「むしろさ、お前はもう身内だよ! 美乃の彼氏ってことは、俺の弟みたいなもんだし」


信二はニカッと笑って、俺をからかった。
すかさず、眉を寄せてしまう。


「お前の弟なんて嫌だよ……」

「あっ! それなら、私の弟にもなるじゃない!」


げんなりした顔の俺に、広瀬もそう笑った。
思わず、口元を引き攣らせてしまった。


ある意味、どっちも嫌だ……。


「でも、いいなぁ〜……。本当に羨ましい」


笑顔で零した美乃に、瞳を緩める。


「ふたりは美乃の憧れだもんな! 結婚式、楽しみだな!」

「美乃もおしゃれしろよ!」

「一緒に服見に行こうね? 私のドレスも見立ててほしいし!」

「えっ⁉ いいの⁉」

「もちろん! 可愛い妹にドレスを見立ててもらえるの、楽しみにしてるんだからね」

「うん! 由加さんのドレス選びなら、私も一緒にしたい!」


楽しそうに話す三人に、俺はふと疑問をぶつけた。


「俺が行ったら浮くんじゃないか?」

「大丈夫だよ、いっちゃん」

「親にも許可は取ってあるからな! でも、作業着で来るのだけはやめてくれよ!?」

「バーカ! 染井がそんなことするわけないでしょ!」

「いやいや、染井なら……」

「そんなことするわけないだろ! でも、ちゃんと出席させてもらうよ」

「ふふっ、楽しみだなぁ。由加さん、どんなドレスが似合うかなー。今から調べておかなきゃ!」


突然の嬉しい報告に病室がパッと明るくなったようで、俺たちは内田さんにまた叱られないように気をつけながらもずっと笑っていた。
そして、面会時間が終わる前に病院を後にし、そのまま信二と広瀬と飲みに行くことにした。

「かんぱーいっ!」


病院の近くの居酒屋で、ビールが注がれたジョッキを鳴らした。


「本当におめでとう! 俺も嬉しいよ!」

「サンキューな。美乃のことも、今回のことも……。お前には本当に感謝してるよ」

「なんだよ、改まって……」

「今回のことは、本当に染井のおかげだよ。染井の言葉で、私は考え直したんだから! 本当に感謝してる」

「そっか、よかったよ……。実はさ、余計なこと言ったかもって、ずっと気になってたんだ」

「バーカ! 俺らはそんなこと気にしてねぇよ!」

「そうよ! バカね!」


俺の心配を余所に、信二も広瀬も笑顔で否定してくれた。
高校を卒業したあとはふたりと疎遠になっていたけれど、また再会できてよかったと心底思う。


俺たちは他愛もない話をして、何時間も飲み続けた。
まるで、高校時代に戻ったかのような楽しい時間だった。


「あいつも結婚したいだろうな……」


不意に眉を下げて微笑んだ信二が、ぽつりと呟いた。


「そうね。口にはしないけど、本当は『いつかは……』って夢見てるんじゃないかな……」

「そうだよな……」


ふたりの言葉に、ため息混じりに頷いた。
さっきまでの賑やかな雰囲気に反し、しんみりとした空気が流れ出す。


「あいつさ……入院してから不自由なことばっかりなのに、絶対に不満を漏らしたりしないんだよな……」

「そうだよね……。美乃ちゃんって周りを気遣かってばっかりで、自分のことはいつも後回しなんだもん」

「俺たちが喧嘩した時も、いつも仲を取り持ってくれてたよな……」

「うん……。美乃ちゃんがいなかったら、私たちはとっくにダメになってたよ……」

「俺の知らない三人の時間があるんだな」


信二と広瀬の会話に、眉を寄せて微笑む。

「本当に色々あったよ。喧嘩する度に、美乃ちゃんに怒られてた」

「美乃に?」

「うん。『もっと素直になりなさい!』ってね。『私は恋愛のことはよくわからないけど、自分の好きな人が自分を好きになってくれるって、きっとすごいことだよ! だから素直にならなきゃダメ!』って、よく言われたの」

