それまで占有していた美術室の片隅が、舞子だけの場所ではなくなってしまった。その落胆は大きかった。そもそも美術部員でもない舞子が文句を言える立場ではないし、美大の入試ともなれば、大勢の受験生とイーゼルを並べてデッサンしなければならないのだから、こんなことで凹んでいられないのは分かっている。それでも今日は、とりあえず美術室には行かない。さぼる日と朝から決めていたのだ。
放課後の無人の教室は、一人まどろむには最高の環境だった。舞子は、窓から射し込む日光が浮かび上がらせる、細かな埃の浮遊する様を眺めていた。
部活動に参加していない生徒はとっくに帰宅しており、校内は静かだった。遠くから微かに響いてくる声の主たちは、きっと体育館で練習しているバレー部やバスケ部だろう。校舎の端にある音楽室から控えめに聞こえるピアノが、たどたどしくも耳に心地よい。聞き覚えのある曲だけど、題名までは思い出せない。
舞子は自分だけの時間を楽しむことにした。机に突っ伏すと、木と鉛筆が入り混じったような独特の匂いが鼻をくすぐった。空想に耽るには最高の条件だ。一人にんまりしながら、舞子は目を閉じた。
その頃の舞子の空想には定番ともいえるパターンがあった。子供の時に大好きで、飽きもせずに眺めていた絵本から得た着想を、舞子流にアレンジしたものだった。詩人、谷川俊太郎の著作であるその絵本は、シュールで忘れられない内容の一冊だった。
本の表紙には、レンガ塀に古めかしい木の扉が描かれており、その扉には「あけるな」の文字がある。
ページをめくると、同じ扉だが文字が「あけるとたいへん」に変わっている。
その後も「あけてはいけない」「あけるなといってるのに」と言葉を変えながら、ダメと言われるとやってみたくなる人間心理を巧みに操り、読者を次のページへと誘うのだ。
ページを進んでいくと、読者は時空を超えて、奇妙な位置に扉を見つけるようになる。時には大木の幹に扉があったり、人間の背中に扉があったりもする。
中でも舞子のお気に入りは、暗闇で微かに光を漏らす扉と、その先に広がる無人の町だった。レンガ造りの中世の街並みを思わせるその見開きページの絵は、この町を探検してみたいな、もし誰も住んでいない町なら、ここを独り占めして静かに暮らしたいな、と幼い舞子の想像力を猛烈に掻き立てた。
この日の放課後の空想は、さながら『あけるな』の我流拡張版とでもいうものだった。舞子は、扉を開ける度に目の前に広がる様々な異世界を妄想しては楽しんだ。
舞子の豊かな想像力は、もはや絵本とは関係ない非現実的な空間へと力強く飛翔した。
真っ青な夏の空、入道雲の上に浮かぶ巨大な扉。
森の奥に佇む湖、その湖面にひっそりと立つ扉。
モアイ像の後頭部に現出した扉の先はどこに続くのだろう・・・まるで時空旅行を楽しむように、舞子は想像を巡らせる。
時にはこの空想から、絵画のアイディアを得ることもあって、暇つぶしや現実逃避にしては、なかなか役に立つじゃん、と自己満足を覚えることも度々だった。
モアイの頭を潜り抜け、大空の真っただ中に飛び出した舞子。
眼下には体長が一㎞以上もあろうかという、途方もなく巨大な鯨がいた。
巨体は錆びついた鋼のような色をしており、その背に廃墟の町を乗せて、悠々と雲海の表層を泳ぐ姿は圧巻だった。
ゆっくりと尾ビレを上下に動かすたびに、細かい鉄さびの欠片(と言っても自動車くらいの大きさがありそうだ)が落ちて、雲の中に吸い込まれていった。
まるで羽毛が着地するように、鯨の背中にそっと降り立った舞子は、じっくりと廃墟散策に出かけてみた。
放課後の無人の教室は、一人まどろむには最高の環境だった。舞子は、窓から射し込む日光が浮かび上がらせる、細かな埃の浮遊する様を眺めていた。
部活動に参加していない生徒はとっくに帰宅しており、校内は静かだった。遠くから微かに響いてくる声の主たちは、きっと体育館で練習しているバレー部やバスケ部だろう。校舎の端にある音楽室から控えめに聞こえるピアノが、たどたどしくも耳に心地よい。聞き覚えのある曲だけど、題名までは思い出せない。
舞子は自分だけの時間を楽しむことにした。机に突っ伏すと、木と鉛筆が入り混じったような独特の匂いが鼻をくすぐった。空想に耽るには最高の条件だ。一人にんまりしながら、舞子は目を閉じた。
その頃の舞子の空想には定番ともいえるパターンがあった。子供の時に大好きで、飽きもせずに眺めていた絵本から得た着想を、舞子流にアレンジしたものだった。詩人、谷川俊太郎の著作であるその絵本は、シュールで忘れられない内容の一冊だった。
本の表紙には、レンガ塀に古めかしい木の扉が描かれており、その扉には「あけるな」の文字がある。
ページをめくると、同じ扉だが文字が「あけるとたいへん」に変わっている。
その後も「あけてはいけない」「あけるなといってるのに」と言葉を変えながら、ダメと言われるとやってみたくなる人間心理を巧みに操り、読者を次のページへと誘うのだ。
ページを進んでいくと、読者は時空を超えて、奇妙な位置に扉を見つけるようになる。時には大木の幹に扉があったり、人間の背中に扉があったりもする。
中でも舞子のお気に入りは、暗闇で微かに光を漏らす扉と、その先に広がる無人の町だった。レンガ造りの中世の街並みを思わせるその見開きページの絵は、この町を探検してみたいな、もし誰も住んでいない町なら、ここを独り占めして静かに暮らしたいな、と幼い舞子の想像力を猛烈に掻き立てた。
この日の放課後の空想は、さながら『あけるな』の我流拡張版とでもいうものだった。舞子は、扉を開ける度に目の前に広がる様々な異世界を妄想しては楽しんだ。
舞子の豊かな想像力は、もはや絵本とは関係ない非現実的な空間へと力強く飛翔した。
真っ青な夏の空、入道雲の上に浮かぶ巨大な扉。
森の奥に佇む湖、その湖面にひっそりと立つ扉。
モアイ像の後頭部に現出した扉の先はどこに続くのだろう・・・まるで時空旅行を楽しむように、舞子は想像を巡らせる。
時にはこの空想から、絵画のアイディアを得ることもあって、暇つぶしや現実逃避にしては、なかなか役に立つじゃん、と自己満足を覚えることも度々だった。
モアイの頭を潜り抜け、大空の真っただ中に飛び出した舞子。
眼下には体長が一㎞以上もあろうかという、途方もなく巨大な鯨がいた。
巨体は錆びついた鋼のような色をしており、その背に廃墟の町を乗せて、悠々と雲海の表層を泳ぐ姿は圧巻だった。
ゆっくりと尾ビレを上下に動かすたびに、細かい鉄さびの欠片(と言っても自動車くらいの大きさがありそうだ)が落ちて、雲の中に吸い込まれていった。
まるで羽毛が着地するように、鯨の背中にそっと降り立った舞子は、じっくりと廃墟散策に出かけてみた。