川向こうのアトリエ喫茶には癒しの水彩画家がいます

「ぷっ。あはははっ! おいおい、マジでどんだけ独占欲強いんだお前は。こんなの意識してんのお前だけだぞ」

「……」


 無言で黄太郎のお皿を引き上げた青司くんは、カレー部分を黙々と自分の皿に移し替えていく。


「真白と料理をシェア、なんて……間接キスにもなりゃしねえよ。あーもう、ほんとなんなんだお前は」


 呆れた様子でまたカレーの皿を受け取る黄太郎。

 今度は青司くんがぶすっとした表情になった。


「いいじゃないか。そんなこと言うとまたカレー戻すぞ、キタロウ」

「あっ」

「……」


 わたしはとっさに出たその呼び名に思わず声をあげてしまった。

 黄太郎もハッとして青司くんを見る。


「キタロウ……? お前、その呼び方やめろっつっただろ!」

「悪い。つい……」

「つい、じゃねーよ! てかカレーを俺に喰わせる時点で最初から嫌がらせだろ、コレ!」

「違う。これはほんとたまたま……っていうか最初からランチメニューの一品で考えてて……」

「却下だ却下! 俺もここに通うことを想定して、うどんとかにしろ!」

「うどん!? 定食屋じゃないんだぞ。喫茶店だぞ?」

「いいじゃねーか。喫茶店でうどん。俺は好きだぞ。特にきつねうどんがな。逆に珍しくて客がわんさと来るんじゃねーか?」

「いやあ、無いね」

「は?」

「無いよ。百歩譲ってBLTサンドとかだよ」

「じゃあもうそれでいい。そのサンドイッチを作れ。今から!」

「え、今から? 材料が無いよ」

「じゃあさっきのスーパー行って買ってこい。その間俺はここで久しぶりの真白と楽しくおしゃべりしてるからな」

「そんな……ふたりきりになんかさせるかよ。黙ってそのキーマカレーを食べてろ」

「フンッ、わーったよ。じゃあ辛いけど食べてやるよ。辛いけど……味だけはまずくないからな」

「はっ、そりゃあよかった」


 同時に、ふんっとお互いそっぽを向く。

 その言葉の掛け合いに、しばし唖然としていたわたしは、急におかしさがこみあげてきてくすくすと笑ってしまった。


「ふふふっ。あはははっ……! ほんと、二人ともあの頃みたい。いっつもこうやってふざけ合ってて……ああ、おかしい」


 笑いすぎて涙が出てくる。

 青司くんも黄太郎も、そんなわたしを見てなんだか急に気が抜けてしまったらしい。

 二人ともだんだん苦笑いをしはじめた。


「フフッ、青司よう。なんだかんだ言ったが……こうやって真白がいつも笑っててほしいんだ、俺は」

「うん。それは、俺もだな」

「青司。これからお前は真白と一緒にいる時間が多くなるだろうから言っておく。いつも、そういう風に笑わせてやっててくれ。絶対、泣かせたりしないでくれ」

「ああ。もう傷付けたり、悲しい思いはさせない。絶対に。約束する……」

「そうか」

「ああ」


 黄太郎は満足そうに笑うと、もう一度残りのカレーを食べはじめた。

 わたしも無言のままカレーを食べる。
 いろんなものが混じりあったカレーは、まるでわたしたちの心の中のようだった。

 辛いだけでなく、いろんなもののうまみや甘さが足されて、複雑な味になる。

 そうして、ひとつの料理として完成する。


 わたしたちもこうでありたい。

 いろんな思いが交錯しているけど、じっくりと話して、話し合って、わかり合っていけたらいいなと思ってる。

「ごちそうさま」

「ごちそうさまでした!」


 わたしたちが食べ終わると、ちょうど青司くんも自分の分のカレーを食べ終えたところだった。

 青司くんはすでに、カウンターの向こう側からわたしの左隣の席に移動している。


「ねえ、青司くん」

「あ、そうだった。真白、どうだった? 試食した感想」


 わたしの本来の役割を思い出した青司くんが、急に訊いてきた。

 ちょうど今わたしもそれを伝えようと思ったところだったんだけど……ちょうどいい、話すことにする。


「うん。とっても美味しかったよ。黄太郎は辛がっていたけど、わたしは大丈夫だった。ゆで卵とか、卵を乗せるともうちょっとマイルドになるかもね。サラダとかはつけないの?」

