両親からの厳しい言葉は覚悟していた。しかし意外にも、電話口の母は悦子の行動を一切責めることなく、全てを話し終えた悦子に対して「大変だったね。いつでも帰っておいで」と優しい言葉をかけてくれた。
電話をかける前は、何があっても絶対に泣かないと誓っていたのに、母と話し終えるや否や、安堵感と感謝の気持ちから、堪えていたものが溢れ出した。涙が止まらなかった。
後で聞けば、実は母以上に悦子を心配していたのは父だったという。だが、悦子に何も言わずに仕送りを打ち切った手前、ばつが悪くて言葉をかけられなかったそうだ。いかにも古い男という感じである。
この時、あらためて親の存在のありがたみが身に染みた。そして悦子は、もしわが子が、同じように困り果てて頼ってきた時には、例え理由はどうであれ、最大限の理解と愛情をもって受け止めてあげようと思った。

店内にはアルバム『卒業』の中から「スカボロー・フェア」が静かに流れていた。
今日のコーヒー豆は、普段よりちょっぴりほろ苦い仕上がりになりそうね。
そんな風に思いながら、悦子は焙煎の準備を始めた。
いざ焙煎を開始すると、作業に没頭して周りが見えなくなるため、いきなり「ママさん」と声をかけれた悦子は、びっくりして飛び上がった。
「やだ、驚いた。何?どうしたの」
悦子を驚かせてしまったことを、いかにもすまなそうにしながら、ケンがもじもじして立っていた。
「これ、えーっと・・・レント。お金持ってきたですね。三万」
「あ、家賃」
「はい、それ」
「お給料、週払いなのね。どう、造船所の仕事には慣れたかしら?」
「はい。少しだけ。お金、入りましたね。ごちそうさまでした」
少しだけ慣れたのか、少しだけお金が入ったのか分からないし、ごちそうさまでした、とは一体?そんなちょっと頓珍漢なケンの日本語を、悦子は微笑ましく思った。
「はい。分かりました。では、頂戴します。ケンさん、座って。ひと段落したからコーヒー淹れてあげる。サービスよ」
「ありがとう。嬉しいね」
「どのコーヒーがいい?キリマンジャロとマンデリンは煎りたてでまだ飲めないけど」
「えー、ブレンド?」
「分ったわ、モカが飲みたいのね」
モカを飲みたい気分だった悦子は、笑いながらごり押しした。ケンもつられて思わず吹き出した。
カウンター席に腰を下ろしたケンは、悦子が丁寧にペーパードリップで淹れるのを眺めた。
ミルで挽かれて細かい粒子となった豆は、そっと湯を注がれてハンバーグのように膨れ上がった。
数十秒蒸らす間に、悦子はとっくに終わっていた『卒業』のレコードを再びかけた。
一曲目の「サウンド・オブ・サイレンス」に耳を傾けながら、ケンは思わず見惚れてしまった。
無駄のない手際でコーヒーを淹れる悦子の姿は美しかった。こうしたタイプの女性は、俺の人生に登場したことがなかったな。人生をしっかりと歩んできた人間だけが醸し出す芯の強さを感じる。自分の母親といってもいい年齢だろうが、凛とした美しさはむしろ加齢とともに磨かれてきた美のような気がする。異性というよりも魅力的な人間として憧れを抱いてしまう。