「お前ら、そんな事があったのか……」

「私、気が強いから喧嘩しても謝れなくて……。そしたら、いつもそう言われたの。美乃ちゃんに言われると、もうグサッと来ちゃってね……。よく反省してた」


信二も知らなかったらしく、目を丸くしている。
俺は黙ったままでいると、広瀬はその時のことを思い出すように自嘲気味に笑った。


「でもこれは女同士の秘密だから、聞かなかったことにしてね?」


最後にそう言った彼女が、ジョッキのビールを一気に飲み干して店員を呼んだ。


「すみませーん! もう一杯くださーい!」

「おい、大丈夫かよ⁉」

「由加は弱いんだから、そろそろやめとけ!」

「なに言ってるの! あんたたちももっと飲みなさいよ! 染井はどうせ強いんでしょ!」

「あのなぁ、広瀬……。明日も仕事だろ?」

「いいの!」


結局、広瀬はひたすら飲み続け、酔い潰れて眠ってしまった。
俺たちの忠告を聞かなかった彼女に、信二とともに眉を寄せてしまう。


「あーぁ……。だから、言ったのに……」

「大変だな、お前も……」

「本当に振り回されてばっかりだよ。でもまぁ、惚れた弱みだな……。こいつには一生敵わないよ。今のお前ならよくわかるだろ?」

「ああ……」


ジョッキを煽った信二に、深々と頷く。
俺も一気にジョッキを空け、ビールを追加した。

「お前をさ、美乃に会わせたのは俺だろ? あの時、美乃も結構参ってて……。まぁクリスマスもずっと病院じゃ、落ち込むのは当たり前だけどな……」

「初めて会った時、無理矢理病院に運んで恨まれたよ。知らなかったとは言え、美乃には悪いことしたんだよな……」

「なに言ってるんだよ。おかげで、大事に至らなかったんだからな……。それに、今はお前らも付き合ってるんだしさ」


俺は頷いたあとで、小さなため息を漏らした。


「どうした? 浮かない返事だな」

「俺さ、最近よく考えることがあるんだ……」

「なんだよ? 俺でよかったら聞くから、言ってみろ」


俺の悩みの理由は、心配そうに眉を寄せた信二にはきっとわかっている。
それでも、あえて俺の言葉を待ってくれているようだった。


言い難いけれど、誰かに話を聞いて欲しい。
そしてできれば、それは信二に聞いてもらいたいことだった。


俺を見つめる瞳から、そっと視線を逸らす。
少しの間を置いてビールを一口飲み、深呼吸をしてから口を開いた。


「最近、ずっと不安なんだ……。俺は、美乃のことが本当に好きで、なにがあっても傍にいたいと思ってる。できれば、ずっと傍で支えていきたい。でも……本当は違ったんだよな……」

「なにが違うんだ?」

「美乃を必要としてるのは俺の方で、支えられてるのも俺なんだよ。これまでは本気で恋愛してこなかったくせに、今は美乃を失うことを恐れてるんだ……」


脳裏に浮かぶのは、柔らかく微笑む美乃の姿。
だけど……。


「美乃がいなくなれば、俺はどうなるんだ……って、ずっとそんなことばかり考えてる……」


彼女の笑顔ならいつだってこんなにも鮮明に浮かぶのに、いとも簡単に消えてしまう。
まるで、俺の不安を煽るように……。

「俺がどんな未来を描いてみても、そこに美乃はいない気がして恐いんだ……」


素直な気持ちを言葉にすると、泣き出してしまいそうになった。
賑わう店内で、俺たちのテーブルだけが重い空気を纏っている。


最愛のひとを失くすことへの、恐怖。
心を覆い隠すように押し寄せる、不安。
そんな感情に飲み込まれそうになる日々に、いつだって気が狂いそうだった。


だけど……俺は、美乃を手放せない。
彼女が別れを望んだとしても、きっと手放さない。
こんな自分に嫌気が差し、消えることのない恐怖や不安から逃げ出してしまいたくなる。


ジョッキにはまだビールが半分以上残っているけれど、泡はすっかり消えていた。
今日はどれだけ飲んでも酔えそうにないものの、それをまた一気に飲み干し、店員にビールを頼んだ。


