「はい、まいど。コロッケ110円ね」
衛は緩慢な動きで客におつりを渡した。ビニール袋をガザコソとぶら下げて客が店の前を通り過ぎると、衛は盛大なため息をついた。
「はぁぁ、どうなってんだ……こいつは……」
衛のダダ漏れな心の声を聞きつけた義母のミユキは、思い切りその足を踏んづけた。あまりの痛さに衛が苦悶の声をあげる。
「いたたた……勘弁して下さい、お義母……」
「ミ・ユ・キ! ミユキさんだよ。いつになったら覚えるんだい」
衛は今、一人娘の瑞葉と共に妻の母であるミユキの元で暮らしている。ちょっと前まで存在すら知らなかった義母は気風がいいが気むずかしいところがあり、こうして名前で呼ばないと激怒するのだ。
「穂乃香……どこに行ったんだ……早く帰って来てくれ……」
妻の穂乃香が失踪したのは一月前。仕事から疲れて帰ってくると、娘の瑞葉が一人で泣いていた。瑞葉をあやしながら帰りを待ったが、深夜になっても帰宅せず事故かと思い警察に駆け込んだのだ。
それからが大変だった。育児をしながら仕事に行き、少しでも時間があれば穂乃香を探して回る日々。イタリアンの料理人であった衛にとってそれは生半可な事ではなかった。寝不足と心労で衛の目元には深いクマが刻まれた。
「氷川くん、大変だと思うけど困るんだよね」
睡眠不足から来る仕事のミスが重なったある日、オーナーにそう言われた。失踪当初は心配をしてくれた周囲の目が、だんだん妻に逃げられた哀れな男を見る目に変わっているのを衛はその時知った。違う、まったく自分には思い当たりは無い。
「すみません……」
以後、気を付けますと続けるつもりが……相当疲れて居たのだろう。衛はいつの間にかこんな事を口にしていた。
「……俺、辞めます……」
こうして衛は無職になった。蓄えは少々あったが、娘を抱えて呆然とした所にやって来たのがミユキだったのだ。
「あんた、あたしのトコで働きな。瑞葉の面倒もあたしが見る」
衛と瑞葉はその時、ミユキとは初対面だった。証拠の戸籍謄本の写しを見せられて穂乃香の実の母である事は分かったが、普通ならはいそうですかと付いて行かないだろう。
しかし、全てを見抜いているようなミユキの姿が印象的だったのと、なにより瑞葉が彼女にすぐに懐いたのだ。穂乃香が居なくなってから毎日泣いてばかりで学校にも行けなくなっていたのに。
「分かりました」
これは娘の為なんだと、そしてボロボロの自分に神様が出した助け船なのかもしれないと、衛はその提案に乗ったのだ。そうして三人で暮らしていた鶴見のアパートを出て、ここ東京、深川にやってきた。下町と呼ばれるこの街は賑わいと静かさを同時に持った街だ。
「しっかし客がこない店だな」
自分の所で働け、と言った割にミユキの経営する総菜屋『たつ屋』には閑古鳥が鳴いていた。衛は毎日少々の揚げ物とポテトサラダしか売れない状況に業を煮やしていた。
まず、立地が悪い。ここは表通りの裏筋で人通りも少ない。そして、商品ラインナップも平凡だ。まずはコロッケ、とんかつ、あじフライ。これはここに来てから初めて食べたけどレバーフライ。業務用を揚げた訳じゃないけど、その辺のスーパーで買った方が品揃えもいいし、安い。
つまりどうみても、この店は繁盛しそうにないし、衛の手伝いも必要とは思えないのだ。
「パパ、コロッケちょうだい?」
学校帰りの瑞葉がおやつにコロッケをねだりに来る時だけが、今の衛の幸せな一時なのだ。
「うん、おいしーい」
まるでハムスターのように頬を膨らませてコロッケをほおばる我が子を見ながら、衛はまたため息を吐いた。
「ああー、ヒマだ……」
衛もただヒマを持てあましていた訳じゃ無い。イタリアンシェフの腕前を発揮しようと最初こそ頑張ったのだが、客が来ないんじゃしかたが無い。あげくにミユキには材料を無駄にするなとしかられて、それからは毎日黙々と売れる数だけのコロッケ作りに従事している。
「穂乃香……はぁ」
そうして、衛は時折衝動的に失踪した妻の名を呼ぶ妖しい男に成り下がっていた。
思えば、妻穂乃香との出会いからして不思議だった。あれは桜の花の咲く頃だった。仕事終わりにぶらぶら缶チューハイを飲みながら、夜桜見物だと公園の水辺を眺めていたら、急に声をかけて来たのだ。
「桜、綺麗ですよね」
その時は逆に心配してしまった。彼女は清楚な美人さんで、こっちは酔っ払いの男。そんな無防備で大丈夫かと。
「え、でも貴方は大丈夫ですよね」
