「かのん君、お箸とって」
「はーい」

 かのん君との同棲生活がはじまった。とは言ってもお互いの家を随分行き来していたからか、今の所大きな衝突はない。
 同棲にあたって決めた事は、お互いの部屋には勝手に入らない事とお互いの持ち物にはノータッチという事だ。と言う訳で洗濯も別々にしている。

「うーん美味しい」
「大げさだよ。ただの味噌汁」
「俺、朝はパン派だと思ってたんだけどな。戻れなくなりそう」

 食事は交代で、当番表を作っている。仕事や付き合いで無理な時は事前申告。今日の朝食は私だったので、たまごかけご飯とお味噌汁が食卓に並んでいる。

「さって、とっとと化粧して出かけないと」

 コーヒーを一気に飲んだ私は、リビングで化粧をはじめた。背中にビンビンかのん君の視線を感じるけど、無視しないと……。

「いくらなんでも雑すぎる……」

 恨みがましいかのん君の声が聞こえるけどこれも無視。他にも色々雑な所はあると思うんだけど、これだけはどうしても気になってしまうらしい。

「眉毛と口紅ついてりゃいいの、デートじゃないんだし」

 そう、会社にはくたびれたおっさんと青臭いぼくちゃんしかいない。それに見せるのはこんくらいで十分。

「今度のデートの時は俺にメイクさせて?」
「それは大歓迎」

 私はかのん君の提案にキスで返す。

「真希ちゃん、口紅塗り直さなきゃ」
「あっ、もう時間だ。行かなきゃ」
「真希ちゃん、もう」

 だって玄関でまたキスするんでしょ? そしたら塗り直しなんて無駄じゃない。かのん君のお見送りを受けながら私は職場へと向かった。

「……表情筋ががばがばだわ」
「そう、かな」

 桜井さんにはいの一番に同棲をはじめた事を伝えた。それ以来桜井さんは毎朝私の表情筋チェックをしている。

「主任にたるんでるって怒られちゃうかも」
「それは困る」

 私は洗面所の鏡を前にして眉根を寄せた。

「む、気合い気合い!」
「士気が高くて何よりだわ。長田さん」
「あ……主任」
「がんばって評価をあげればお給料もあがるわよ、ちょっとだけど」
「そ、そうですよね……」

 ついでにいうと住所変更を申し出た時点で主任にも同棲がバレた。ここでへんなミスをしたらかのん君の名誉に関わるのである。

「よーし、今日も頑張りますか」

 そうして私は、気を引き締めて仕事の山に取りかかった。



「さて、今日も終わりっと……」
「長田さん、ちょっと」

 業務も終わり、細々とした明日やることをまとめていると主任から声がかかった。

「申し訳ないんだけど、明日朝一の会議で必要な資料が出来たの。この時間だけどお願い出来ないかしら」
「え……うーん、分かりました」

 彼氏に早く会いたいから、という理由で社会人はそうそう帰れない。特に尊敬に近い気持ちを抱いている主任にこんな風に頼まれちゃなぁ……。

『ごめん、残業入っちゃった』
『OK、晩ご飯チン出来る様にしておくね』

 晩ご飯担当のかのん君に、お詫びのメッセージを送る。ああ、出来たてごはんが一緒に食べたかった。

「本当に大丈夫?」

 主任がちょっと心配そうに聞いてくる。私はことさら元気に頷いた。

「大丈夫です! 残業代を稼ぎます」
「はは……じゃあ私はこっちをやるから長田さんは昨年のデータとの比較をグラフ化して」
「はい」

 私と主任は人もまばらになったオフィスで膨大なデータと格闘をはじめた。



「はぁ……ただいま……」

 玄関の時計を見ると、十一時を回っている。真っ暗な廊下をそろそろと足音を立てないように進んでいると、かのん君の部屋の扉が開いた。

「真希ちゃん! 帰ってきたんだ。もうこんなに遅くなるなら先に言ってよ」
「ごめん……」
「いや、心配だっただけだから」

 お肌の為だといつも早寝のかのん君が起きて待っててくれるなんて。

「この時間にハンバーグは重たいな、よしお夜食作ったげるから先にお風呂入っておいで」
「えー、いいの?」
「ほらほら早く」

 私がざっとお風呂を済ましている間に、本当にかのん君は鶏と雑穀の具だくさんスープを作って待っていてくれた。

「うーん、しみるぅ……」
「美味しい?」
「うん」

 かのん君のやさしさそのもののようなコクのあるスープが疲れた身体に染み渡る。ああ、私こんなに幸せでいいのかしら。