しばらくして運ばれてきたビールを一口飲んだあと、恐る恐る信二を見た。
すると、眉を寄せていた信二が口を開いた。


「俺もさ、美乃がいなくなることが恐いんだ。でも、ずっと前から心のどこかで覚悟もできてたんだろうな……。最近は、自分でも驚くほど冷静なんだ」


意外な言葉に、なにも言えなかった。
だけど、苦しみから抜け出せない俺は、信二が少しだけ羨ましくも思えた。


「お前が不安なのは、それだけ美乃を本気で好きだからだよ……。お前の描く未来に美乃はいないのかもしれないけど、美乃の描く未来にはきっとお前がいる。だから、そんな顔するなよ」

「ああ……」


俺は、力なく頷くことしかできなかった。


「上手く言えなくて、ごめんな……」

「俺の方こそ悪い……。こんな話……」

「バカ! お前が自信なさそうにしてると、俺まで不安になるだろ!」

「ああ、悪い……。……よし、飲むか!」

「おう! 俺もまだまだ飲めるからな!」


この暗い空気を取っ払うように、俺たちはひたすら飲み続けた。

久しぶりに、浴びるように酒を飲んだ。
広瀬にした忠告を忘れたかのように、信二も何杯もビールを煽っていた。


さっきまでの重苦しい空気は、無理矢理作った明るさで隠した。
そんな風にして過ごし、気が付けば閉店時間になってしまっていた。


「今日は俺が奢るよ!」

「マジで⁉」

「ああ。結婚祝いだ」

「じゃあ、ご馳走様!」


信二は酔い潰れた広瀬に肩を貸しながら、ニカッと笑った。
俺は笑顔を向け、ふたりの荷物を持った。


「遅くなったけど、大丈夫か?」


会計を済ませて外に出たあと、完全に潰れた広瀬に苦笑混じりに視線を遣る。


「ああ、その辺でタクシー拾うよ」


信二は困り顔で笑いながら、今にも崩れてしまいそうな彼女に視線を落とした。


「大変だな、お前の嫁は……」

「まぁな……。でも、こいつのおかげで今の俺がいるんだし……。これでも本当に感謝してるんだ」


信二は笑みを浮かべ、愛おしげに広瀬を見下ろした。


「なんかいいな、そういうの。ちょっと憧れるよ」

「ははっ、どうだろうなぁ。……でも、お前にそんなこと言われるとむず痒いな」

「今日しか言わないよ」


アルコールのせいだといわんばかりの俺に、信二も目を細めていた。
弱音を吐いた夜の会話は静かな闇に溶け、明日にはきっとお互いに何事もなかったように顔を合わせるだろう。


「じゃあ、帰るか。今日はご馳走様」

「おう、またな」


大通りでタクシーを拾った信二に、荷物を渡して笑顔を向ける。
ふたりと別れたあと、冷たい風が吹く道を歩き出した。


夜空を仰ぐと、ぽっかりと浮かぶ蜂蜜色の月が輝いていた。
俺の心に反して今夜は憎らしいほどに綺麗な満月で、それを囲むようにたくさんの星が瞬いていた――。

それから数日後、信二から電話が掛かってきた。


『急なんだけど、結婚式の日取りが決まったんだ。二週間後の土曜に式を挙げる』

「本当に急だな……」


突然のことに驚きながらも、理由は安易にわかる。


「ああ、最短で二ヶ月後だったけど、キャンセルが出たらしくて昨日式場から連絡があったんだ。急に決まったことだから親戚も呼ばずに、お互いの家族とお前だけ招待して式を挙げることにしたから」

「二週間後か……。俺、仕事休めないかもしれないな」

「だよな……。俺もそう思って迷ったんだけど、美乃のことがあるからさ……」

「わかってる……。なんとか調整できるように、頼んでみるよ」

「悪いな……」

「なに言ってるんだよ! おめでたいんだから、謝るなよ!」

「そうだな」

「ああ! じゃあ、俺は仕事に戻るから」


電話を切ったあと、急いで仕事に戻った。
そして、仕事を終えてから現場監督を引き止めた。


「すみません、親方。ちょっといいですか?」

「おうっ! どうした?」


現場監督はこの仕事を始めて四十年以上のベテランで、年齢は五十代後半だ。
みんなからは、『親方』呼ばれている。


高校卒業間もない俺を快く雇ってくれ、出会った頃からずっと父親のように接してくれている。
父親を早くに亡くして母子家庭で育った俺も、現場監督のことを『親方』と呼び、本当に慕っている。


