「まずは、熱が下がれば……と言うのが前提だからね? それと、外泊の日は昼からしか許可は出せない。次の日は、夕食までに戻ってくること。もちろん、ご両親の許可もきちんと取ってもらうからね」


俺と信二と広瀬は、菊川先生の言葉に真剣に耳を傾ける。
先生はそこまで話すと、美乃の顔を見ながら笑った。


「これでどうかな? 美乃ちゃん」


彼女は目を小さく見開いたまま、怖ず怖ずと口を開いた。


「本当にいいの……?」

「条件はきちんと守ってね?」

「はいっ……!」


菊川先生は微笑みながら、俺たちの方を見た。
許可をもらえたことは嬉しいけれど、疑問が拭えない。


「でも……どうして? ずっと反対してたのに……」

「毎日毎日、みんなにお願いされたからね……。美乃ちゃんや染井君だけじゃない。お兄さんやご両親、広瀬さんも何度も僕に頭を下げに来た。それから……」


先生が息を小さく吐いて、内田さんを見ながら微笑んだ。


「内田さんもね」


「へっ⁉」


驚いた俺たちは、見事にマヌケな声を揃えてしまった。


「参ったよ……。内田さんにまで何度も頭を下げられてね。……僕も医者としてはもちろん、美乃ちゃんの知人として、自分にできることをしようと思ったんだ」

「ありがとうございますっ!」

「先生、内田さん……。ありがとうっ……!」


俺と美乃は口々にお礼を言い、信二と広瀬は頭を深々と下げた。


「美乃ちゃん。熱が下がるように、しっかりご飯を食べて元気になってね」

「ご両親には僕から話をするから、明日ふたりが来られたら声を掛けてね」


菊川先生はそう言い残し、優しい笑顔を見せた内田さんと一緒に病室から出て行った。
残された俺たちは、思わず顔を見合わせながら笑い、美乃も久しぶりに本当に嬉しそうに破顔していた。

翌日から、美乃は今まで以上に一生懸命治療に励んだ。
とは言っても、点滴や薬以外では食事を摂るしかなく、彼女は食事の度に吐きそうになりながらも必死に食べていた。


「絶対に熱下げるから!」


口癖のようにそう言っては、毎日何度も体温計と睨めっこをしていた。
美乃はまた笑うようになり、俺はなによりもそれが一番嬉しかった。


「いつうちに来てもいいように、ちゃんと掃除しておいたよ」

「うん! パパとママもすごく喜んでたよ! お兄ちゃんも喜んでたけど、ちょっと複雑なんだって!」

「あいつの方が父親みたいだからな! 俺、あとであいつに殴られるかもな〜」


彼女の体調は安定しなかったけれど、また笑顔を絶やさなくなった。
そんな日々を過ごす中、クリスマスイヴを迎えた。


この日は、美乃と出会ってちょうど一年だった。
俺は病院に行くため、朝からクリスマスカラー一色の街中を歩いていた。


「……っ、やったぁーっ!!」


病室の前に着くと、彼女の叫び声が聞こえた。


「どうしたっ⁉」


歓喜の声音だと理解しながらも、ノックもせずにドアを開けてしまった。


「いっちゃん! あのねっ、熱が下がったよ! 三六度五分! ほら!」


美乃が満面に笑みを浮かべ、体温計を見せてくる。


「本当かっ⁉」

「うん‼」


嬉しそうに差し出された体温計のディスプレイには、間違いなく【36,5℃】と表示されていた。


「やったな! 俺、先生と内田さんに伝えてくるから!」


俺は病室を飛び出し、ナースステーションにいた内田さんに体温計を見せた。


「やったわね! 先生に連絡して、すぐに病室に行くわ!」


彼女は笑顔で喜び、菊川先生に連絡を入れた。

病室に戻ってすぐに、菊川先生と内田さんが美乃の様子を見に来た。
熱が下がったとは言え、室内はどこか緊迫した空気に包まれている。


「……うん」


先生は真剣な表情で診察をしたあと、彼女に優しく微笑みながら頷いた。


「やっと落ち着いたみたいだね。明日も平熱なら、外泊の許可を出すから」

「本当に……?」

「うん。だから、このまま維持できるように頑張ってね」

「はいっ‼」


菊川先生の言葉を聞いた美乃は、大はしゃぎしていた。
その姿はまるで、小さな子どもみたいだった。


俺ももちろん嬉しくて、久しぶりに心が弾んだ。
もしかしたら、彼女よりも俺の方が喜んでいたのかもしれない。


明日も平熱なら、美乃は外泊ができるんだ!


