薄暗い部屋の中、キッチンのまわりだけに照明が点いていた。

 今まであまり気付かなかったけれど、いつのまにか青司くんが点けてくれていたようだ。

 わたしは小さい自分を恥じながら、玄関へと向かう。

 ドアに近づいた瞬間、わたしは一枚の絵を見つけた。


「あっ……」


 それは、水彩絵の具で描かれた桃花先生の肖像画だった。

 玄関の横の壁にひっそりと額入りで飾られている。


「桃花、先生……」


 絵の中の先生は時を止めていた。それは十年前の姿のまんまだった。

 写真かと見まごうほどよく似ている。

 全体的に淡いピンクの色調。


「この絵を……描いたのも青司くん?」

「うん、そう」


 わたしはその絵に近づくと、そっと額縁に触れた。

 ふんわりと柔らかな髪を胸元に垂らして、椅子に腰かけている先生。周囲には何もなく、彼女が画家であるという要素はどこにも見当たらない。


 この絵は、青司くんが描いた絵だ。

 なら青司くんは、彼女を「水彩画家の先生」としてではなく……あくまでも「母親」として描いたのだろう。

 いつ描かれたのかよくわからなかったけれど、でも、とてもあたたかな絵だと思った。


「……おかえり」


 自然と、わたしの口からはそんな言葉があふれていた。

 そう言っていいのかわからなかったけど、でも今、すごくそれを言いたいと思った。


「おかえり、青司くん」


 振り返り、あらためて言う。

 青司くんはとても驚いた顔をしていた。でも、しばらくするとまたにっこりと優しく微笑んでくれる。


「うん、ただいま。真白」

「わたし……青司くんにまた会えて、とっても嬉しい。帰って来てくれて、ありがとう」

「……うん」

「今日はご馳走様でした。じゃあまた明日ね!」

「あ……待って、これ持っていってくれ。おばさんたちに」


 青司くんは一旦キッチンに戻ると残っていたケーキをラップで包み、適当な袋に入れてわたしに持たせてくれた。


 ギイ、と勢いよく扉を開ける。

 外に出ると青司くんも後ろから一緒に出てきて、わたしが家に着くまでしばらく戸口で見送ってくれた。

 なんだか気恥ずかしい。青司くんの視線が後ろにずっとあるなんて、とってもドキドキする。



 見上げると、もうすっかり空が紺色のベールに覆われていた。

 川沿いの桜並木や洋館の周囲の木立は、黒くかげっている。

 川のせせらぎが聞こえる。

 橋を渡って振り返ると、わたしの幼馴染はまだ洋館の前に立っていた。



 もう二度と見ることはないと思っていた風景が――そこにあった。



「ああ……」


 わたしは涙がまたこぼれてきそうになって、あわてて家の中へ駆けこんだ。

 奇跡だ。奇跡が……起きた。

 もう二度とあの人を失いたくない。


 わたしはそう思うと、自宅の玄関で泣くのをじっとこらえた。