砂漠にそびえ立つキノコ雲の破壊力。
人々がくつろぐ平和な浜辺。そのすぐ向こうに威容を誇る巨大コンビナートの威圧感。
ダイナマイトで倒壊するビル群の映像は壮観だが、同時に文明の脆さを象徴するようでもある。
一体どうやって撮影したのだろうか、夜の高層ビルの隣を、あり得ない程巨大なサイズの月がゆっくり弧を描きながら上昇してゆく。
入り組んだハイウェイを流れる車のテールランプが光のダンスを披露する。
途切れることなくエスカレーターで運ばれる人々の姿は、ベルトコンベアに乗せられた工業部品にも見え、オートメーション工場でマシーンを操る人間自身もまたマシーンの一部でしかなく、はるか上空から映し出された大都市はコンピューターのチップと瓜二つだった。
映画全編を通じてナレーションや台詞は一切なく、電子オルガンらしい音楽が流れる中、こうした映像の洪水が、どれひとつとして現実のスピードで描かれることはない。全て極端なスローモーションだったり、逆に早回しで映し出されることで、人の目が捉えることのできない瞬間を連綿と描き出している。
具体的なストーリーがあるわけではない。一種のドキュメンタリー映画だが、果たしてこれをドキュメンタリーと呼んでいいものか。むしろ映像を使った詩のような印象である。
終始圧倒されまくり、映画を観ているということさえ忘れそうになった。そしてそんな妹尾を完璧に打ちのめしたのが映画のラストシークェンスだった。
電子オルガンが荘厳で美しく、そしてあまりにも物悲しい旋律を繰り返す中、映画はマーキュリー計画におけるロケット打ち上げの瞬間を映し出す。長い旅を終えて、映画はオープニングに帰ってきたらしい。
ゆっくりと上昇してゆくロケット。
燃料タンクの表面から、氷の破片がぱらぱらと落ちてゆく。
垂直上昇から徐々に軌道が変わろうとする瞬間、ロケットは空中で大爆発を起こし、炎の竜と化してなおも推進してゆく。
やがて火と煙で描かれた放物線は、ゆっくりと降下をはじめる。
ロケット先端のカプセル部分が、煙を出しながら空中を果てしなく落下してゆく。
目に見えない強大な力に翻弄されるように、くるくると回転しながら墜落してゆくカプセルをフォローし続けるカメラ。望遠レンズで捉えられているため、それは猛スピードで落ちているという事実に反し、空中で静止しているような錯覚を抱かせる。
一体どこまで落ちてゆくのか。
まるで底なしの深海に、ゆっくりと沈んで行くようにも見えるカプセルが妹尾に想起させたのは、天国から追放され、地獄の底に焼け落ちてゆく悲しい天使の死骸のイメージ。
バックに流れる切なく美しいメロディに、超重低音で唸るように何ごとかをつぶやく男の声が被さってきた。それはまるで巨人の祈りのようにも聞こえた。地を這うように妹尾の腹まで響くその声は、よく聞けば映画のタイトルであるコヤニスカッティという言葉を、ゆっくりと繰り返しているようだ。
科学の粋を集めたロケットが爆発する様は、人類が築いた文明の崩壊を見るようだった。
黙示録的終末感に満ちたその映像を見つめる妹尾の目が、不意に霞んだ。驚くべきことに、理由は不明ながら涙で目が潤んでいるらしい。
何かが終わる予感がした。それが何かは、この時はまだ分からなかった。
映画はエンディングを迎えるにあたって再び『KOYAANISQATSI』と、その不思議なタイトルを黒字に赤で描き出すが、今度はその下に言葉の意味も記されている。それによるとコヤニスカッティとはアメリカのインディアン、ホピ族の言葉で、それが意味するところは、狂った生活、混乱した人生、バランスを失った世界、生活の崩壊、異なる生き方を脅かす生き方、といったものらしい。