朝は気がついたらもう来ていた。
夜と朝の境界は曖昧で、どこまでが夜で、どこからが朝なのかは人によって違うと思う。ただ、夜から朝に切り替わっていく変化の只中は不思議な心地がするのだ。中間や期末のような重要なテストの前や、大晦日から正月へと一年が切り替わるなど、特別なときくらいしか夜から朝へと変わる時間を経験したことはない。けれど、朝日が顔を出すと今から新しい一日が始まるのだという気持ちが心の内から溢れてくる。本来一日の始まりは午前零時だ。でも、零時の切り替わりには新しい一日が始まるのだという実感は湧いてこない。朝日が昇り始めるのを見たときだけの特別な感情なのだろう。
変化というのは何なのだろうか。人間は変化を嫌う生き物だろう。いや、人間でなくてもそうだと思う。例えば目の前に崖があって、ロープと木の板だけのシンプルな橋が架けられているとしよう。崖から落ちたら無事では済まない。その橋を生きていくためにどうしても渡らないといけないとしたら、どうだろうか。一歩一歩慎重に、五感の全てから入る情報を吟味しながら、渡るだろう。自分の命が危険にさらされているという状況は、その生物にとって最大級のストレスだ。しかし、その橋は毎日渡る必要があるのだとすれば、どうだろう。最初は安全の保障がないから慎重になっていても、何度も渡るうちに慣れてしまい、初めに見たときとは橋の印象も変わってくるのではないだろうか。
繰り返される毎日とは、本来、常に死と隣り合わせである【生きる】という危険な道を、来る日も来る日も歩き続けることで“安全”だと誤認させてしまう。人間にも備わっている生存本能が、その“安全”を手放すことを拒否するのだ。故に人間は安全な毎日から変化させることを嫌う。
変化とは、例えば渡り慣れた橋の板が一枚落ちてしまうこと。もしくは、橋そのものが老朽化で渡れなくなり別の橋を渡らざるを得なくなることだ。板が一枚落ちるだけのような小さなことでも“安全”という認識は瓦解してしまうし、別の橋を渡るとなると“安全”を築き直す必要がある。常に変化なく“安全”のままであればあるほど人間は死に鈍感になっていくのではないだろうか。
ただ、夜から朝へと変化するときのように、心地よい変化というものも存在する。例えば好きな人に告白して恋人同士になるのは、そうだろう。フラれてお終いという場合も考えると必ずしも好転するとは限らないが、それでも人間は自ら変化を選ぶこともある。
佑香は変化を恐れない女の子だった。高校一年生の冬の初めに告白してきたのは佑香の方だ。結果的には両想いだったが、俺は幼馴染みとして育ち、今も仲の良い関係であることを悪くないと感じていて、それが壊れる可能性がある変化から逃げていた。俺と佑香は恋人同士に関係が変化したが、そこには能動的と受動的という決定的な違いがあった。
そこまで考えたところで、再び心の奥底へと沈めたモノが大きく脈打った。零れた気泡が左右に小刻みに揺れながら水面を目指す。それを俺は手で捕まえては、水底の容れ物へと戻していくのだ。変化の可能性を水底に沈めて、俺は今も逃げている。
カーテンの隙間から漏れた朝日が部屋を薄らと染める。俺は布団から起き上がって遮光性の強いカーテンを一気に全開にした。途端に部屋の中は全ての色を取り戻し、研磨したてのようにキラキラと光る。日の出のようなゆっくりとした変化ではなく、新しい一日への瞬間の変化だった。
通常なら日常なんて昨日から今日へのリセットの繰り返しだ。些細な違いしかない。しかし、今朝は違っていた。昨日の出来事は日常ではまず起きないことだったからだ。
思返橋という橋が違う並行世界を繋ぎ、俺だけがそれを渡れた。まるで小説や漫画の中でしかあり得ないような体験だった。その別の世界で俺は佑香に会い、今週末にも佑香に会うために橋を渡る。
窓を開けると、部屋から思返橋が見えた。車を縦に二台並べたくらいの幅の短い橋で、左右には柵の代わりに錆びたガードレールが付けられている。橋の床はアスファルトで、ガードレールの下にグレーの縁石がある。彩りもなくシンプルなモノトーンの橋だ。それでも稲の青々とした海原の中に佇む姿は一隻の小舟のようでもある。
あの橋の向こう側に佑香がいる。そう思うと、昨日まで見えていた景色とは違って見えた。
そういえば、佑香に返そうと思っていた日記が鞄にまだ仕舞ってある。何気なく日記を手に取ってみる。突然、窓から強い風が吹き抜ける。手に取った日記は強風でパラパラと勝手にめくれた。そして自然とあるページを開いて風がやむ。風になびいたカーテンはゆっくりと元の位置へと戻った。今の風は佑香の意思が宿っていたのかもしれない。日記の開かれたページに記された月日に俺は驚愕した。佑香の字で示された月日は昨日だったのだ。