「ああ、ゆでたまご。忘れてたなあ……。母さんも目玉焼きつけてくれてたし、せめてゆで卵は乗せようかな。サラダは……カレーの中にたくさん野菜が入ってるからいいかなと思ったんだけど。見栄えの問題?」

「そう」

「うん。そっか。少なくても箸休めになるし、やっぱりつけた方がいいね。わかった」


 そんな会話をしていると、黄太郎が背後からぼそっと話しかけてくる。


「真白、やっぱ働く気なんだな。ここで」

「……うん」


 振り返り、わたしはちゃんと黄太郎に向き直る。


「青司くんを手伝ってあげたいの。わたしも……もう立ち止まっていたくないんだ。前に、進みたいんだよ」

「そうか」

「……黄太郎」


 今度は青司くんの声が背中から聞こえてくる。

 大好きな、独特の落ち着く声。

 その響きがすぐ近くで聞こえると、わたしはどうにもどきどきしてしまう。


「俺は……もう一度ちゃんと真白に向き合うつもりだ。そして、強くなる。強い人間になって、真白も、ここに来たお客さんも、みんな幸せにできるような人間になる。黄太郎……。そんな俺を、見守っててくれないか」

「……」
 黄太郎は椅子から立ち上がると、フッと笑った。


「ああ。わかった。でも、もう一度真白を泣かせるようなことをしたら……今度こそ、その綺麗な顔がぐちゃぐちゃになるくらい殴ってやるからな。憶えとけよ」

「うん。そう、ならないようにする……」


 ははは、と若干引き気味で笑いながら、青司くんがそう答える。

 黄太郎はそのまますぐに店を出て行こうとした。


「あ、黄太郎。帰るの?」

「ああ……」


 呼びとめると、黄太郎は玄関横の桃花先生の肖像画の前で立ち止まる。


「お、送ってくよ。車で連れてきたし……」

「それはいい。歩いて帰る」


 青司くんも慌てて立ち上がるが、黄太郎はにべもなく断った。

 そして、大きく息を吐くと、


「青司。真白だけじゃなく、この店に来た客も幸せにしたい、って言ったな」

「あ、うん……」

「桃花先生みたいにか」

「そう……だね」

「そうか。なら、それができるようになるといいな」

「……黄太郎」


 わたしは思わずそうつぶやいた。

 あの黄太郎が、青司くんにそんなことを言ってるなんて。

 背中を向けたままの黄太郎は今どんな表情をしているかわからない。でも、わたしはありがたいと思った。そして、こんな素晴らしい人が元カレで、そして今は友でいて良かったと思った。


「じゃあな」


 そう言って、黄太郎は去って行った。

 残されたわたしたちは何気なく見つめ合う。


「真白……」


 青司くんの真剣な瞳を見つめる。


 先ほど言っていた言葉。

 強くなって幸せにしたいという言葉を思い出す。


「さっき黄太郎に……言った通りだ。俺は真白と、ここでもう一度やり直したい。真白も、その間俺をもう一度知っていってほしい。そして……この町でうまくやっていけるようになったら……その……」


