翌日。訓練終了後も、事情を知る隊員たちは兵舎に戻ろうとしなかった。妹尾とビクターの対決を見届けたかったのだ。
中隊長もこの件に関しては噂を耳にしていたが、あえて知らないことにした。万一、連隊長の耳にまで届いて問題になるようなことがあった場合には、自分が盾となって守ってあげようと考えていた。
中隊長の興味は問題児ビクターではなく、日本人セナ・タトゥーロの方にあった。訓練態度はいたって真面目だが、第2落下傘連隊にあっては特別優秀というほどでもなく、むしろ目立たない隊員といえる。そのセナがビクターの挑発を受けて立ったということは、それなりに勝算があるのだろう。それを見届けてみたいという個人的な興味もあってのことだった。
野次馬たちによって円形のリングが自然と形作られ、いよいよ決闘の様相を呈していた。その中央で、間合いを保ちながら対峙する両者を比較すると、ビクターの方が頭一つ分背が高く、体重も倍近くありそうに見えた。
ビクターはボクサーのように構えた腕をゆっくり回しながらにやにや笑っている。妹尾は、柔道の試合を思い出しながらビクターの出方を伺っていた。地面に倒してしまえば体格差は意味を失う。そこからは柔道で鍛えた自分の独壇場だ。関節を破壊して後々まで影響を残すよりも、絞め落としたほうが後遺症もないし、何よりビクターの自尊心を剥ぎ取るのに効果的だろう。
問題はビクターを地面に転がすことができるかどうかだ。ボクシングスタイルの構えから察するに、おそらくビクターは打撃系格闘技の経験者なのだろう。あの太い腕から繰り出されるパンチをまともに喰らったら、そこですべてが終わってしまう。いかに奴のパンチをかい潜って組付き、素早く地面に倒せるか。ファーストコンタクトが肝心だ。
だが、そんな妹尾の心配は無用だった。ファイティングポーズを解いた無防備なビクターが、焦れたように両手を前に突き出して闇雲に突進してきたのだ。
妹尾にとっては願ってもない好機だ。
ビクターの片腕を抱え込むと素早く体を入れ替えた。
次の瞬間、まるで無重力のようにビクターの巨体が弧を描いて宙に踊った。
妹尾は、相手の突進力を利用しながら鮮やかな一本背負いを決めた。
見物する隊員たちからどよめきが起こった。
背中から強烈に地面に叩きつけられたビクターは、百二十キロ以上あるであろう自重も仇となって、呼吸困難に陥っている。
妹尾は間髪入れず、横たわるビクターの腕と首を腿で挟み込んで横三角締めに入った。
両足をロックして全力で絞め上げる妹尾に対し、死に物狂いで暴れ続けるビクター。
普通の人間ならとっくに落ちているはずだが、なおももがき続ける。その力の強さに驚愕しつつも、冷静な妹尾は勝利を確信していた。
やがてビクターの体から力が抜けるのを感じ取ると、技を解いた妹尾は蹴るように相手の体をズラしながら立ち上がった。
周囲の隊員たちのどよめきが喝采に変わった。「セーナ、セーナ」とコールが巻き起こったが、これは競技ではない。ガッツポーズで応えるわけにもいかない妹尾は、なんとなく居心地悪そうに肩をすくめてみせた。
幸い、この一件が連隊内で問題視されることは一切なかった。そしてこの日以降、妹尾を見る隊員たちの目が変わった。尊敬の念ととともにサムライボーイの愛称で呼ばれるようになった。
数日後、基地内のバーで妹尾が会計を済ませようとしたところ「お代は結構です。この先一ヵ月分の飲み代はすでに頂いております」と言われて驚いた。ビクターから妹尾への、敬意を込めたお詫びの印だった。
それから一ヵ月の間、妹尾は遠慮なくただ酒を楽しんだ。あれ以来、隊内におけるビクターの態度も明らかに変わった。今までのように人種差別を露わにするようなことは二度となかった。
やがて外人部隊を除隊したビクター・スルエフは、その後九十年代後半のコソボ紛争において、セルビア治安部隊の一員として戦闘に参加、戦死する。