傍から見たらナンセンスなのは百も承知だが、これは、かつて最精鋭の兵士だった自分の誇りかもしれない。落ちぶれたとは言え、俺は元海兵隊フォース・リーコンの隊員なのだから。
明日の朝、俺はみすみす殺されに行こうとしているのかも知れない。
理性はとっくに答えを出している。
妹尾の目的が何であれ、このまま消えるのが一番だ。
だが、しかし・・・。
ケンの思考を遮るように、昼休みの終了を告げるチャイムが鳴った。食堂にはもう誰も残っていなかった。調理担当のおやじさんがケンに声をかけてきた。
「そこの外人の兄ちゃん、早く戻らんと班長に叱られるぞ」

夕暮れ時になると気温はさらに下がった。白い息を吐きながら、冬物のたんすから出したばかりのダウンジャケットを着こんでニット帽を目深に被った舞子は、愛車のマウンテンバイクで海沿いの道をゆっくりと走った。
この寒さの中、それでも風がないのがまだ救いだった。だが、例え海風に吹かれても、この時の舞子はそれほど気にしなかったかもしれない。頭の中は、昼に見た妹尾のニュースのことでいっぱいで、寒さに気を取られている余裕はなかった。
あの後、舞子と悦子は色々と話し合った。まるで秘密の話をするかのように声を落としてひそひそと会話をし、店のドアが開く度にびっくりして飛び上がりそうになった。
もし妹尾が「ゲルニカの木」に現れたら、どう対応すべきか。
その前に、今すぐ警察に連絡すべきなのか。
そして、妹尾と打ち解けて二人で釣りに出かけ、奇妙なほど真剣な鬼ごっこに興じていたケンには、このことをどう伝えたらいいのか。
結局、警察に通報するのはやめにした。その理由は舞子にも悦子にも分からなかったが、なんとなく罪悪感があった。殺人犯かも知れない男を警察に突き出すのに罪悪感とはおかしな話だが、妹尾が三人もの人間を殺した凶悪犯とはどうしても思えなかった。
だから、もし「ゲルニカの木」に現れたとしても、何も知らない風を装ってこれまで通りに迎えようとも決めた。果たして役者でもないのに、そんな器用なまねが自分にできるのかどうかと舞子は不安で、少し怖くもあった。
ケンにも何も言わないでおこう。そもそも妹尾は、もう天ヶ浜にはいないかもしれないのだから。だとしたら、わざわざ波風を立てる必要はどこにもない。ケンの中では、妹尾は、雨の中で一緒に釣りをして、祭りの夜に鬼ごっこで遊んだフリーランスのカメラマンということでいいと思う。
造船所に着いてからも、舞子は延々とそんなことを考え続けていた。だからケンが現れないことに気づいたのは、帰宅する労働者たちも徐々にまばらになった頃だった。いつもなら「舞~、寒いね」などと陽気に言いながら、とっくに出てきているはずだ。
「ケンさん遅いなぁ・・・いいかげん寒いんですけど」
舞子はひたすら待ち続けた。だが、いつまで経ってもケンの姿は見えなかった。
舞子は直感した。
もうケンと会うことはないだろう。多分、二度と。
唐突に訪れた別れは残酷だが、否定しようのない確信が舞子にはあった。
全ての労働者が帰って、入り口の鉄製フェンスが耳障りな音を立てながら閉められた。フェンスを閉めた最後の一人が何事か声を掛けてきたが、舞子の耳には届かなかった。
無人となった造船所の入り口で、舞子は街灯の下にただ一人取り残された。