日本国防の最前線に立ち、精鋭を自認する第1空挺団の隊員にとって、後方支援要員でもなければ、レンジャー課程を修了することは避けて通れない道である。
その胸に、レンジャー有資格者の証である月桂冠に囲まれたダイヤモンドの徽章を付けた男たちは、陸海空全ての自衛隊員たちから、尊敬と畏怖の眼差しで見られる存在だ。それはつまり、レンジャー徽章を手に入れることがいかに困難であるかを意味している。
ここ日本で、最も過酷な環境に飛び込みたかったらレンジャー課程に挑戦すればよい。毎年五月下旬から三ヵ月間に渡って、レンジャー素養検査をパスしたレンジャー学生と呼ばれる候補生が、体力、精神力の限界を試される。
その過酷さゆえに過去には訓練中に死者も出ており、レンジャー学生は訓練開始前に家族宛ての遺書を書かされる。それ程の覚悟が必要とされるのだ。
レンジャー課程の前半「基礎訓練」は徹底した体力勝負となる。
腕立て伏せ、懸垂、かがみ跳躍、ロープ技術にランニング。そのランニングも只走るわけではない。戦闘服に重たい軍用ブーツを着用し、大きな背嚢を背負い、4キロ近い重さの小銃を胸の前に構えて二十キロの荒れ地を走破しなければならないのだ。
幹部レンジャー課程を修了している百戦錬磨の鬼教官から飛んでくる檄には、必ず「レンジャー」と答えなければならない。
時には教官による、不公平で理不尽極まりない仕打ちが待ち受けていることもある。だが、戦場は公平でもなければ、理屈の通用する場でもない。一般社会のルールが通用しない異常な世界なのである。
そんな異常世界における極限状況をも乗り超える不屈の闘志を備えているかどうか。真の兵士に不可欠な素質の有無を見極めるために課す試練である。
並外れた体力を自負する自衛官のみが挑戦していながらも、脱落するレンジャー学生が続出する、まさに地獄という他ない訓練なのだ。
続くレンジャー課程の後半では山地に入り、より実戦的な内容で行われる「行動訓練」へと移る。
射撃、爆破、斥候、徒手格闘、そしてナイフを使用した隠密処理、つまり音の出ない武器を使用した暗殺の訓練まで含まれている。
ヘリコプターや舟艇による潜入及び脱出、森林戦、山岳戦、夜戦。捕虜の尋問に耐えるための訓練等々、いずれも高度な技術と折れない精神力、並外れた体力が必要とされる。
サバイバル訓練では食料を持たずに山地に放り出され、生きたヘビや自生している山菜を食料としながら、数日間を生き延びなければならない。
妹尾はこの訓練で、極度の疲労と空腹、喉の渇き、強烈な睡魔からくる幻覚を体験した。
それは、ナイトビジョン(暗視ゴーグル)を使用しなければほとんど何も見えない、真っ暗闇の夜の山中で監視任務に就いている時だった。
ナイトビジョンが作り出す緑色の視界の中に、ふと気がつけば、あるはずのない町明かりが見えたのだ。
思わずナイトビジョンを外した妹尾は、茫然と前方を眺め続けた。町明かりはなおも美しく瞬き、妹尾を誘っているかのようだった。
そんな光景を前に妹尾は、自分はなぜこんな馬鹿げたことをやっているのだろう。さっさと辞めてあの町に行こう。そこで美味しい食事にありつくのだ、と考え始めた。
同じ姿勢を長時間続けていたため、体はガチガチに強張っており、あらゆる関節が痛い。苦悶のうめき声を上げながら、妹尾はゆっくりと立ち上がって歩き出した。数メートル先は切り立った崖になっていることを完全に忘れているようだ。
レンジャー学生たちは、即座に妹尾の異常を察知して慌てた。
仲間の一人、工藤が背後から飛び掛かると、妹尾を地面に倒して無理やり制止させた。工藤は、平手で妹尾の頬を思い切り張って正気を取り戻させた。
もしこの時、工藤がいなければ、自分は確実に訓練を脱落していただろう。それどころか崖から転落して死んでいたかもしれない。妹尾は今でもそう思っている。