俺は、佑香との約束五分前に世界を渡った。
思返橋の向こう側では、既に佑香が待っていた。
「早いな。待たせたか?」
「ううん。大丈夫。今日は早く来てくれたんだね」
佑香は昨日のことを思い起こさせるように、わざと冗談めかして言う。
昨日の白がメインの服装とは違い、今日の佑香は赤のVネックティーシャツに、紺色のショートパンツという、とても動きやすそうな格好をしていた。デートに向いた服装とは言えないかもしれないが、こういうラフな服装の方が佑香らしい。服に合わせて赤のワークキャップも被っており、全体的にボーイッシュな印象を受ける。
俺達はいつものバス停に向かい、少し待ってからやってきた市街地行きのバスに乗り込んだ。昨日とは違い、今日はいつもの四十過ぎくらいの男性の運転手だ。見慣れた運転手の姿に、何故かホッとする。これもきっと、“安全な日常”という、人の生存本能からくる安心感なのだろう。いつもの運転手なら事故は起きないだろうという、根拠のない安心感だ。
全く会話をしたことがない、この運転手の名前は柳瀬 耕一というらしい。それだけは、運転席の背後の仕切りにネームプレートがあり、知っていた。寡黙で、お客が降りる際に「ありがとう」とお礼を言っても、お客に向けて軽く会釈するだけですぐに前を向いてしまう。そんな人物だ。
しかし、この日は違っていた。
「君たち、東高校の生徒さんだよね? 今日は二人でお出かけかな。楽しんできてね」
バスを降りる間際、運転手の柳瀬の方から俺たちに声を掛けてきたのだ。俺は突然のことに驚き、気の利いた返事もろくに出来ないままバスを降りてしまう。佑香は柳瀬に満面の笑みで「ありがとうございます」と伝えていた。
俺はこの柳瀬という人物を知った気でいただけだったのだろう。寡黙で、仕事に真面目で、お客と言葉を交わすこともない。そんな人物だと、何度か見知ったことで推測し、決めつけていた。先ほど俺たちに掛けてくれた言葉には温かさがあり、今まで一度も見たことがなかった柳瀬の柔らかい笑みも同時に向けられていた。
バスを降りて程なくして、俺と佑香は緑地公園へと到着した。昨日ショッピングモールに行くときに通りかかった緑地公園だ。
園内の広さは無料開放されている中であれば、市内どころか県内でも随一で、緑地公園を東西に分断するように在来線と国道が間を突っ切っている。ただ、昨年の台風で緑地公園の中でも特に大きな木が倒れてしまい、大騒ぎになった。海に近い街だからこそ、台風の被害は本州の中では大きい方なのだ。
そんな緑地公園だが、ここは俺と佑香が恋人同士になった場所でもある。だからこそ、今日改めてこの場所に訪れたのだ。
「昨日も思ったけど、懐かしいね」
「そうだな。学校から遠回りだし、あれから来てなかったからな」
そんな些細な会話をしながら園内に敷かれた道を俺と佑香は並んで歩く。
「それにしても、あの運転手の人に声掛けられるなんて思ってもなかったな」
俺は歩きながら、気になっていたことを佑香に投げかけた。
「そう? あの人、私たちと同じ町の出身だし、結構私達のこと気に掛けてくれてたよ?」
「は? どういうこと? 同じ町出身?」
「そう。もう十年以上前に出て行っちゃったみたいだけどね。私も、友哉も小さい頃に会ったことあるよ? ほら、お寺の横の」
「あ、駄菓子屋でたまに店番してたおっちゃんか!」
「そうそう。駄菓子屋さんも、お婆さんが亡くなってすぐにお店閉めちゃって、それっきりになっちゃったけどね」
「なるほどなぁ。よく覚えてたな、佑香」
そういって俺が誉めると、佑香はまた「いひひひ」と笑った。
「それにしても、何で教えてくれなかったんだ?」
「友哉も気付いてると思ってたし、別に言うほどのことじゃないかなって」
佑香の言葉に少し引っ掛かりながらも、俺はそういうもんかと納得した。
もし、最初から気付いていれば、俺は柳瀬という運転手にもっと別の印象を抱いていただろう。佑香に言われて、もう十年以上も前の記憶が蘇ってくる。思い出すのは、大きなゴツゴツとした手のひらと、それに撫でられたときの心地よさ、安心感だ。もしかしたら、バスに乗ったときに感じていた安心感は、俺の無意識が柳瀬に撫でられたときの気持ちを覚えていたからなのかもしれない。
駄菓子屋は基本、七十は過ぎているであろう、お婆さんがいつもレジの横のパイプ椅子に座っていた。俺も佑香もまだ小学校に上がりたての頃の記憶だ。あの町には駄菓子屋と言えばそこしかなく、俺も佑香も毎日のように通っていた。たまに、お婆さんが座っていた特等席のパイプ椅子には、優しい目をした、おじさんが座っていたことがあった。それがバスの運転手の柳瀬なのだ。柳瀬は、俺達が来ると、いつも頭を撫でてくれた。大きな手は暖かくて、俺は柳瀬に撫でられるのが好きだった。
しかし、俺たちが小学校の二年生に上がる頃、駄菓子屋のお婆さんが亡くなってしまい、町に一軒しかなかった駄菓子屋は姿を消した。柳瀬とも、それきり会わなくなったのだった。