 じっと熱く見つめ続けられると、どきどきして倒れそうになる。

 だめ、だめだ。

 これ以上こうしてたら、またキス……されたくなっちゃう。


「ただいまー! ってあれ?」


 その時、紫織さんと学さん、菫ちゃんの親子が戻ってきた。

 わたしたちはあわてて居住まいを正す。


「あれあれ~? お邪魔だったかしら~?」

「な、なにがですか?」


 紫織さんは意地悪そうな微笑みを浮かべてわたしに近寄ってくる。

 旦那さんの学さんはすいませんと申し訳なさそうな笑みを浮かべて、菫ちゃんの目を両手で覆っていた。

 わたしは恥ずかしくて死にたくなった。


「そんな隠さなくたっていーわよ」

「な、なにも、隠してないです!」

「え~? 別に~? かまわないけど~。でも菫の前ではあんまりそういうことやめてよね」

「だから、なにもないですって!」


 青司くんはと振り返ってみると、いつの間にか空気と化していて、わたしたちの使い終わった食器を洗っていた。

 ほんとこういう要領のいいところ、すごく青司くんらしいと思う。


 その後、菫ちゃんがテーブル席でお絵かきしたり、かつての昔話に花を咲かせたりした。

 このときも、外から店の中を覗いていた人がいたようなのだが、そのことにわたしはまったく気が付いていなかった。
 それから数日が経った。

 相変わらずわたしの勤めているレストランには新人が入らない。

 新しい人を入れてくれないといつまでたっても辞められないし、辞められないといつまでたっても青司くんのお店を手伝えない。

 焦りばかりがつのっていった。


 わたしはレストランに出勤する一方、朝と夕方だけは青司くんの喫茶店を手伝っていた。

 試食をしたり一緒に料理を作ったりと、その時間は楽しい。

 でも、この日の朝は少し違っていた。


「真白、ちょっとこれ見て」

「ん? なあに」


 青司くんがそう言って納戸から持ってきたのは、たくさんの水彩画だった。

 今まで作ったスイーツやドリンクなどが描かれている。

 いつのまに。


「うわあ……。すごい、これ全部描いたの?」

「うん。メニューもだいぶ出揃ってきたからね。結構描きためられたよ。どうかな?」

「うん! 良い! すごく良いと思う」

「そっか。じゃあさっそくこれ、紫織さんのデザイン会社に頼んで製本してもらうね」

「うん。そう、だね……」


 わたしはそうつぶやいたきり、テーブルの上に広げられた水彩画たちから目がそらせなくなってしまった。

 美しい彩色。精密な描写。

 ここまでモチーフの良さを引き出しているのに感心する。さすがはプロだ。


 でも、そんな風に見入っているわたしに、青司くんは不安そうに声をかけてくる。


「真白……? どうかした? もしかして紫織さんのところにお願いするの、良くない?」

「あ。ううん。全然そんなことないよ。そうじゃなくって……。青司くん、スランプだって言ってたけど……これもうスランプじゃなくない?」

「え。いや……」


 そう言ったわたしに、青司くんはあまりいい顔をしなかった。


「これはさすがに自分の身近なものだから……どうにか描けたんだ。でも……お客さんから注文を受けたテーマとかは……まだ描けないと思う。自分が興味の持てないものには、なんていうか……筆が乗らないんだ」

「そうなの……」

「うん。描きたい、っていうモチベーションが上がらないんだ。ホント、これは深刻な問題だよ」


 そう言ってしゅんとうつむく。

 わたしはなんだか可哀想になってきた。

 青司くんはこんなに素晴らしい絵を描けるのに。その技術があるのに。それをうまく発揮できないなんて……。


「なんか、今までのわたしみたい」

「え?」

「わたしもずっと描けなかった、って言ったじゃない? 筆を持つことすら昔を思い出して辛かった、って。この間青司くんに促されて、ようやく久しぶりに描けたけどさ。でも全然……へたっぴだし、嫌になっちゃったよ」

「……」


 青司くんはハッとするとまた急に納戸に戻っていく。

 そしてとある絵を持ってきた。

 それは、わたしがこのあいだ描いた「青司くんの絵」だった。
「なっ! ちょ、ちょっと青司くん!? なんで今、それ持ってくるの……」

「いいじゃないか。俺、これ本当に嬉しかったんだ。描けなくなったって言ってたのに……真白がためらいながらも俺を、描いてくれたんだから。全然下手なんかじゃないよ。最高だよ」

