川向こうのアトリエ喫茶には癒しの水彩画家がいます

「悪いが……早く言った者勝ちだ」

「ああ……っ!」


 唖然とする紫織さんに、森屋さんはわざとにんまり笑ってみせる。

 紫織さんの旦那さんは二人のやりとりを見て、くすくすと笑い出した。


「あははっ。なんだか面白い方ですね。紫織も、まるで別の紫織を見ているみたいだ」


 そう言われた紫織さんが、思わず旦那さんの顔を見る。

 旦那さんも、そんな紫織さんをそっと見つめ返した。

 視線が合うと二人はどちらからともなく自然に微笑み合う。


 菫ちゃんはというと、今や順調にケーキを食べ進めていた。


 わたしはそんな一家の様子を見て、もう大丈夫かなと思った。

 きっと単にすれ違っていただけなんだ。

 みんな問題に対して自分なりに、真面目に向き合っていた。

 でも、それだけじゃうまくいかなくて……相手を信じられなくなってしまった。


 紫織さんも、ほんとはわかってたはずだ。


 旦那さんがどれだけ菫ちゃんのことを大事にしているか。

 それぞれの親も、菫ちゃん以上に我が子のことを心配しているだけなんだ、って。


 これからは、今まで以上に彼らと丁寧に関わり合っていけばいい。 

 紫織さんは一人じゃない。

 この旦那さんも、一緒なんだから。

 だからきっと……大丈夫だ。


「真白。じゃあそろそろあっちで試食しようか」

「あ、うん」


 青司くんに声をかけられて、わたしたちはカウンターへ戻った。


 ちらりと横顔を見ると、青司くんは若干寂しそうな笑みを浮かべている。

 紫織さんのことをいろいろと考えているのだろう。


 かつて紫織さんは、青司くんの憧れの人だった。

 絵を描く者として。人生の先輩として。常に一目置く存在だった。


 でも今は絵描きではなく、デザイナーとして活躍し、家庭を持ち、さまざまな悩みを抱える人になっている。

 変わらないところもあれば、変わったところもある。


 今、青司くんは、そんな紫織さんを全力で受け入れようとしていた。

 大切な存在だったからこそ、これからのことを考えて、また新たな気持ちで接していこうとしている。


「じゃあ、いただきます」


 わたしは席に着くと、自分の分のケーキに手を延ばした。


 紫織さんへの想いがこもった、ぶどうのムースケーキ。

 一口食べると……ぶどうの甘酸っぱさが口いっぱいに広がった。

 わたしはその味を確かめるたび、切ない気持ちで満たされていく。


「どう? 真白」

「……うん。美味しいよ。甘酸っぱいけど……クリーミーで、口当たりがとっても優しい」


 じんわりと涙がこみあげてきて、わたしは一口一口を大切に味わった。


「そう? 良かった。真白が頑張ってクッキー砕いてくれたしね……俺も食べよ」


 明るくそう言って、青司くんが自分の分も用意する。

 飲み物も、みんなと同じぶどうのジュースだった。

 わたしは不思議に思って問いかける。


「そういえば、どうして紅茶とかじゃなくてジュース、なの? みんなもこれを出されたから、これを飲んでるけど」

「ああ、これ?」


 青司くんはグラスを持ち上げて言った。


「菫ちゃんは、まだ小さいでしょ? だから、紅茶とかはまだ飲めないんじゃないかなあと思って。あと、一人だけ他と違ってるのも可哀想だしね」

「え? それって……菫ちゃんに合わせてた、ってこと?」

「そう。大人はいろいろ選べるけど、子どもは選べないからさ。まあ、二杯目に別の飲み物をリクエストされたら、さすがにそれには応えようかなって思ってたけど」


 わたしは、またもや感心してしまった。

 考え尽くされている……。

 そんな気遣いが自然とできる青司くんは、本当にすごいと思った。


「やっぱり、青司くんは優しいね」

「え?」

「もう、そういうところが、大好き……」


 ぽろっと。思わずそう言ってしまった。

 え。こんなこと、言うつもりなかったのに。

 ハッとして見ると、目の前の青司くんが顔を赤くしていた。


「ちょ……悪いけど不意打ちでそういうこと言うの、やめて……」

「えっ……」


 急にバクバクと心臓が早くなってくる。

 わたしもとっさに両手で顔を覆った。


「ご、ごめん……! でもほんと……そう思った、から!」


 顔を伏せたまま、わたしは熱を少しでも下げるためにジュースを飲む。

 背後からは、紫織さんたちの楽しげな会話が聞こえていた。