ただただ嬉しくて、自然と口元が緩んだ。
たとえ締まりのない顔だと思われても、気にならなかった。


「やったな」

「うんっ‼ 本当に嬉しい!」

「でも、油断はできないからな?」

「わかってるよ。いっちゃんより、私の方が体調のことは理解してるもん。でも、ワクワクしちゃう」

「ああ、そうだな。俺も、楽しみだ」


美乃も自然と笑顔が零れてしまうらしく、俺たちはずっとニヤけていた。
もし彼女が外泊できれば、俺たちにとって最高のクリスマスプレゼントになる。


「今日は早く寝なきゃ!」

「ああ、そうだな!」

「とにかく体を冷やさないように温かくして……。あ、そうだ! 靴下、モコモコのやつに履き替える!」


俺も美乃も、明日が待ち切れなかった――。


*****


翌朝、落ち着かない気持ちのままランニングを終え、急いで病院に向かった。
緊張と興奮で一瞬だけ病室に入るのを戸惑ったけれど、ゆっくりと深呼吸をしてからドアをノックして中に入った。


「美乃……?」


呼び掛けてみても、ベッドに潜っている美乃からの返事がない。


「美乃……?どうした……?」


俺は不安になって、恐る恐る再度声を掛けた。
彼女は布団から右手を出すと、その手でピースサインを作った。


「平熱です!」


ガバッと起き上がって満面の笑みで言った美乃につられ、俺も笑顔になった。


「やったな!」

「お昼ご飯食べて診察したら、外泊できるって! あとでパパとママも来るから!」


彼女は、俺に勢いよく抱き着いた。
俺たちは嬉しくて、何度も何度もキスをした。


「気分悪くないか?」

「絶好調!」


数時間後に昼食を完食した美乃は、俺の不安を余所にニコニコと笑っている。
彼女の両親が病院に着いた頃、ちょうど菊川先生も病室に来た。


「……うん、大丈夫みたいだね。じゃあ、準備ができたら病院を出ていいよ。明日の夕食までには戻ってくるようにね? それと、なにかあったら必ず連絡してね」


先生は診察を終えると、外泊許可を出してくれた。


「はいっ‼」


美乃は元気よく頷くと、嬉しそうにバッグを出した。


「もう準備してたのか」

「当たり前じゃない!」


苦笑を漏らした俺に、彼女が満面の笑みを見せる。
美乃の嬉しそうな姿を見て、俺は彼女の両親と顔を見合わせて笑った。


着替えを済ませた美乃からバッグを受け取り、ナースステーションに向かう。
そして、内田さんに声を掛け、俺たちは車で病院を出た。

「すまないね、染井君。美乃を頼んだよ」

「はい!」

「なにかあったら、いつでも連絡してね。もちろん、早朝でも夜中でも構わないから」

「わかってます」


美乃の両親は、嬉しそうに笑いながらもどこか心配そうにしている。
俺は、ふたりを安心させるために「なにかあれば必ず連絡しますから」と告げた。


「大丈夫だよ! 私、すっごく元気なんだから!」


美乃は、俺たちを見ながら得意げに笑った。


「はいはい」


俺は笑顔で頷き、彼女の両親もニコニコと笑っていた。
大通りを走り抜け、閑静な住宅街に入った。


「着きましたよ。美乃も中に入ってくるだろ?」


美乃の家の前で車を停めると、彼女の両親が後部席から降りた。


「すまないね、ありがとう」

「じゃあ、美乃をお願いね」

「はい」

「ねぇ、いっちゃんも入っていけば? 私の用事はすぐに終わるけど……」

「いや、ここで待ってる。それとも、あとで迎えに来ようか? せっかくだし、家でゆっくりしていけば?」

「ううん、すぐに戻るから待ってて!」


美乃はそう言い残し、久しぶりの自宅に入った。
それから十分もすると、彼女が家から出てきた。


「もういいのか?」

「うん! だって、外出の時もよく帰って来てたもん!」

「もっとゆっくりしていいんだぞ」

「いいの! それより、早く行こうよ!」


美乃は満足そうだったけれど、俺は彼女の両親に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
だけど、美乃に急かされてしまい、あとから出てきた彼女の両親に頭を下げてから車を出した。