「そんな……」


 恥ずかしくって、もう目の前の人の顔がまともに見られない。


「ホントやめて。青司くん、それ、まだ完成させてないし……あんまり見てほしくないんだけど……」


 わたしが顔を熱くしてなおもそう言うと、青司くんはハッとなった。


「あ。そうか」

「え?」

「いや、真白が……苦手だと思っていてもこうして『俺の絵』を描いてもらえたんなら……。俺だって、『真白の絵』を描こうとしたら……」

「せ、青司くん?」

「そうだ。『真白の絵』を描こう!」

「えええっ?」


 青司くんは拳をにぎりしめると、また納戸に行ってしまった。

 今度持ってきたのは、水彩紙のブロック、鉛筆、パレット、筆、水入れ、タオル、そして水彩絵の具などの画材一式だ。

 それらを、新聞紙をしいたテーブルの上に並べていく。


「そうだ。俺の興味の沸くモチーフなら……」


 そして筆をとると、息つく間もなくわたしの絵を描きはじめる。


「や、やめて……!」


 わたしは自分の顔がだんだんと紙の上に表現されてくると、無性に恥ずかしくなってきた。 

 耐えきれなくなって、ついに店を飛び出す。

 胸には自分の描いた「青司くんの肖像画」を抱えていた。だってこれをあそこに置いたままにはできない。


「わっ……!」


 玄関を開けるとすぐ外に業者の人がいた。

 危うくぶつかりそうになって頭を下げる。


「す、すみません!」

「え? ああ……おはようございます」


 たしか今日はケーキを冷蔵するショーケースが届く手筈になっていたはずだ。

 業者の人たちはびっくりした様子だったが、わたしはかまわず逃げ出した。


 絵を描くことに集中していた青司くんがようやく気付いたのか、背後から「真白!」と叫ぶ声がする。

 でも、たぶん追いかけてはこないだろう。

 業者の人に対応しなきゃならないからだ。


 ごめんね、青司くん。


 家に帰るとわたしは自室に駆け込み、もう一度自分の描いた絵をじっくりと見直した。


「全然、だめだ……」


 本気で描いてないってすぐわかる。

 デッサンも微妙に狂ってるし、なにより青司くんの良さが全く表現しきれていない。


「青司くんがわたしをちゃんと描こうとしたんだ……わたしも、それに応えられるようにしないと……」


 わたしは押入れを開けると、奥の方にしまっていた段ボールを引っ張り出した。

 そこには十年前に封印したものが全て放り込まれている。


「まずは下書きだけでもちゃんとやり直さないとね……」


 箱の中から鉛筆を探し出し、わたしは自分の机に向かう。

 記憶の中の、青司くんの姿を思い浮かべた。昔の青司くんではなく、今の青司くんを。

 そして、一心不乱に鉛筆を走らせた。
 気が付くともうバイト先に行かなくてはならない時間だった。


「いけない。早く行かないと……」


 立ち上がったそのとき、ちょうどスマホの着信音が鳴った。

 青司くんからかと思ったら、違った。

 それは紅里(あかり)からのメールだった。


『真白、話があるの。今日空いてる時間ある?』


 いきなり用件を伝えて来るなんてよっぽどだ。

 どうしたんだろう。

 いつもはお互いの近況を報告し合ったりするくらいなのに。なにか重要な話があるのだろうか。


『うん。バイトが終わってからで、いいかな?』

『いいよ。じゃあ終わり次第、駅前の公園で待ってるから。また連絡して』


 駅前の、公園? 

 え、どういうこと? 電話で話すんじゃなくって? 実際に会う、って……。
 だって今、紅里は東京で働いていて。あっちで一人暮らしをしているはずじゃ……?


 地元に帰ってくるのは年に数回、お盆や正月のときぐらいなのに。

 本当にいったいどうしたんだろう。


「え? まさか。紅里、帰ってきてるの……?」


 わたしは動揺する心を必死で抑えつけながら、バイトに行く準備をはじめた。


 ※ ※ ※ ※ ※




 その日はあまり仕事に身が入らなかったけれど、どうにか一日をやり終えた。

 タイムカードを切って、店を出る。

 駅前の公園へは自転車でわずか数分の距離だ。


 なんだか……ペダルをこいでいても胸がどきどきしてなんだか落ち着かない。

 いい報告だといい。

 でも、なんとなく正反対の気がする。


 加輪辺駅まで来ると、すぐ南にある公園へと向かった。

 ここには家の前のような小さな川が流れていて、遊水地みたいなとこもある。わりと広い公園だ。

 駅前はロータリーしかないため、待ち合わせはみんなこの公園内と決まっていた。


 自転車で入っていくと、すぐ手前のベンチに紅里が座っている。


「あ、紅里」

「真白……」


 声をかけると紅里はすぐに立ち上がって手を振ってくれた。

 でもその表情はどことなく暗い。


「どうしたの? いつ、戻ってきたの?」

「……そのことについて、話があって」

「あ、うん」


 わたしはベンチの側に自転車を停めると、紅里の横に座った。

 傾いた日が紅里の顔に影を落としている。


「あのね、あたし……」

「うん」

「実は……半月前に仕事を辞めてたんだ」
「え!? 仕事を、辞めた?」


 半月前……。

 そんなの全然知らなかった。だって紅里は……ついこの前まで仕事の愚痴をメールで言ってたくらいなのに。


「ごめん、ずっと言い出せなかったの。長年憧れてた広告代理店だったから……どうしても辞めたくなくて。だからずっと、我慢して戦ってきたんだけど……でも、やっぱり耐え切れなくなっちゃって。でも、真白にはなんか知られたくなくて……」

