川向こうのアトリエ喫茶には癒しの水彩画家がいます

 先生は、生きている間一度も、元の旦那さんの話をしなかった。

 いつ離婚したのか。
 それとも死別したのか。
 どんな職についていたのか。

 何度かわたしたちが冗談ぽく訊いてみたこともあったけど、いつも「秘密」とかわされていた。

 うちのお母さんも、近所の人も誰も、それは知らなかったと思う。

 桃花先生はとても優しい人だったから、たぶん元旦那さんの悪口を一度も言いたくなかったんじゃないかな。


 今の話を聞くと、きっとそうだ。

 もし一度でもぽろっと口に出してしまったなら、どんどん悪く言ってしまう、そんな不安にかられていたんだろう。だから、先生はずっと黙っていたんだ。


 でも――。

 今はそれを、もっと早く知っていたかったと思う。

 そうしたら誰も、こんな辛い思いをせずに済んだのかもしれない。

 わたしも、青司くんも、みんなも……。青司くんのお父さんのことをもっとちゃんと知れていたら、わたしたちは東京へ、そして海外は行かせはしなかっただろう。


「ごめん。そんなこと知らなくて、わたし……」

「いいや。いいんだ。真白やみんなに愛想つかされていても当然だよ。父さんにあんなことされても……いくらだって抵抗のしようはあったんだから。俺がその気に、なりさえすれば。でも……あの頃の俺はそんなことできなくて。とても……弱かった。本当ごめん」

「もう、もういいよ青司くん。青司くんもきっと、辛かった……よね。なのに……わたし……」

「そんな、真白が気に病むことなんかない。悪いのは、悪いのは俺だ。全部、全部あいつに――」


 そのときカチャン、と紅茶の入っていたティーカップが音をたてた。

 誰も触っていないのに、カップとソーサーが勝手にズレた。それはまるで、桃花先生が「それ以上言わないで」って言っているみたいで。


 青司くんもじっと、その先生のティーカップを見つめた。

 ワイルドストロベリーが描かれた、ウエッジウッドのカップ。それは桃花先生がよく使っていた特別なカップだった。