「観たい映画があるの」

「いいけど……。クリスマスだし、混んでるかもしれないぞ?」

「無理なら諦めるよ」

「わかった」


映画館に向かって車を走らせたけれど、予想通り映画館の周囲は渋滞していた。


「映画館も混んでるだろうな……」

「私が見て来るから、ちょっと待ってて」

「バカ、ひとりじゃダメだ!」

「大丈夫だよ! ちょっと確認してくるだけだから! ね?」

「……わかった。絶対に走ったりするなよ?」

「わかってます」


今にも車から飛び出してしまいそうな美乃の押しに負け、仕方なく彼女をひとりで行かせることにした。
映画館までは往復で三分も掛からないけれど、心配で気が気じゃない。


路駐して様子を見に行こうかと悩んでいると、美乃から連絡が来た。


『もしもし、いっちゃん?』

「どうした? なにかあったか?」

『ううん、大丈夫だよ! でもね、映画館はやっぱり混んでるの。今からそっちに戻るけど、お手洗いに行きたきから、もう少し時間が掛かりそうなんだ』

「ああ、わかった。俺が車でそっちまで行くから、トイレから出たら待ってろ」

『ううんっ! 平気だよっ‼ 入れ違いになると困るから、いっちゃんはさっきのところで待ってて! 絶対来なくていいからね!』

「えっ⁉ おい、美乃⁉」


彼女はどこか強引に押し切り、一方的に電話を切ってしまった。
俺は仕方なく、道路脇に停車させたまま待つことにした。


クリスマスだけあって、さすがにどこを見ても恋人たちばかり。
いつもなら気にも留めない風景なのに、今日は美乃とずっと一緒にいられるのだと思うと自然に笑みが零れた。


「お待たせ!」


電話を切ってから十分近く経った頃、ようやく彼女が戻ってきた――。

帰宅する前に、近所のスーパーに寄った。


「さっきね、ちょっとジュエリーショップ見たり、カフェでケーキ買おうか悩んだりしてたんだ」


美乃は映画館から戻ってくる時に、色々と物色していたらしい。


「そっか。心配だったけど、久しぶりの外出だもんな」

「外泊だよ!」

「はいはい。でも、ケーキは買わなくて正解だったよ」

「どうして?」

「俺がちゃんと予約して買っておいたから。あとで届くよ!」

「本当に⁉」

「まぁ、あのカフェのケーキじゃないけど……。雑誌に載ってた店のケーキだから」

「うん! ありがとう!」

「どういたしまして! それより、夜はなにが食べたい?」

「なんでもいい!」


満面に笑みを浮かべた彼女が、俺の腕にしがみついた。
一番困る返答に苦笑を漏らしながらも買い物を済ませ、家に向かった。


「うわぁ〜! 結構綺麗だし、広いんだね!」

「そうか? まぁ必死に片付けたけどさ」

「見られたくない物でもあったの?」

「いっぱいあるな〜。……特にエロ本とか」

「もうっ! 本当にエロ親父なんだから!」


俺たちは顔を見合わせて、ケラケラと笑った。


「あっ、ウェディングドレスの写真だ! ちゃんと飾ってるんだね!」

「当たり前だろ!」


キッチンに買って来た食材を並べると、美乃がやって来た。


「私も手伝うよ!」

「いいから、その辺に座ってろ」

「なにかしたいの!」

「美乃って、料理できるのか?」

「できない……です……」


彼女はポツリと答え、膨れっ面をして拗ねた。


「わかったよ! じゃあ、野菜の皮を剥いて、適当に切って」

「わかった!」


腕捲りをした美乃が、嬉しそうに野菜を取った。
そして、彼女は楽しそうにクリスマスソングを歌いながら、野菜の皮を剥き始めた。

「うわ、危ないって!」


