたくなって、最後から観たり読んだりしちゃうんだよね」
笑うとえくぼが出現し八重歯をのぞかせた屈託のない笑みを早絵は僕に向けた。
「やはり早絵は変わり者だ。それに結末知っても、全体像がわからなければなんのことだかよくわからないじゃないか」
「うん。それでいいの」
「それでいい?」
僕は答えの続きを待った。
早絵は一度立ち上がり、タイトなデニムの後ろポケットから二十一世紀が生んだ革命的製品、アイフォンを手際良く取出し撮影した。僕は空より、革命的製品アイフォンより、早絵の答えが気になった。焦らすのはやめてもらいたい。
約三分間の沈黙の後、早絵はようやく口を開いた。
「それでいいのよ。結末を知ったら、その前の部分は想像するの。そういうやり方が好きなのよ。わたし」
最後の、わたし、には有無を言わせぬものがあった。
「やはり君は少しばかり変わっている」
「そう?」
早絵は首を傾げた。それは計算された角度だった。ショートカットの女性が行うとより一層首のラインが強調される。もちろん大半の人はそんなところは見ていない。だが、僕は見る。彼女の計算しているようで、していない、そういう細かな仕草は僕の心を掴む。
「君の考え方は嫌いではない」
「私も、雪人の考え方は嫌いではない。でも、少し話が長いけどね」と早絵は僕の隣りに座り、「そこも魅力よ」と付け加えた。
「それは嬉しいな。僕の話を楽しんでくれる女性は珍しいし、僕のことを好きになるというのは、地球が破裂するぐらいの出来事だよ」
「破裂はしないけど、氷河期は明日よね」
「早絵」と僕はため息をつき、「何度も言うようだけど、僕はまだその部分を話していないんだ」と言った。
「そうだったね。ごめんね」早絵は素直に謝り、「じゃあ、話の続きを聞こうかな」と言った。
「じゃあ、僕も喋ろうかな」
「人ってさ、実は喋ったり、話を聞いたりするだけでも幸せ感じるんだね」
「随分、達観した物言いだね」
「雪人も、年の割には、かたい物言いね」
と早絵が笑いながら言い、僕もつられて笑った。
「でも、喋る、聞く、ときたら大事な物を忘れてるよ」
僕は空を見上げた。太陽が眩しかった。このまま屋上で寝るのも悪くはない。が、時代は悪い。
「それはなに?」
「早絵もいずれ気づくさ」
「焦れったいなあ」と早絵は頬を膨らませ、「結末が知りたい」とつぶやいた。