俺は祭りの会場近くの、いつも学校の登下校で使うバス停から、佑香と一緒にバスに乗った。そのとき、柳瀬と目が合い、柳瀬は俺たちに軽く頭を下げた。一年以上登下校に使っているバスで、そのほとんどの運転手が柳瀬だったから、俺も柳瀬の顔は覚えている。それはきっと柳瀬からしても同じであるだろう。だから柳瀬は俺と佑香が一緒に乗ってきたことは認識しているはずだ。今の柳瀬の言葉だと、俺がバスに乗るときに、柳瀬は俺のすぐ後ろにいた佑香を見ていないことになる。

「あの、俺と一緒に女の子がいたと思うんです。萩平のバス停で降りませんでした?」

「いいえ。鳴沢を最後に、この終点までお客さんは誰も降りられていませんよ」

 柳瀬は俺の言葉に困ったように右手で顎を擦りながら答えた。柳瀬が最後に客が降りたという鳴沢は、俺や佑香の家からの最寄りのバス停である萩平の十一個前のバス停だ。そんな遠いところで佑香が降りるはずがない。
 いや、ちょっと待て。萩平のバス停を超えると確か……そうだ、バスは思返橋を渡るはずだ。となると、俺はバスで寝過ごし、そのまま思返橋を渡り、元の世界に戻ってしまったことになる。
 眠りから覚め、徐々に覚醒してきた頭で確信を得たところで、柳瀬が急に腑に落ちたといった様子で右手を顎から離してそのまま制服の上着の裾を叩いた。制服がポフッと気の抜ける音を立てる。

「なるほど、お客さんは思返橋の奇跡を体験しているんですか」

 そして、柳瀬から言われたことは、俺の思いもよらぬものだった。柳瀬は確かに思返橋と言い、それを奇跡と言った。その言葉が何を表しているのか、俺はすぐに理解する。

「何故……それを?」

「いえ、私も随分昔に体験したんですよ。橋を渡って、もう一つの世界と言いますか……同じ時間軸の別の可能性の世界に行ったことがあるのです」

「柳瀬さんも思返橋を渡って別の世界に……」

「おや、私の名前を覚えてくれているのですね」

「はい。運転席の後ろにいつも貼り出されてるので……」

 思わず柳瀬の名前を呼んでしまい、俺は慌てて理由を説明した。すると、柳瀬は少し寂しそうな表情になった。

「そういうことですか」

 柳瀬はそう短く、まるで独り言のように小さく呟く。

「それより、思返橋の奇跡とは? 柳瀬さんはどんな体験をしたのですか?」

 柳瀬の反応が気になりつつも、俺は結論を急ぐように柳瀬に質問する。一瞬見せた柳瀬の寂しそうな表情はすぐになりを潜め、いつもの温和な笑みで柳瀬の目尻の皺がくしゃっと垂れた。

「当時の私はまだ君よりも年下だったと思う。子供の少ない町で、まるで兄弟のように育った二つ年下の友人と仲違いしたまま、その友人が遠くに引っ越してしまってね」

 バスの薄暗い明かりの中、柳瀬はポツリポツリと語りはじめる。窓の外は民家と街灯の光が点在しているだけで、ほぼ黒い世界が広がっていた。柳瀬は目尻の皺を崩すことなく、続きを語る。

「私は酷く後悔した。その友人に最後に掛けた言葉は、消えてしまえという、とても非道いものだったよ」

 酷く後悔した。と、言いながらも柳瀬の表情は常に穏やかだった。同じように後悔している俺の心の中は、空気が詰まったペットボトルを無理やり水底に沈めているから、ゴボゴボと泡が浮かんでは弾けてを繰り返している。翻って、柳瀬は後悔していると言う割に、その穏やかさは無風の湖畔の水面のように、波一つなくとても静かだった。

「友人は私の言うとおり、私の前から消えてしまった。それから数日経って、私の後悔はどんどん大きくなっていったんだ。どうしてあんなことを言ってしまったのかと、毎日のように自分を責めた」