「うん、うん……」


 紅里はそれこそ、学生の頃からその会社で働きたいって言っていた。

 そこでいろんな表現をしてみたいんだって、いつも夢と希望に満ちあふれていた。

 だから、晴れてそこに入社できたときには、他の友人たちと一緒に盛大にお祝いもしたのだ。


 なのに……そこを辞めてしまっただなんて。


 愚痴はいつも聞かされていたから、きっとその件だろう。

 なんでも上司とうまくいってなかったということだ。


 わたしは東京の大学に行くことも、一人暮らしすることも、希望の会社に就職することも、しようとすらしなかったので、紅里がそれを傍で全部かなえていくのをすごいと思っていた。

 その人生をうらやましいと思ったことも一度や二度ではない。


 わたしには、それは全部できなかったことだから。

 だから、そんな友人をわたしは精一杯応援してきた。


 でも……だからこそ、紅里はわたしに言い出せなかったんだろう。

 夢が破れたことを。

 わたしだったら、やっぱり同じようには言い出せないと思う。


「ごめんね。もうとっくに辞めてたのに、まだ働いてるみたいな嘘ついちゃって」

「ううん。言い出しにくかったなら……仕方ないよ」

「ありがと。でも、皮肉だよね。あたしは真白と違って前に進んでたつもりだったのに……こんなことになっちゃって」

「え……?」


 とげがあるような言い方にハッとすると、紅里は自嘲するように苦笑していた。


「最近さ、真白にメールで言ってたじゃない? えらそうに。けじめつけろ、なんてさ」

「あ。ああ、うん……」

「けじめつけられてなかったのは、あたしの方だったよ」


 紅里は泣き笑いみたいな表情で言う。


「あたしね、実は……ずっと青司くんが好きだった」

「え?」

「でもその気持ちをふっきるために……無理やり前を向いたんだ。そうできたのは……たぶん真白ほど、青司くんのことを好きでい続けられなかったからだと思うけど……でも、それは……けじめをつけたフリだった」


 衝撃的な発言のはずなのに、今のわたしはそれを不思議と穏やかに聞けていた。

 きっと、心のどこかで分かっていたのだと思う。

 だって、あの頃のお絵かき教室ではみんな青司くんを特別視していた。だから、紅里もそういう想いを抱いていたとしても、不思議じゃない。


 ただ、わたしに今まで黙っていたということは、それは紅里なりの優しさだったのだと思った。

 わたしはいつも自分の気持ちにばかり振り回されていて、周りを思いやる余裕なんてなかった。

 誰かを傷つけてばかりで、いっこうに成長できなくて。


 だからもし、そのときのわたしがそれを聞いていたら、きっともっとひどい有り様になっていたと思う。
「あたし、青司くんが帰ってきたって知って、何度か見に行ったんだ。でも……そこにはすでに真白がいた。真白と仲良さそうにしている青司くんも……。あたしはそれを見て、いままでの生き方を初めて後悔した。自分の心に嘘をついていたって気づいたんだ。でも後悔するなんて資格、あたしにはない。全部自分で選んだことだから……」

「紅里」

「真白、ごめんね。醜いでしょ? 嘘ばっかりで……。こんなんで親友だなんて、笑っちゃうよね。親友失格だよ。いいよ、笑っても……。笑われた方がいっそすっきりする」


 わたしはそう言ってうつむいている紅里の頬を、気付いたらはたいていた。

 ビクッとして顔を上げる紅里。


「ま、真白……?」

「ごめん。でも、そんな……そんなふうに言わないで。親友失格だなんて。誰だって、話したくない思いはあるよ。わたしだって……わたしだって紅里に黙ってることあるもん。黄太郎のこと、とか……」