しばらくして、慌てて美乃から包丁を取り上げた。
野菜を切るのはいいけれど、彼女の手つきがとてつもなく危ない。


「大丈夫だよ!」

「ダメッ! 美乃は見学!」

「え〜っ!」

「ちゃんと美味い飯作ってやるから」

「本当……?」

「任せとけ!」


不服そうにしていた美乃に言うと、彼女がまた笑顔になった。


「ねぇ、なに作るの〜?」

「それは、できてからのお楽しみな」


美乃はすぐ隣から覗き込むようにして、俺をじっと見ている。


「そんなにガン見するなよ……。やり難いだろ」

「見学って言ったのは、いっちゃんだよ?」

「だからってなぁ……」

「いっちゃんがかっこいいから、見惚れてるんだよ!」


ふふっと笑った美乃が、俺をからかうように瞳を緩める。


「顔赤いよ?」

「もういいから、こっち見るな……」


戸惑う俺を余所に、彼女はずっと楽しそうにしていた。
そんな空気がくすぐったかった。


料理が完成する頃、インターホンが鳴った。


「悪いけど、俺は手が離せないから出てくれるか? たぶんケーキだから、そこにある俺の財布から金払っててくれ」

「うん、わかった!」


美乃は俺の財布を手にすると、嬉しそうに玄関に向かった。


「いっちゃん! 開けてもいい?」

「ああ」

「わぁっ! すっごく可愛いケーキだね!」


箱を開けて中を覗き込んだ彼女が、表情をキラキラとさせる。


「でも、こんなに食べ切れるかな?」

「無理なら、信二たちにも食ってもらえばいいよ。ほら、こっちも用意できたぞ」

「美味しそう!」

「これでも一応、ひとり暮らしだからな」


俺は得意げな笑みを浮かべ、クリームシチューをテーブルに置いた。
それから、買ってきたフランスパンとオレンジジュースも並べた。

「美味しい!」


美乃はシチューを一口食べると、満面の笑みで俺を見た。
何度も「美味しい」と繰り返し、病院にいる時よりもたくさん食べてくれた。


「紅茶でいいか?」

「うん!」


美乃のために買っておいた紅茶を淹れてテーブルに置くと、彼女がケーキを口に運んだ。


「美味し〜いっ! ねぇ、せっかくなんだから、いっちゃんも食べてみたら?」

「え……」

「はい! あーんして?」


苦笑している俺の口元に、美乃がフォークを持ってきた。
仕方なく、苦手なケーキを口に入れる。


「どう?」

「……思ってたよりは美味いかな」

「でしょ⁉」


俺は、そのあとも彼女に勧められ、結局ふたりだけでホールのケーキを食べ切った。
一番小さなケーキだったけれど、それでも一気に食べ切れたことに驚いた。


「片付けはしなくていいから、先に風呂入ってこいよ」

「私、あとでいいよ」

「いいから入ってこい」

「でも……」

「じゃあ、一緒に入るか?」


明らかに遠慮している美乃を笑顔でからかうと、彼女はまた膨れっ面になった。


「いっちゃんのバカ! なんでそうなるのよ!」

「いや、一緒に入りたいのかと思ってさ」

「ひとりで入ってきます!」

「タオルとかそこにあるから、適当に使えよ!」


怒りながら背中を向けた美乃にクッと笑いつつ、彼女の後ろ姿にそう言った。
振り返った美乃は、不服そうにしながらも小さく頷いた。


程なくして、バスルームから鼻歌が聞こえてきた。
シャワーの音に混じって響く彼女の声に、なんとなく落ち着かなかった。


「いっちゃん、ドライヤーってどこ?」

「乾かしてやるよ」


お風呂から上がってきた美乃は、「ありがとう」と笑った。
俺はベッドに腰掛け、前に座らせた彼女の髪を乾かした。