鳴海が妹尾を責めることは決してなかった。だが、諦めの境地から発せられる鳴海の「この先一生、松葉杖の世話になるかもしれない」「もう二度と走ることはできない」といった言葉の一つ一つが、妹尾には心臓に突き刺さる剣のように感じられた。
妹尾は病室を出る時に、手伝えることがあったら何でもいってくれと言った。
「おう、貸しにしとくよ」
笑いながら答える鳴海だったが、その目からは絶望が伺えた。
退院と同時に鳴海は大学を辞めた。妹尾には一言も告げずに姿を消したのだった。
後を追うように妹尾も退学した。あの事故以来、罪悪感に苛まれ柔道の稽古に以前ほど身が入らなくなってしまったのは事実だった。だが妹尾の退学理由はそれだけではなかった。常に苦境に立ち向かい、それを克服することを喜びとする気性を備えた妹尾が、鳴海との件でいつまでもくすぶっているはずもなかった。
鳴海が助けを必要とする時はいつでも駆け付けよう。そして鳴海の期待に応えられるよう、いつかその日が来るまで自分自身をさらに磨き続けよう。まだまだ俺は弱過ぎる。大学でぬるま湯に浸かってる時間はない。
妹尾は大学を退学すると直ぐに自衛隊に入隊した。目指すは精強でその名を馳せる習志野駐屯地の第1空挺団である。

屋上遊園地のベンチで、物思いに耽る妹尾がふと視線を扉に向けると、鳴海がゆっくり歩いて来る姿が目に入った。右足を軽く引きずるように、びっこを引きながら歩く鳴海が傘を差してないのを見て、雨が上がっているのを知った。
妹尾は傘を畳みながら、鳴海に気付いた印に軽く頷いてみせた。たっぷり時間をかけて妹尾の座るベンチまでやって来ると、鳴海は挨拶もなしに笑いながら言った。
「沖縄旅行は楽しんだか?」
「ってことは、やっぱりお前さんが俺を?」
「ああ、俺が沖縄の方に紹介しといた。妹尾っていう凄腕がいるから使ったらって」
妹尾が前回、花山一家から仕事の依頼を受けたのは二年も前だから、鳴海とはそれ以来の再会となる。だが二人の間に、時間が作る距離感はほとんどなかった。軽口のような挨拶も毎度のことである。
さしたる無駄話もせずに早速本題に入るのも、仕事上のパートナーとしての二人の変わらない流儀だった。今回の標的となる、元海兵隊員で一時、唐島興行の用心棒をしていたアメリカ人ケン・オルブライトが、花山一家の縄張りで実際何をして、その後どうなったのかを詳しく聞いた。
それは一週間程前の夜の出来事だった。

一週間程前の夜―
それは唐島興行のヘロインを持ち逃げしたケン・オルブライトが、東京に来て五日目の夜だった。
上京初日はそれらしい場所、数か所に目星を付けるだけで終わった。「それらしい場所」と言うのは、つまり手元のヘロインを現金で買ってくれる相手のいそうな場所のことである。
まとまった額の現金が欲しかったケンにとって、数ミリグラム単位で買う一般人は取引相手にはならなかった。五百グラム分のヘロインを一発で買い取ってくれそうな相手となればそれはもう、そうした違法なブツの売買を生業とする反社会的組織、暴力団=ヤクザしかなかった。
ヤクザと接触できそうな場所はないか?
唐島興行にいた、わずか一ヵ月にも満たない期間で身につけた直感を頼りに、ケンは可能性のありそうなクラブやバーに目星をつけて回った。
二日目と三日目には、実際に客としてそうした店を訪れてみた。ドラッグを欲しがっている客の振りをしたケンは、それとなく店の女の子やバーテンなどに声をかけ、手応えを確かめる。上手くいけば売人との接触に成功するだろう。そこで初めて、実は買いたいのではなく手元のヘロインを売りたいのだ、と売人相手に交渉する算段だ。