「え? 黄太郎?」

「そう」


 わたしは紅里に、かつて黄太郎と付き合っていたことを明かした。

 たった一週間だったけれど。

 それでも、まったくその件を話したことがなかったので紅里は驚いていた。


「ああそう。そうだったんだ……あー、たしかに一時期、あんたたちが変な空気だったときあったもんねえ」

「そう、それ。たぶんそれ別れたばっかりのときだったと思う……」

「そっかあ。うん、別にどうでもいいよ。だって何にもなかったんでしょ」

「うん……。てか紅里、怒らないの?」

「え。何が?」

「だって……ずっと内緒っていうか、話したことなかったから……」

「そんな、怒らないよー。そんなら真白こそ。あたしのこと、怒らないの? あんたの大事な人を、あたしもずっと好きだったんだよ?」


 紅里はそう言いつつ、とても不安そうな顔をしていた。

 わたしは真面目な顔で言う。


「怒らないよ。むしろ……わたしが無神経だった。ごめん。なんにも知らなくて……わたしばっかり、好き好き言ってたよね。だから……紅里は余計言えなかったんじゃないの?」

「あー、まあね。でも、あの時はあれで良かったんだよ。自分と真白は違うんだってそう思えて、最終的には自分に発破かけられたんだから。真白には悪かったけど……わたしは恋愛以外でもどうしてもやりたいことがあったからさ」

「そう。それなんだよね。わたしにはそれが、すごくうらやましかった……」

「実際夢は叶えられたけどね。でも、結局最後は失敗しちゃった」

「失敗、なんかじゃないよ」

「え?」


 きょとんとする紅里に、わたしは静かにそう告げる。


「失敗なんかじゃない」
 ベンチから立ち上がり、紅里の両手をそっと取る。


「真白……?」

「失敗どころか……大成功だよ。わたしは失敗も成功もしてない。なんにもしなかった十年間だった。周りの人がどんなにわたしにいろいろ言ってくれても、なんにも動こうとしなかった。黄太郎にも紅里にも、知らないうちにいっぱい傷つけてしまってた。わたしはずっと、ダメダメ人間だったんだよ」

「そんな、ことは……」

「ううん。そうだったの。でも、青司くんがまたここに帰ってきてくれて、ようやくもう一度チャンスが巡ってきた。紅里や黄太郎にも、ちゃんとしろって言われて、ようやくもう一度前に進もうって思えたんだよ。それは、やっぱり自分ひとりじゃできなかったことなの」


 紅里がわたしをじっと見上げている。

 その目がうるんでいるのを、わたしも泣きそうな思いで見つめていた。


「紅里が……ずっと、わたしにはできなかったことを頑張ってやってきてくれたから、わたしも紅里みたいに頑張ろうって……頑張んなきゃって、思えたんだよ。きっかけは青司くんが帰ってきてくれたことだったけど……でも、紅里が頑張ってこなかったら、わたしはたぶん今みたいにもう一度動こうって、もう一度やり直そうなんて思えなかった」

「真白……」

「だから、絶対失敗なんかじゃない! 紅里はまた、必ず別の夢を見つけられる。そうできるって信じてる。なんなら、青司くんに今から告白しに行ったっていい。わたしに遠慮なんかしなくていいんだよ。なんでもやって。なんでも試してみて。だから、二度と後悔しないでほし……」


 そこまで言うのが限界だった。

 わたしは涙があふれてあふれて、しかたがなかった。

 だって、紅里がいたからこれまで生きてこられたんだ。紅里はいつもわたしを励ましてくれた。友人もやめないでいてくれて、ずっと側にいてくれてた。


 わたしはそんな優しくて、頑張り屋の紅里に自分を重ねて、できないことを代わりにやってくれてるみたいに勝手に思ってた。

 わたしはなんにもできないけど、できる紅里を応援することで、なんとか生きる気持ちをつないでいたんだ。


 そんな、恩人とも呼べる親友に、こんなことくらいで不快になんてなったりしない。


「まーた、そんなこと言って……。あ、あんたこそ、後悔しても遅いんだからね! あたしが……もし青司くんに告白して、OKもらっちゃったら……ど、どうすんのよ!」


 紅里もぼろぼろと泣きながら言う。


「それは……そのときだよ。でももしそうなったとしても、またわたしもチャレンジするから、いい……」

「あ、あははは! そ、それなら……それならいいよ。わかった。ふふふふ……」


 ぐいっと手を引かれて、紅里がわたしの腰に抱き付いてくる。

 そしてそのまま声を殺して泣いた。

 わたしはそんな紅里の後頭部にそっと手を置く。


「紅里……。ありがとう、話してくれて……」

「そんな、それは……こっちこそだよ。ありがとう、真白」