公園には幼児用の遊具があったが、すっかり塗装が剥げて錆びついており、長年使われていないかのようだった。こんなところにわざわざ遊びにくる母子はいないのだろう。
舞子はおにぎりを食べながら、お茶で喉を潤した。
楽しい。毎日でもこうしていたい。こんなに安らいだ気分は久しく忘れていた。
舞子は、仕事を通じて知る世界が人生の全てではないことを知った。その外側には全く異なる時間が流れているのを知った。
明日は本でも持って、またここに来よう。そう決めると、駅に向かってのんびり歩き出した。まだ日は高かったがそろそろ家に帰ることにした。
帰宅すると、留守電に上司から伝言が入っていたが、舞子はそれを無視した。
翌日も同じように下り電車に乗って終着駅まで行った。
そんな毎日が数日続いたある日、会社から封書が届いた。中身は解雇通達だった。それを見て、舞子は大きな安堵感を覚えた。なぜか心がうきうきした。
その夜、舞子は実家に電話をかけることにした。心配をかけたくなかったので、これまで仕事のことで母親に電話したことは一度もなかった。好待遇の新しい仕事を見つけたので、会社を辞めたと伝えることに決めた。実際、大した額の貯金があるわけでもないので、次の仕事を直ぐにでも探さなければ、と舞子は考えていた。
でも、いざ電話をしたら母に嘘をつくことはできなかった。
二十四年間の人生で、これほど泣いたことはなかった。それくらい電話口で大泣きしながら、全てを包み隠さず話した。
黙ってずっと聞いていた悦子は、全てを吐き出して、なおもしゃくり上げている娘にやさしく言った。
「お疲れさま。辛かったね。こっちに帰っておいで」
窓から差し込む陽光はすっかり弱くなっていた。薄暗い工房で、舞子は知らぬ間に涙を流していたらしい。何のための涙なのか。舞子自身、さっぱり分からなかった。
室内の電気をつけると、改めて制作中のステンドグラスを眺めてみた。
モチーフとなる狼の胴体の部分は、完璧に描かれて仕上がっているが、顔にはまだ手をつけていない。狼の目の色として、舞子が考えているブルーを色ガラスの上に再現するための、ベストな顔料配合がつかみきれていないのだ。この作品における狼の目の色は、舞子にとって非常に重要な意味があったので、時間の許す限り妥協はしたくなかった。
題名もまだ決めかねているこのステンドグラスは、数年前、ケンが初めて天ヶ浜を訪れて、連日「ゲルニカの木」に顔を出していた時に聞かされた、とあるエピソードからインスピレーションを受けている。
完璧ではない日本語と身振り手振りを駆使して、なんとかその出来事を伝えようとするケンの真剣さもあってか、舞子にとってその話は特別で大切な宝物となった。
ケンがその狼を見かけたのは、カリフォルニアの砂漠にある広大な射撃場で、狙撃の訓練を受けている時だった。
そろそろ暗視装置なしでの射撃が限界となる時間帯で、青からオレンジ色へと美しいグラデーションを描く乾いた空には、月がうっすらと見えていた。
伏射の態勢でスナイパーライフルを構えていたケンは、スコープの円内に浮かぶ標的の向こう側に、何かの影が通り過ぎたのを見た。
錯覚かと思ったケンは、いったんスコープから目を離すと、深呼吸をしながら脳と目にたっぷり酸素を供給した。
リラックスして再びスコープに目を当てると、先ほど視界をよぎった主の姿が、今度ははっきりと確認できた。
標的の横、数メートルの位置を彷徨うように歩くその正体は、立派な狼だった。
一体どこから迷い込んできたのだろうか。あんな所をうろついていたら、誤って撃たれてしまうぞ。
舞子はおにぎりを食べながら、お茶で喉を潤した。
楽しい。毎日でもこうしていたい。こんなに安らいだ気分は久しく忘れていた。
舞子は、仕事を通じて知る世界が人生の全てではないことを知った。その外側には全く異なる時間が流れているのを知った。
明日は本でも持って、またここに来よう。そう決めると、駅に向かってのんびり歩き出した。まだ日は高かったがそろそろ家に帰ることにした。
帰宅すると、留守電に上司から伝言が入っていたが、舞子はそれを無視した。
翌日も同じように下り電車に乗って終着駅まで行った。
そんな毎日が数日続いたある日、会社から封書が届いた。中身は解雇通達だった。それを見て、舞子は大きな安堵感を覚えた。なぜか心がうきうきした。
その夜、舞子は実家に電話をかけることにした。心配をかけたくなかったので、これまで仕事のことで母親に電話したことは一度もなかった。好待遇の新しい仕事を見つけたので、会社を辞めたと伝えることに決めた。実際、大した額の貯金があるわけでもないので、次の仕事を直ぐにでも探さなければ、と舞子は考えていた。
でも、いざ電話をしたら母に嘘をつくことはできなかった。
二十四年間の人生で、これほど泣いたことはなかった。それくらい電話口で大泣きしながら、全てを包み隠さず話した。
黙ってずっと聞いていた悦子は、全てを吐き出して、なおもしゃくり上げている娘にやさしく言った。
「お疲れさま。辛かったね。こっちに帰っておいで」
窓から差し込む陽光はすっかり弱くなっていた。薄暗い工房で、舞子は知らぬ間に涙を流していたらしい。何のための涙なのか。舞子自身、さっぱり分からなかった。
室内の電気をつけると、改めて制作中のステンドグラスを眺めてみた。
モチーフとなる狼の胴体の部分は、完璧に描かれて仕上がっているが、顔にはまだ手をつけていない。狼の目の色として、舞子が考えているブルーを色ガラスの上に再現するための、ベストな顔料配合がつかみきれていないのだ。この作品における狼の目の色は、舞子にとって非常に重要な意味があったので、時間の許す限り妥協はしたくなかった。
題名もまだ決めかねているこのステンドグラスは、数年前、ケンが初めて天ヶ浜を訪れて、連日「ゲルニカの木」に顔を出していた時に聞かされた、とあるエピソードからインスピレーションを受けている。
完璧ではない日本語と身振り手振りを駆使して、なんとかその出来事を伝えようとするケンの真剣さもあってか、舞子にとってその話は特別で大切な宝物となった。
ケンがその狼を見かけたのは、カリフォルニアの砂漠にある広大な射撃場で、狙撃の訓練を受けている時だった。
そろそろ暗視装置なしでの射撃が限界となる時間帯で、青からオレンジ色へと美しいグラデーションを描く乾いた空には、月がうっすらと見えていた。
伏射の態勢でスナイパーライフルを構えていたケンは、スコープの円内に浮かぶ標的の向こう側に、何かの影が通り過ぎたのを見た。
錯覚かと思ったケンは、いったんスコープから目を離すと、深呼吸をしながら脳と目にたっぷり酸素を供給した。
リラックスして再びスコープに目を当てると、先ほど視界をよぎった主の姿が、今度ははっきりと確認できた。
標的の横、数メートルの位置を彷徨うように歩くその正体は、立派な狼だった。
一体どこから迷い込んできたのだろうか。あんな所をうろついていたら、誤って撃たれてしまうぞ。