 柳瀬の後悔は、言葉だけ聞けば、嵐の海のように荒れていたように思える。それなのに、柳瀬は何処までも穏やかだ。俺は佑香を助けられなくて後悔した。たった一歩、体を動かせば俺は佑香を助けることが出来た。あの瞬間に戻れるならと何度も思い、それは日を追うごとに大きく、手の付けられない感情へと成長していった。俺と柳瀬、激しさと穏やかさ、この違いはなんなのだろうか。

「そんなある日、私は引き寄せられるように思返橋へとやってきた。そして橋を渡ると不思議な感覚がして、気が付いたら目の前に引っ越したはずの友人が居たんだ。あのときは自分の目を疑ったね」

 そうだ。俺も柳瀬と同じように、あの日、思返橋に引き寄せられた。橋を渡ると、そこには佑香が居たんだ。柳瀬の体験は俺と同じだ。

「私はすぐに友人に謝った。しかし、だ。私は友人に、怒鳴られてしまったのだ。私が非道いことを言ってしまったことについてではなく、私が謝る際に彼の引っ越しのことを話したのだが、彼は何故引っ越すことを知っているのかと、予想外のことで私に怒鳴ったのだよ」

「どういうことですか?」

 ここまでただ聞いていただけだった俺は、柳瀬の言葉から生まれた疑問を率直に質問した。

「橋を渡った先は、友人が引っ越すのが一週間遅い世界だったんだ。そして、結論から言うと、友人は私に引っ越すことを告げずに去ろうとしていた。そのためにわざと喧嘩したらしい。彼は不器用だったからな。しかし、彼も引っ越すまでの期間、本当にそんな別れ方でいいのかを迷っていた」

「どうして分かるんです?」

「その日は結局、彼とはほとんど会話が出来なくてね。後日私は、また橋を渡ったのだよ。そうしたらその世界の私と友人が大喧嘩している場面にバッタリ出会ってしまってね。そのときは大混乱だったさ。何せ自分がもう一人目の前にいるし、友人からしたら私が二人いるしで収拾がつかなくなってしまってね」

 柳瀬は当時の光景を思い出したのか、目尻の皺をさらに深くして笑った。

「ちょっと落ちついたところで、状況を整理して、そこで初めて友人は私が別の世界から来たのだと理解してくれた。同時に、喧嘩別れした私の後悔と、その別れ方でいいのかと苦悩する友人の思いが聞けたのだよ」

 そっちの世界の自分はただ呆然と立ち尽くしていたけどねと柳瀬は付け加えた。
 別の世界の俺は佑香を助けて命を落としてしまったから、俺がバッタリ出会うなんてことは起きない。柳瀬の場合は生きているから、そんなこともあるのだろう。結構な惨事に思えるが、こうして笑い飛ばす柳瀬は思っていたよりも豪快な人柄なのだと、俺の中で柳瀬の評価が変化した。

「私の話しはそれで終わりだよ。それ以来、思返橋を渡っても、世界を渡ることは出来なくなった」

 そう言って、柳瀬は話しを終えるかと思ったが、思い出したように続きを語り出した。

「そうそう、結局それから二十年くらい経って、こっちの世界でも友人と再会できたよ。まぁ、最後は意地みたいなものだったけれどね」

 柳瀬の水面は終始静かだ。それはきっと後悔がなくなったからなのだろう。柳瀬の言葉には、後悔が生み出す感情の濁りを全く感じない。

「私の実家は駄菓子屋をやってたんだけど、小さい頃はその友人とよく入り浸っていたんだ。店主でもあった私のお婆さんが毎日のようにお店に立てなくなってからは私が何回か店番をするようになってね。どうしてか、お店を残していればまた友人に会える気がしたのだよ。私たちの思い出が最も色濃く残る場所だったからね」

「駄菓子屋ヤナセ、ですね」

 俺がそう言うと、柳瀬の表情が一段明るくなった。

「やっぱり憶えてくれていたかい。嬉しいよ」

 そして、柳瀬の喋り方は柔らかくなり、俺の髪をくしゃくしゃと乱暴に撫でた。小学校一年生の頃に好きだった駄菓子屋のおじさんの大きな手の感触を思い出す。先ほどまではバスの運転手と乗客という関係だった俺と柳瀬は、近所の子供と駄菓子屋のおじさんへと、時が戻ったのだ。柳瀬の話し方の変化は、まさにそれだろう。