「この時期にお前が欠けるのはなぁ……。人手も足りねぇし……」

「そうですよね……。すみません」


予想通りに微妙な反応を返され、俺は眉を下げた。
わかってはいたけれど、信二と広瀬の結婚式は行きたかった。


「ああ、待て! わかった、休んでいいぞ!」

「えっ⁉」


絶対に無理だと思っていたから目を見開いてしまったけれど、親方は人情溢れる人だから俺の気持ちを察してくれたんだろう。

「その代わり、あとでみっちり働いてもらうからな!」

「はい! ありがとうございます!」


親方は豪快に笑いながら、俺の背中をバシッと叩いた。


「彼女も一緒なんだろ! ふたりでしっかり祝ってきてやれ!」


親方には、美乃のことを話していた。
俺たちが付き合っていることも、彼女の病気についても知っている。


詳細は話していないけれど、親方にはある程度のことは知っていてほしかった。
俺のことを息子のように思ってくれ、仕事を教えてくれた親方を、俺は心から信頼しているから。


「まぁ、一度くらいは彼女に会わせてくれよ!」

「お疲れ様でしたっ!」


親方は豪快に笑い、「お疲れさん」と言った。
俺は親方の背中に頭を下げ、軽い足取りで家に帰ったあとで身支度を整え、病院に急いだ。


病室には、予想通り信二と広瀬がいた。
報告を受けたらしい美乃は、満面に笑みを浮かべていた。


「いっちゃん! お仕事お疲れ様!」

「おぉ〜、お疲れ! さっきは仕事中なのに悪かったな!」

「ああ、いいよ! それより、休みがもらえたぞ」

「本当に⁉ 私、絶対にダメだと思ってたのよ〜。二週間後なんて、あまりにも突然過ぎるし無理だって……。でも、よかった! なにがあっても来てよね!」

「サンキュー、染井!」

「一緒に行こうね、いっちゃん!」

「ああ」


休みが取れたことを報告すると、三人とも心底喜んでくれた。


「明日、美乃ちゃんが外出許可をもらえたら、ドレスを見に行くつもりなのよ」

「俺も一緒に行くんだけど、染井も行こうぜ!」

「ああ、明日は休みだしな。もちろん行くよ」

「ダブルデートでドレスの下見なんて、なんだかすごいよね! ワクワクしちゃう!」


ふふっと笑った美乃が、嬉しそうに声を弾ませた。

「それにしても、急なのによく間に合うな。準備と大変なんだろ?」

「ある程度のことは決めてたから平気よ」

「由加は昔から、一度決めると行動が早いからな〜!」


信二は苦笑いしていたけれど、その顔は幸せそうだった。
ふたりの行動が早いのは、美乃の病気のことがあるからだ。


彼女は元気そうにはしているけれど、日に日に体調が悪化し、体力も少しずつ落ちてきた。
まだ元気な日があるものの、明らかに痩せ細っている。


二週間後とは言え、美乃がどうなるのかなんて誰にもわからない。
明日死ぬかもしれない。今、危篤になる可能性もある。そういう病気なんだ。


美乃は二十一歳で、数名の医師から宣告された余命よりも一年以上長く生きている。
だけど……それは毎日死と隣り合わせの世界だ。


「明日は美乃ちゃんの服も見に行こうね!」

「由加のドレスに、美乃の服か〜。楽しみだな!」

「うん! いっちゃんは、どんな服がいいと思う?」

「えっ?」

「もうっ! いっちゃん、ちゃんと聞いてなかったの?」

「ごめん、ちょっと考え事してた」

「考え事? なぁに?」

「あー、ほら、仕事だよ! それより、なんの話だったっけ?」


考えていたことがバレないように、必死に笑顔を繕って誤魔化す。


「明日のことだよ。由加さんが私の服も見に行こうって!」

「そっか。それより、外出許可は取れそうか?」

「どうかな? 少しくらいなら大丈夫だと思うけど……。あとで先生に頼んでみるよ」

「じゃあ、俺はもう帰るよ」

「え……? 早いね……」

「ごめん、今日はちょっと用事があるんだ。じゃあな!」


本当は用事なんてなかったけれど、俺は逃げるように病室を出た。