小学校に進学する頃には、同級生が幼稚に思えてきた。教師のあからさまなうけ狙いの発言に教室中が爆笑する中、ただ一人「一体、今の何がそんなにおかしいのだろう」と真剣に考える少女だった。
高学年になる頃には、その違和感はますます大きくなっていたが、同時に周囲から浮かないようにしなければと気を使うようになった。
だが無理やり友達に合わせて過ごす毎日は、舞子を疲れ果てさせた。こんな毎日が続いたら、わたし気が狂うかもしれない。そんな風に恐怖して眠れない夜もあった。
中学進学を機に、自分自身を偽って演じるのをやめてみた。
自分の気持ちに忠実になったおかげで、無駄な気疲れはなくなり将来に希望が湧いてきた。その代わりに、先輩からのいじめやクラスメイトからの無視を経験した。
それでも媚びへつらうこともせず、自分の道を歩き続けることができたのは、生来の頑固さと、密かな逃げ場とでもいうべき空想癖のおかげだった。
そして心に誓った。こんな連中と同じレベルには絶対に降りていかない。自分の人生だもの、誰に遠慮などする必要があるっていうの。わたしは生きたいように生きる。
誰の指図も受けたくない。何者からも自由でありたい。もし自分を縛るものがあるとしたらそれは自分だけ。そんな人生の指針はまさに母、悦子譲りのものだった。
地元の高校に進学した舞子は、天ヶ浜という窮屈でちっぽけな世界を出て、誰に気兼ねすることもなく個性を発揮できる大都会に行きたい。可能ならば東京の大学に進学したい、と自分の将来を思い描くようになった。
いじめから逃避すべく中学時代に身に着けた空想癖は、高校生になっても健在だった。そこに新たに加わったのは、そうした空想を具現化する手段、絵を描くことだった。
それは舞子に大きな希望を与えた。芸術家である母の影響もあって、幼い頃から絵を描くことは好きだったが、それは人に褒められたいとか、注目されたいといった自己承認欲求の現れでしかなかった。
だが、高校生になった舞子には、絵を描くことがもっと重要な意味を持ちはじめた。自分が想像した世界を、自分自身の手で表現できることの喜びは何物にも代えがたかった。
やっぱりわたしは井口悦子の娘なのね。そんな風に思いながら、志望大学を母の母校でもある女子美術大学に決めた。
その時からデッサンに明け暮れる日々が始まった。放課後には美術室の片隅で、マルスやヘルメス、ラオコーンといった巨大な石膏像を相手に、休日は自宅の工房で果物や器、花や花瓶などを相手に描きまくった。
グループに属するのが苦手な舞子は、顧問に誘われても決して美術部に入部することはなかった。絵を描くのが目的なのか、異性とくだらない話で盛り上がるのが目的なのか分からないような美術部員たちの姿を見て、舞子は固く決心した。絶対に、あの輪には入りたくない。近寄りたくもない。
部員たちが、舞子の方をチラチラと見ながらひそひそ話をすることもあったが、一切気にしないように努めた。この程度のことには中学時代から慣れっこだもの。ひたすらデッサンに没頭して、自分の世界に逃げ込んでしまえば大したことじゃない。
しかしそう思ってはいても、やはりどうしても美術室に足が向かない日もあった。そんな日は家に帰ってデッサンをする気も起きないので「さぼる日」と割り切って、放課後の教室に一人居残ると、空想の世界に浸りながら時間を潰していた。
あの小春日和の土曜日も、そんなさぼる日の一日だった。ちょうど今日のこの工房みたいに、午後の日差しがぽかぽかと暖かく、舞子の外に誰もいない教室をほどよく暖めていた。
その日、どう努力しても美術室に行く気が起きなかったのは、舞子と同じく美術系の大学進学を目指す男子生徒が、その日から一緒にデッサンの練習をすることになっていたからだ。