思返橋の向こう側では、既に佑香が待っていた。
「早いな。待たせたか?」
「ううん。大丈夫。今日は早く来てくれたんだね」
佑香は昨日のことを思い起こさせるように、わざと冗談めかして言う。
昨日の白がメインの服装とは違い、今日の佑香は赤のVネックティーシャツに、紺色のショートパンツという、とても動きやすそうな格好をしていた。デートに向いた服装とは言えないかもしれないが、こういうラフな服装の方が佑香らしい。服に合わせて赤のワークキャップも被っており、全体的にボーイッシュな印象を受ける。
俺達はいつものバス停に向かい、少し待ってからやってきた市街地行きのバスに乗り込んだ。昨日とは違い、今日はいつもの四十過ぎくらいの男性の運転手だ。見慣れた運転手の姿に、何故かホッとする。これもきっと、“安全な日常”という、人の生存本能からくる安心感なのだろう。いつもの運転手なら事故は起きないだろうという、根拠のない安心感だ。
全く会話をしたことがない、この運転手の名前は柳瀬 耕一というらしい。それだけは、運転席の背後の仕切りにネームプレートがあり、知っていた。寡黙で、お客が降りる際に「ありがとう」とお礼を言っても、お客に向けて軽く会釈するだけですぐに前を向いてしまう。そんな人物だ。
しかし、この日は違っていた。
「君たち、東高校の生徒さんだよね? 今日は二人でお出かけかな。楽しんできてね」
バスを降りる間際、運転手の柳瀬の方から俺たちに声を掛けてきたのだ。俺は突然のことに驚き、気の利いた返事もろくに出来ないままバスを降りてしまう。佑香は柳瀬に満面の笑みで「ありがとうございます」と伝えていた。
俺はこの柳瀬という人物を知った気でいただけだったのだろう。寡黙で、仕事に真面目で、お客と言葉を交わすこともない。そんな人物だと、何度か見知ったことで推測し、決めつけていた。先ほど俺たちに掛けてくれた言葉には温かさがあり、今まで一度も見たことがなかった柳瀬の柔らかい笑みも同時に向けられていた。
バスを降りて程なくして、俺と佑香は緑地公園へと到着した。昨日ショッピングモールに行くときに通りかかった緑地公園だ。
園内の広さは無料開放されている中であれば、市内どころか県内でも随一で、緑地公園を東西に分断するように在来線と国道が間を突っ切っている。ただ、昨年の台風で緑地公園の中でも特に大きな木が倒れてしまい、大騒ぎになった。海に近い街だからこそ、台風の被害は本州の中では大きい方なのだ。
そんな緑地公園だが、ここは俺と佑香が恋人同士になった場所でもある。だからこそ、今日改めてこの場所に訪れたのだ。
「昨日も思ったけど、懐かしいね」
「そうだな。学校から遠回りだし、あれから来てなかったからな」
そんな些細な会話をしながら園内に敷かれた道を俺と佑香は並んで歩く。
「それにしても、あの運転手の人に声掛けられるなんて思ってもなかったな」
俺は歩きながら、気になっていたことを佑香に投げかけた。
「そう? あの人、私たちと同じ町の出身だし、結構私達のこと気に掛けてくれてたよ?」
「は? どういうこと? 同じ町出身?」
「そう。もう十年以上前に出て行っちゃったみたいだけどね。私も、友哉も小さい頃に会ったことあるよ? ほら、お寺の横の」
「あ、駄菓子屋でたまに店番してたおっちゃんか!」
「そうそう。駄菓子屋さんも、お婆さんが亡くなってすぐにお店閉めちゃって、それっきりになっちゃったけどね」
「なるほどなぁ。よく覚えてたな、佑香」
そういって俺が誉めると、佑香はまた「いひひひ」と笑った。
「それにしても、何で教えてくれなかったんだ?」
「友哉も気付いてると思ってたし、別に言うほどのことじゃないかなって」
佑香の言葉に少し引っ掛かりながらも、俺はそういうもんかと納得した。
もし、最初から気付いていれば、俺は柳瀬という運転手にもっと別の印象を抱いていただろう。佑香に言われて、もう十年以上も前の記憶が蘇ってくる。思い出すのは、大きなゴツゴツとした手のひらと、それに撫でられたときの心地よさ、安心感だ。もしかしたら、バスに乗ったときに感じていた安心感は、俺の無意識が柳瀬に撫でられたときの気持ちを覚えていたからなのかもしれない。
駄菓子屋は基本、七十は過ぎているであろう、お婆さんがいつもレジの横のパイプ椅子に座っていた。俺も佑香もまだ小学校に上がりたての頃の記憶だ。あの町には駄菓子屋と言えばそこしかなく、俺も佑香も毎日のように通っていた。たまに、お婆さんが座っていた特等席のパイプ椅子には、優しい目をした、おじさんが座っていたことがあった。それがバスの運転手の柳瀬なのだ。柳瀬は、俺達が来ると、いつも頭を撫でてくれた。大きな手は暖かくて、俺は柳瀬に撫でられるのが好きだった。
しかし、俺たちが小学校の二年生に上がる頃、駄菓子屋のお婆さんが亡くなってしまい、町に一軒しかなかった駄菓子屋は姿を消した。柳瀬とも、それきり会わなくなったのだった。