夜と朝の境界は曖昧で、どこまでが夜で、どこからが朝なのかは人によって違うと思う。ただ、夜から朝に切り替わっていく変化の只中は不思議な心地がするのだ。中間や期末のような重要なテストの前や、大晦日から正月へと一年が切り替わるなど、特別なときくらいしか夜から朝へと変わる時間を経験したことはない。けれど、朝日が顔を出すと今から新しい一日が始まるのだという気持ちが心の内から溢れてくる。本来一日の始まりは午前零時だ。でも、零時の切り替わりには新しい一日が始まるのだという実感は湧いてこない。朝日が昇り始めるのを見たときだけの特別な感情なのだろう。
変化というのは何なのだろうか。人間は変化を嫌う生き物だろう。いや、人間でなくてもそうだと思う。例えば目の前に崖があって、ロープと木の板だけのシンプルな橋が架けられているとしよう。崖から落ちたら無事では済まない。その橋を生きていくためにどうしても渡らないといけないとしたら、どうだろうか。一歩一歩慎重に、五感の全てから入る情報を吟味しながら、渡るだろう。自分の命が危険にさらされているという状況は、その生物にとって最大級のストレスだ。しかし、その橋は毎日渡る必要があるのだとすれば、どうだろう。最初は安全の保障がないから慎重になっていても、何度も渡るうちに慣れてしまい、初めに見たときとは橋の印象も変わってくるのではないだろうか。
繰り返される毎日とは、本来、常に死と隣り合わせである【生きる】という危険な道を、来る日も来る日も歩き続けることで“安全”だと誤認させてしまう。人間にも備わっている生存本能が、その“安全”を手放すことを拒否するのだ。故に人間は安全な毎日から変化させることを嫌う。
変化とは、例えば渡り慣れた橋の板が一枚落ちてしまうこと。もしくは、橋そのものが老朽化で渡れなくなり別の橋を渡らざるを得なくなることだ。板が一枚落ちるだけのような小さなことでも“安全”という認識は瓦解してしまうし、別の橋を渡るとなると“安全”を築き直す必要がある。常に変化なく“安全”のままであればあるほど人間は死に鈍感になっていくのではないだろうか。
ただ、夜から朝へと変化するときのように、心地よい変化というものも存在する。例えば好きな人に告白して恋人同士になるのは、そうだろう。フラれてお終いという場合も考えると必ずしも好転するとは限らないが、それでも人間は自ら変化を選ぶこともある。
佑香は変化を恐れない女の子だった。高校一年生の冬の初めに告白してきたのは佑香の方だ。結果的には両想いだったが、俺は幼馴染みとして育ち、今も仲の良い関係であることを悪くないと感じていて、それが壊れる可能性がある変化から逃げていた。俺と佑香は恋人同士に関係が変化したが、そこには能動的と受動的という決定的な違いがあった。
そこまで考えたところで、再び心の奥底へと沈めたモノが大きく脈打った。零れた気泡が左右に小刻みに揺れながら水面を目指す。それを俺は手で捕まえては、水底の容れ物へと戻していくのだ。変化の可能性を水底に沈めて、俺は今も逃げている。
カーテンの隙間から漏れた朝日が部屋を薄らと染める。俺は布団から起き上がって遮光性の強いカーテンを一気に全開にした。途端に部屋の中は全ての色を取り戻し、研磨したてのようにキラキラと光る。日の出のようなゆっくりとした変化ではなく、新しい一日への瞬間の変化だった。
通常なら日常なんて昨日から今日へのリセットの繰り返しだ。些細な違いしかない。しかし、今朝は違っていた。昨日の出来事は日常ではまず起きないことだったからだ。
思返橋という橋が違う並行世界を繋ぎ、俺だけがそれを渡れた。まるで小説や漫画の中でしかあり得ないような体験だった。その別の世界で俺は佑香に会い、今週末にも佑香に会うために橋を渡る。
窓を開けると、部屋から思返橋が見えた。車を縦に二台並べたくらいの幅の短い橋で、左右には柵の代わりに錆びたガードレールが付けられている。橋の床はアスファルトで、ガードレールの下にグレーの縁石がある。彩りもなくシンプルなモノトーンの橋だ。それでも稲の青々とした海原の中に佇む姿は一隻の小舟のようでもある。
あの橋の向こう側に佑香がいる。そう思うと、昨日まで見えていた景色とは違って見えた。
そういえば、佑香に返そうと思っていた日記が鞄にまだ仕舞ってある。何気なく日記を手に取ってみる。突然、窓から強い風が吹き抜ける。手に取った日記は強風でパラパラと勝手にめくれた。そして自然とあるページを開いて風がやむ。風になびいたカーテンはゆっくりと元の位置へと戻った。今の風は佑香の意思が宿っていたのかもしれない。日記の開かれたページに記された月日に俺は驚愕した。佑香の字で示された月日は昨日だったのだ。