翌日。水曜日の夕方。時刻を見計らって「ゲルニカの木」の近くまできた妹尾は、この店の娘が、マウンテンバイクに乗ってケン・オルブライトを迎えに出かけるのをこっそりと見届けてから店に入った。
コーヒーのいい香りが妹尾を出迎えた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの向こうに立つ声の主が、先ほどマウンテンバイクで出かけて行った女の母親であることはすぐに分かった。その美しい顔立ちはしっかりと娘に受け継がれている。
「こんにちは」
「どうぞ、お好きな席に」
不自然さを感じさせずにターゲットの内側に潜り込む、すなわちケン・オルブライトと知り合いになるために、先ずはこの女性に接近しておこう。
「カウンター、いいですか?」
「ええ、もちろん」
オーク材の一枚板でできた立派なカウンターに腰を落ち着けた妹尾は、積極的にこの女性と会話して、打ち解けた雰囲気に持っていきたかった。
「おすすめのコーヒーはどれですかね」
「豆のお好みってあります?」
「いえ、特にはないんですが」
「だったらブレンドを試してみて下さい。うちのブレンドは二つあるんですけど」
長年に渡って「ゲルニカの木」のブレンドコーヒーは一種類のみだったが、悦子が見直しを図り、去年から二種類を提供するようになっていた。
それぞれ「木霊 KODAMA」「雫 SHIZUKU」と名付けられたブレンドは、「木霊 KODAMA」が、口の中で繰り返し反響しながら消えてゆく様子を、「雫 SHIZUKU」が、舌の上で転がすと静かにしみ込んでゆく様子をイメージして、使用するコーヒー豆の種類と配分、焙煎の度合いが決められている。
「初めての方にはちょっと甘みの感じられる『木霊 KODAMA』の方をおすすめしてます」
甘味?コーヒーに甘味があるのか。妹尾は内心驚いた。
「あと、今うちサイフォンは使ってないんです。ペーパードリップになりますけど」
「あ、ええ、はい」
何のことだかさっぱり分からなかったので、適当に相槌を打った。
しばらくして出てきたブレンドコーヒー「木霊 KODAMA」から、妹尾の舌が甘味なるものを感じ取ることはなかった。だが会話のきっかけにはなる。
「ほんとだ、おっしゃる通りこのコーヒー甘みがありますね・・・美味しいです」
「よかった。ありがとうございます」
コーヒーをとっかかりに始まった会話から、カウンターの向こうに立つ井口悦子という名のこの女性がステンドグラス作家であり、この店の主だということが分った。
「奉納祭の取材?お祭りが始まるのは今度の土曜ですけど・・・」
「ええ、フリーなもんで、時間に余裕あるんです。せっかくなんで祭りだけでなく、この辺りも撮って回りたいなと思いまして」
「へぇ、プロのカメラマンに撮られたら、天ヶ浜もちょっとは有名になるかしら。雑誌ですか?それとも新聞?」
「東京のタウン誌なんです。だからあいにく大した影響力はないのですが・・・」
適当な嘘で話を引き延ばしながら、妹尾はそろそろ二人が帰ってくる頃だろうと考えていた。一昨日の朝、海沿いの道で自分を追い越していったことを果たしてケン・オルブライトは覚えているだろうか。覚えていたとして、この場に自分がいることを不自然に思うだろうか。単なる偶然と気にも留めないだろうか。