その時、遠くからパトカーのサイレンが聞えてきた。こちらに近づいてくるような気がする。
桜田組の出方を心配するあまり、警察のことまでは気が回っていなかった自分たちを呪いたい気分になった。こんな時間に廃屋の倉庫付近を大の男が二人でうろついていたら、職務質問には格好の対象だ。大金の入ったバッグの言訳など考えるだけ無駄である。一発でアウト、署までご同行に決まってる。
またしても俺たちは失敗してしまうのか。しかも大失敗だ。ここでやらかしてしまったら二度と組には戻れない。ただでは済まされないことは誰よりもよく理解していた。新井は堀田に向かって叫んだ。
「兄貴の車まで走るぞ!」
それを聞いた堀田は、バッグを胸に抱えると弾かれたように走り出した。その後ろを走る新井の手は、無意識のうちに隠し持っていたトカレフに伸びていた。

小野公一、二十三歳。大学四年生。趣味は写真撮影と天体観測。
公一にとって、ロシアの軍事偵察衛星ミカエルの大気圏突入の知らせは、ここ数ヵ月で最も心がときめく出来事だった。一生のうちにそうそう体験できるものではない。そう考えれば、三ヵ月分のバイト代をはたいて200ミリの望遠レンズを新調したのも、当然の投資だった。
気象庁の予想では、ミカエルは九日後の早朝に北緯四十度辺りの日本海沖に墜落するという。素晴らしい天体ショーの予感に今から興奮が収まらない公一は、今夜も川べりに建つ古びたアパートの屋上に出ると、自慢の望遠レンズと高感度フィルムによる撮影の練習に余念がなかった。
大気圏突入時にバラバラになって日本海に降り注ぐ衛星というのは、一体どんな風に見えるのだろう。肉眼でも確認できるのか。それとも望遠レンズ越しでないと見えないのだろうか。落下する人口衛星のイメージとして、公一は流星群を想像していた。だが、あいにくこれまで流星群の撮影に成功したことはない。流れ星を相手に撮影の練習など、したくてもそんなチャンスに恵まれることは先ずないのだ。
廃墟の倉庫群を川の対岸に臨み、川沿いの街灯くらいしか明かりがない一角とはいえ、その向こうでは町明かりが空をぼんやり照らしている。夜空の星々も大して見えないこんな環境とあっては、月を撮影するのが関の山だった。だがここ数日、月ばかり撮っていたので、さすがに公一も撮影に飽きてしまった。
そんな公一の心にムラムラと欲望が湧き上がってきた。この望遠レンズがあれば、川の向こう岸の出来事も丸見えである。かすかな後ろめたさを感じながらも、公一はレンズ越しの観察という誘惑に抗うことはできなかった。

「銀なまず」を後にした栗岩と妹尾の二人は、狭い路地裏を抜けて川沿いの歩道に出た。右手には廃倉庫が立ち並び、明かりといえば等間隔で立つ街灯くらいで人影はない。最寄り駅までは街中を歩くよりも近道になるし、川の流れる音を聞きながら夜の散歩と思えば悪くないロケーションである。
「いやぁ、気持ちいいね」
「そうですね」
「ナマズ、美味しかったでしょ?」
「はい、珍しいものをご馳走になりました」
「ナマズって一見愛嬌あるけど、餌はカエルや小魚だし、共食いもするし。結構恐い魚なんだよね」
再び栗岩のナマズ談義が始まったが、妹尾の耳にはほとんど入ってきていなかった。妹尾の中では、栗岩に今の自分の状況を打ち明けたい欲求と、それは不可能であると告げる理性がせめぎ合っていた。
「恐い魚なんだけども、振動を与えると死んじゃうくらいセンシティブなんだよなぁ。それでさぁ、夜行性だから昼間はずっと暗がりに隠れてるの」
「ほほぉ」
生返事で答えた妹尾だったが、栗岩が続けて発した言葉に思わず我に返った。
「お天とうさまを堂々と拝めないような悪さでもしたのかね?」
「え・・・」
「ほら、昔はナマズが地震の原因だって信じられてたって言うじゃない」
「はぁ」
「地震で人間を困らせてたのが後ろめたくて、昼間は隠れているのかもなってね」