たった一度の『たつ屋』の繁忙期はミユキも笑顔で店番をしてくれた。中でも衛考案のあさり入り深川コロッケが30ヶとイタリアントマトコロッケが20ヶも売れた事で衛のプライドも守られた。

 さて、そんな事もあった週末。衛と瑞葉は映画を見に錦糸町まで来ていた。瑞葉の見たい映画の吹き替え版がこちらでしかやっていなかったのだ。

「あー、面白かった」

 瑞葉は映画のグッズのキーホルダーも買ってもらいご機嫌である。子供向けの映画だったが衛もなかなか楽しめた。

「さて、帰るか」

 衛と瑞葉がバス停に向かおうとしていると、そこにびゅうと強い風が吹いた。二人は思わず立ち上がった埃に目をつむる。

『おいてけぇ……おいてけぇ……』
「ん、なんだ?」

 衛が気のせいかと思って瑞葉の手を引いて先に進もうとすると、また声がした。

『おいてけ……』
「何をだよ!」

 また妙なあやかしが出たものだ、と衛はその声のする方に向かって叫んだ。

『……娘』
「は?」
『……娘をおいてけ』

 衛は耳を疑った。瑞葉をぎゅっと抱いたまま、声と風のする方にじっと目をこらすと若い男が立っているのが見えた。

「置いて行く訳ないだろう!」
「ですよねー」

 衛が噛みつくようにその男を怒鳴りつけると、若い男は急に態度を崩してへらへらと笑った。

「知ってます? 本所七不思議の置いてけ堀」
「知らん!」
「この近くにあった池に魚がいっぱいいたんですけど、釣って帰ろうとすると『おいてけー』ってお化けが出るんですよ」
「それがどうしたんだ」

 衛はこの場からどうやって逃れようかと考えた。瑞葉も怯えたように衛にしがみついている。

「すまないが、世間話している時間はないので失礼」

 そう言い残して衛は近くを通ったタクシーを捕まえた。とっととこの気味の悪い男から離れてしまいたい。

「それでは、ここらでさよならですかね。私の名前は神室、覚えておいて下さい」

 タクシーのドアがしまりがてら、男はそう名乗った。

「なんだったんだ、一体……」

 衛と瑞葉は家に帰るとさっそくミユキに先程の事を相談した。

「神室、と名乗ったんだね」
「はい」

 ミユキは難しい顔をして、顎に手を当てたまま考えこんだ。

「そいつは『人魚』だ」
「人魚? ちゃんと足がありましたよ」
「人魚ってお姫様の?」
「正確には人魚の肉を食べた人間さ。不老不死とも言われている」
「なんでそんなのが俺達の前に現れるんです?」

 あれは明かに敵意だった。よろず屋に用があって来たようには思えない。

「あれはかつてあたしが退治した人魚さ」
「退治? 人魚って悪い事でもするんですか」
「あいつは人の生き血を抜いてすすっていたのさ」
「ひえっ」

 衛も瑞葉もそれを聞いて震え上がった。さっきまで息がかかるくらいの距離にいたのがそんな人物だったなんて。

「でもなんでそんな事を……」
「さあ、なんでも体中の血をそっくり入れ替えれば人間に戻れるとか言ってたね……だからあたしは返り討ちであいつの生き血を全部抜いて木乃伊にしてやったんだ」
「ひえええ、ミユキさん怖い」

 恐ろしい人魚の実態、そしてもっと恐ろしいミユキの返り討ち。瑞葉は悲鳴を上げた。

「本所の寺に預けといたんだけど、そこから逃げ出して来たのかね」
「ミユキさんがそんな事するから、仕返しにきたんじゃないんですか!?」
「そうかねー」
「そうですよ、瑞葉を狙って来たんですよ!?」

 ミユキは仕方ない、と言いながら立ち上がり戸棚を漁った。

「これを身につけておきな」
「これは?」

 ミユキが手渡したのは龍の彫刻を施した木の札だった。

「龍神のお守りだよ。念の為、首から提げておくといい」
「……あ、ありがとうございます」

 衛はお守りを受け取ると、瑞葉にも手渡した。

「あのお兄さん、なんかやな感じだった」

 瑞葉はそうつぶやきながらお守りを首に掛けた。

「とにかく、数日のうちは用心しておきな」

 ミユキのその言葉を衛と瑞葉は肝に銘じた。



「それでそんなシケた顔をしているのか」

 死んだ顔で店番をする衛をおちょくっているのは出世稲荷の使い葉月である。

『母様、白玉が浚われたらそんな顔していられる?』
「それもそうだの、いや衛すまんかった」
「いいんですよー」
「しかし、瑞葉が学校の間ずっとこれでは困ったものだ」
「学校まではついていけませんから……あと、学校は梨花ちゃんっていうお友達がついてるから大丈夫だろうと思うんですが……」

 衛はそこまで言うとため息を吐いた。怖いのは学校の行き帰りのちょっとした時間に、あの神室が瑞葉の前に現れる事だ。どうせヒマだしついて回りたい所だが、保護者がびったりついているのも目立ちすぎる。

『母様、白玉はお手伝いしようと思います』
「お?」
『瑞葉ちゃんの学校の行き帰りには白玉が付き添いましょう』

 白玉は青い眼をくりくりさせてそう言った。衛はなるほど猫なら小学生と一緒にいても変では無い、と考えた。

「白玉、ありがとう……なにかお礼を、あっ」

 衛は二階に上がると穂乃香のブルーのシュシュを持って来た。

「これ良かったら首輪に、あっあとこのレバカツも持って行って」
「まあおじさんありがとう」
「白玉のお仕事デビューだの」

 ささやかな謝礼を白玉に持たせて、衛は二人に頭を下げた。穂乃香の失踪に続き、瑞葉まで失っては衛は生きるよすががない。もしもの時の保険はいくらでもかけたいと衛は思った。