柔道だけでなく学業でも良い成績を出す文武両道の実践は、妹尾が、自分自身を磨き高めるという人生の指針を、すでに高校生の時点で確立していたことを物語っている。

妹尾の挑戦はますます加速していった。柔道での推薦入学が可能で、柔道部顧問からのお墨付きも貰っていた大学がいくつかあったが、その全てを蹴って七帝柔道を学ぶため名古屋の国立大学に入学したのだ。
柔道家、嘉納治五郎が創始し、スポーツ化の道を進むことでオリンピック競技種目になった講道館の柔道は、世界に多くの競技人口を持つメジャースポーツである。柔道と言えば講道館のそれを指す現在にあって、講道館とは異なる技術体系を有するのが、妹尾が目指した七帝柔道だった。
柔道は立ち技と寝技を同等に習得して初めて完成されるものとする。
そんな理念を持つ七帝柔道の源流は、寝技に特化し、スポーツライクな優勢勝ちの存在しない高専柔道にある。その技術はロシアに渡ってサンボとなり、ブラジルに渡ってブラジリアン柔術が生まれたとも言われている。高専柔道は現在では七帝柔道として東大、京大を始めとする旧帝国大学に伝承されている。
高校最終学年の段階で、妹尾の心はすでにそんな七帝柔道へと向かっていた。顧問にも柔道部員の仲間たちにも内緒だったが、自分の強さを立証するためには七帝柔道しかないと考えていた。
大学へ入学すると同時に、妹尾は柔道部の門を叩いた。伝説の寝技師を数多く輩出する名門には全国から強さを求道する若者が集まっていた。新入生とは言え腕に覚えのある猛者ばかりである。
そんな中の一人に鳴海もいた。後に指定暴力団の下部組織、花山一家の若頭となる鳴海と妹尾との出会いである。
鳴海は、スポーツエリートとしての道を歩んできた妹尾とは対照的に、大学入学まで柔道経験は、体育の授業で週に一回やる以外になかった。学業が優秀でなければ国立大学に入学できるはずもないことを考えれば、鳴海も頭が良く成績優秀だったのだろうが、基本的にはスポーツや勉学に励むタイプではない。とにかく有り余るエネルギーをぶつける何かを欲して柔道部を選んだのだ。
歩んできた道は対照的な二人だったが、何かと気が合い、部活以外でも一緒に行動することがあった。時に酒を酌み交わし、将来の夢を語りあったりもする仲になっていった。
そんな二人の関係に大きな転機が訪れたのは大学二年の夏だった。それは柔道部の合宿中に起こった。
妹尾と鳴海は乱取り稽古で手合わせをした。互いが密かにライバル心を燃やす二人は全力でぶつかり合った。寝技に引き込んだ妹尾とそれを返そうとする鳴海。一連の動きの中で、妹尾が足緘(あしがらみ)の態勢に入った。
柔道では肘以外の関節技は禁じられており、それは七帝柔道も同じである。であるにも関わらず、妹尾は鳴海の膝を捻り上げてしまった。もちろん故意ではなかったが、真剣に稽古に取り組むがゆえに、つい歯止めが利かなくなってしまった。
鳴海の膝関節が破壊された瞬間に、妹尾の体に伝わったその感触は生涯忘れられないものとなった。それと同時に、ほとんど声にならない悲鳴が鳴海の喉から絞り出された。
一瞬にして我に返り慌てて技を解いた妹尾だが、すでに取り返しのつかない事故が起きてしまったことは誰の目にも明らかだった。
稽古を止めて二人の周りに殺到する柔道部員たち。状況を茫然と眺めることしかできない妹尾は、背骨が氷の柱にでもなったかのような感触にぞっと鳥肌を立てていた。その耳には、大声で救急車を呼ぶよう指示を出す主将の声さえも届いていなかった。
後日、妹尾は入院中の鳴海を見舞った。右足をギプスで固定されてベッドに横たわる鳴海をまともに見ることができなかった。この若者の前途に広がっていた無限の可能性を、一瞬で破壊してしまったのだ。そう思うとかける言葉もなかった。