穂乃香は説教気味に語る衛に対してそう言ってのけた。衛は、まぁとにかく気を付けなさいと言い残して逃げるように去った。それだけで二人はもう会うことは無いと思っていた。しかし、数日後に穂乃香は衛の働いている店に客としてやって来たのだ。
「これは運命だと思うの」
そう無邪気に穂乃香は言った。衛もその時はそれを素直に信じて、プロポーズをした。その時に穂乃香は親は居ないと言ったのだ。だから身内だけで簡素な式を行い、やがて瑞葉が産まれた。
「ミズハ……瑞葉って名前にしようと思うの」
「男だったら?」
「ううん、女の子よ。きっと」
穂乃香が言った通りに女の子が産まれた。ちょっと泣き虫だけど優しい女の子。
「パパ、もう一個いい?」
「だーめ、夕飯食べられなくなるだろ」
「じゃあ、おゆうはんコロッケにしてー」
「ダメー」
最近はコロッケがブームみたいで、ぶくぶく太らないかが心配だ。そうなったら穂乃香が帰って来たら叱られる。
「……はーあ」
宿題をしに、瑞葉が上の階に行ってしまうと衛はまたヒマと格闘しなければならない。そう思うとため息がまたこぼれた。
「そんなにヒマなら、あたしの仕事を手伝うかい?」
「……なにか、仕事してるんですかミユキさん」
ミユキがあくびをかみ殺している衛を見かねたのか、声をかけて来た。衛は他に仕事があったんならこんな店閉めてしまえばいいのに、と思った。
「ほら、そこに看板が出てるだろ」
「この汚い木ぎれがどうしたんです……『よろず相談事引き受けます』なんだこれ」
総菜屋の軒下に油にまみれた木の板があった。
「相談事? カウンセラーかなにかっすか」
「まぁ言ってみればなんでも屋だね。これからお客がくるから、あんたは横で聞いていればいい」
そんな人の相談事を素人の自分が聞いていいものなのか、衛は戸惑ったが……この家ではミユキの言う事は絶対。この一月で学んだ事である。
「さ、お客だよ」
衛がミユキについていくとそこにはお客が居た。多分お客である。信じたくはないが。
「にゃー」
「……猫!?」
そこには白と黒の猫が二匹、ミユキと衛を待ち構えるようにして座っていた。
「ミユキさん……」
「さ、仕事だよ。じっくり話を聞いてやろうじゃないか」
そう言われても猫である。どっからどう見ても猫だ。衛は盛大に首を傾げた。
衛は緩慢な動きで客におつりを渡した。ビニール袋をガザコソとぶら下げて客が店の前を通り過ぎると、衛は盛大なため息をついた。
「はぁぁ、どうなってんだ……こいつは……」
衛のダダ漏れな心の声を聞きつけた義母のミユキは、思い切りその足を踏んづけた。あまりの痛さに衛が苦悶の声をあげる。
「いたたた……勘弁して下さい、お義母……」
「ミ・ユ・キ! ミユキさんだよ。いつになったら覚えるんだい」
衛は今、一人娘の瑞葉と共に妻の母であるミユキの元で暮らしている。ちょっと前まで存在すら知らなかった義母は気風がいいが気むずかしいところがあり、こうして名前で呼ばないと激怒するのだ。
「穂乃香……どこに行ったんだ……早く帰って来てくれ……」
妻の穂乃香が失踪したのは一月前。仕事から疲れて帰ってくると、娘の瑞葉が一人で泣いていた。瑞葉をあやしながら帰りを待ったが、深夜になっても帰宅せず事故かと思い警察に駆け込んだのだ。
それからが大変だった。育児をしながら仕事に行き、少しでも時間があれば穂乃香を探して回る日々。イタリアンの料理人であった衛にとってそれは生半可な事ではなかった。寝不足と心労で衛の目元には深いクマが刻まれた。
「氷川くん、大変だと思うけど困るんだよね」
睡眠不足から来る仕事のミスが重なったある日、オーナーにそう言われた。失踪当初は心配をしてくれた周囲の目が、だんだん妻に逃げられた哀れな男を見る目に変わっているのを衛はその時知った。違う、まったく自分には思い当たりは無い。
「すみません……」
以後、気を付けますと続けるつもりが……相当疲れて居たのだろう。衛はいつの間にかこんな事を口にしていた。
「……俺、辞めます……」
こうして衛は無職になった。蓄えは少々あったが、娘を抱えて呆然とした所にやって来たのがミユキだったのだ。
「あんた、あたしのトコで働きな。瑞葉の面倒もあたしが見る」
衛と瑞葉はその時、ミユキとは初対面だった。証拠の戸籍謄本の写しを見せられて穂乃香の実の母である事は分かったが、普通ならはいそうですかと付いて行かないだろう。
しかし、全てを見抜いているようなミユキの姿が印象的だったのと、なにより瑞葉が彼女にすぐに懐いたのだ。穂乃香が居なくなってから毎日泣いてばかりで学校にも行けなくなっていたのに。
