川向こうのアトリエ喫茶には癒しの水彩画家がいます

「わたし? わたしはいいよ。前も言ったけど、描けなくなってからずっと描いてないし……」

「じゃあ今はどう? ほら」

「ええ……」


 スケッチブックと鉛筆を差し出されて、わたしはしぶしぶ手に取る。


「自由に描いていいから。ね? 一緒に描こうよ」

「うーん……」


 メニューの絵は青司くんの担当だとして……わたしは自由に描く、か。

 うーん、何を描いたらいいだろう。

 お題を出された方がまだ良かったかもしれない。

 今描きたいものって、そんなにないから。


「あ」


 そうだ。せっかくだから青司くんを描こう。

 上手く描けなかったら申し訳ないけど……今描きたいのはこれくらいしかない。 


 わたしはなんとなくちらちらと盗み見しながら、青司くんの絵を描きはじめた。


 真剣に色を塗っている青司くん。

 さらさらの髪、長い睫、すっと通った鼻、眠たそうな目。

 きゅっと結ばれた大きめの口に、広い肩幅……。

 昔よりも全然、男らしくなってる。
 こうして絵に描くと、必然的にじっくり観察することになる。

 ぼんやりとした印象でとらえていたものが、はっきりと知覚できるようになるのだ。


 描けば描くほど、わたしは過去の青司くんにとらわれていたとわかった。

 目の前の男性はもう昔の青司くんじゃない。


 さっき言ってくれたのは本当だった。

 この人はまったく違う人なんだ。

 青司くんであって、青司くんじゃない。


 わたしは描きながら、それらをしっかりと脳に刻みつけていった。


「ふーっ。ひとまずこれぐらいかな? そろそろムースケーキの方の仕上げもしないと」


 グッと伸びをして、青司くんが筆を置く。

 顔を上げたので、わたしはとっさにスケッチブックを隠した。

 まずい。今ここでこれを見られるわけにはいかない。


「ん? 真白、何描いてたの?」

「え!? な、内緒!」

「ええ……見せてよ」

「や、やだ! ダメー!」


 ぐぐっとスケッチブックを引っ張られて、青司くんがわたしの描いていた絵を見てしまう。

 わたしは会わせる顔がなくてテーブルに突っ伏した。


「あーもう! だから見ないでって言ったのに……!」


 しくしくと泣きながら言うと、青司くんはやけに明るい声で言った。


「いや、これ、俺でしょ? 上手いよ。ずっと描いてなかったとは……思えない。ていうか嬉しい。俺を描いて、くれたんだ……」

「ほ……ほんとにそう思う?」


 賞賛されて嬉しくなったわたしは、ようやく顔を上げる。

 でも、そこには照れて顔を真っ赤にした青司くんがいた。