「分かりました」
これは娘の為なんだと、そしてボロボロの自分に神様が出した助け船なのかもしれないと、衛はその提案に乗ったのだ。そうして三人で暮らしていた鶴見のアパートを出て、ここ東京、深川にやってきた。下町と呼ばれるこの街は賑わいと静かさを同時に持った街だ。
「しっかし客がこない店だな」
自分の所で働け、と言った割にミユキの経営する総菜屋『たつ屋』には閑古鳥が鳴いていた。衛は毎日少々の揚げ物とポテトサラダしか売れない状況に業を煮やしていた。
まず、立地が悪い。ここは表通りの裏筋で人通りも少ない。そして、商品ラインナップも平凡だ。まずはコロッケ、とんかつ、あじフライ。これはここに来てから初めて食べたけどレバーフライ。業務用を揚げた訳じゃないけど、その辺のスーパーで買った方が品揃えもいいし、安い。
つまりどうみても、この店は繁盛しそうにないし、衛の手伝いも必要とは思えないのだ。
「パパ、コロッケちょうだい?」
学校帰りの瑞葉がおやつにコロッケをねだりに来る時だけが、今の衛の幸せな一時なのだ。
「うん、おいしーい」
まるでハムスターのように頬を膨らませてコロッケをほおばる我が子を見ながら、衛はまたため息を吐いた。
「ああー、ヒマだ……」
衛もただヒマを持てあましていた訳じゃ無い。イタリアンシェフの腕前を発揮しようと最初こそ頑張ったのだが、客が来ないんじゃしかたが無い。あげくにミユキには材料を無駄にするなとしかられて、それからは毎日黙々と売れる数だけのコロッケ作りに従事している。
「穂乃香……はぁ」
そうして、衛は時折衝動的に失踪した妻の名を呼ぶ妖しい男に成り下がっていた。
思えば、妻穂乃香との出会いからして不思議だった。あれは桜の花の咲く頃だった。仕事終わりにぶらぶら缶チューハイを飲みながら、夜桜見物だと公園の水辺を眺めていたら、急に声をかけて来たのだ。
「桜、綺麗ですよね」
その時は逆に心配してしまった。彼女は清楚な美人さんで、こっちは酔っ払いの男。そんな無防備で大丈夫かと。
「え、でも貴方は大丈夫ですよね」
穂乃香は説教気味に語る衛に対してそう言ってのけた。衛は、まぁとにかく気を付けなさいと言い残して逃げるように去った。それだけで二人はもう会うことは無いと思っていた。しかし、数日後に穂乃香は衛の働いている店に客としてやって来たのだ。
「これは運命だと思うの」
そう無邪気に穂乃香は言った。衛もその時はそれを素直に信じて、プロポーズをした。その時に穂乃香は親は居ないと言ったのだ。だから身内だけで簡素な式を行い、やがて瑞葉が産まれた。
「ミズハ……瑞葉って名前にしようと思うの」
「男だったら?」
「ううん、女の子よ。きっと」
穂乃香が言った通りに女の子が産まれた。ちょっと泣き虫だけど優しい女の子。
「パパ、もう一個いい?」
「だーめ、夕飯食べられなくなるだろ」
「じゃあ、おゆうはんコロッケにしてー」
「ダメー」
最近はコロッケがブームみたいで、ぶくぶく太らないかが心配だ。そうなったら穂乃香が帰って来たら叱られる。
「……はーあ」
宿題をしに、瑞葉が上の階に行ってしまうと衛はまたヒマと格闘しなければならない。そう思うとため息がまたこぼれた。
「そんなにヒマなら、あたしの仕事を手伝うかい?」
「……なにか、仕事してるんですかミユキさん」
ミユキがあくびをかみ殺している衛を見かねたのか、声をかけて来た。衛は他に仕事があったんならこんな店閉めてしまえばいいのに、と思った。
「ほら、そこに看板が出てるだろ」
「この汚い木ぎれがどうしたんです……『よろず相談事引き受けます』なんだこれ」
総菜屋の軒下に油にまみれた木の板があった。
「相談事? カウンセラーかなにかっすか」
「まぁ言ってみればなんでも屋だね。これからお客がくるから、あんたは横で聞いていればいい」
そんな人の相談事を素人の自分が聞いていいものなのか、衛は戸惑ったが……この家ではミユキの言う事は絶対。この一月で学んだ事である。
「さ、お客だよ」
衛がミユキについていくとそこにはお客が居た。多分お客である。信じたくはないが。
「にゃー」
「……猫!?」
そこには白と黒の猫が二匹、ミユキと衛を待ち構えるようにして座っていた。
「ミユキさん……」
「さ、仕事だよ。じっくり話を聞いてやろうじゃないか」
そう言われても猫である。どっからどう見ても猫だ。衛は盛大に首を傾げた。