妹尾はすっかり自分の居場所を見失ってしまった。夜の盛り場の喧騒が恋しくなるくらい、辺りはひっそりと静まり返っており、石畳を打つ自分の足音がやけに大きく響く。万一、質の悪チンピラや暴漢が襲ってきたとして、ほろ酔い気分の自分は果たして対応できるだろうか。そんな不安混じりの緊張感のおかげで、酔いも醒めてきた。
街灯も少ない暗闇の路地を、どのくらいの時間彷徨っていただろうか。前方に人工的な明かりが点滅しているのが見えてきた。
安堵感が湧き上がるのを感じながら、小走りにその明かりに駆け寄ると、そこは古くて小さな映画館だった。やや奥まった入り口を挟んで立つ石柱が、ヨーロッパらしい重厚な雰囲気を湛えている。
どうやらオールナイトで営業中らしいが、こんな場末の映画館に観客など来るのだろうかと不思議に思った。貼り出されている上映作のポスターに目をやると、どこの言葉だろうか『KOYAANISQATSI』(コヤニスカッティ)というタイトルが赤字で書かれており、その下には宇宙から見た地球らしき雲で覆われた球体があるだけだった。
一体何の映画だろうか?内容が一切想像できないポスターに、妹尾は興味をそそられた。タイムテーブルをみると、ちょうど十分後に映画が始まるらしい。
「タイミングもいいし・・・こんな時間帯に土地勘のない場所をうろつく位なら、映画でも見て朝まで時間をつぶすか」
妹尾は決心すると、映画館の重たいドアを開けた。入った直ぐ左手にチケットボックスがあったが、中は暗くて見えなかったので、係員がいるかどうかも怪しかった。辺りをきょろきょろ見回すが他に人もいないようだ。
試しに妹尾は、チケットボックスの暗がりに向かって「大人一枚」と言ってみた。すると「9フラン」と囁くような女性の声が返ってきた。妹尾にお釣を渡すその手は、皺とシミでいっぱいだった。
こんな深夜に、お婆さんが一人でやっているのか。防犯上危なくないのだろうか。そんなことを考えながらロビーを見渡してみたが、やはり客の姿はなかった。緋色の絨毯が照明に照らされてやけに眩しかった。
場内への扉は開かれているので、前の回はすでに上映を終えているようだ。妹尾は、幾重にも重なった重たいカーテンをくぐって場内に入った。やはり観客はひとりもいなかった。こんな時間帯にこんな場所で映画などみるもの好きなどいないのだ。
落ち着かない気分だったが、どうせなら貸し切り状態の映画館を満喫しようと、ど真ん中の座席に陣取った妹尾は、あらためて場内を見渡した。
座席数はせいぜい三百席といったところか。小規模ながら桟敷席まであり、映画館の格調を高めるのに一役かっている。場内の広さを考えると天井はやけに高く、ほとんど薄れて消えかかっているが、天使が舞う宗教画が描かれているのが分かった。前方のスクリーンは、今はまだ重々しい垂れ幕で覆われたままだった。それを縁取るアーチもまた、天使や宗教的モチーフのレリーフが施された立派なものだった。空間に漂うような小さな音量で辛うじて聞こえてくる音楽は、グレゴリア聖歌の『怒りの日』だ。
やがて明かりが落ちて垂れ幕がゆっくりと上がり、映画が始まった。

重低音で地の底から響いてくるような荘厳な音楽とともに、例の読めないタイトルが黒地に赤で浮かび上がった。その瞬間、妹尾は得体の知れない感動に包まれ全身が泡立った。
スクリーンに映し出される巨大な火の玉と、落下してくる細かい破片の数々。ロケットかミサイルか・・・何かが発射される瞬間を超スローモーションで映しているらしい。映画が始まって三分も経っていないが、この時点で、映画などめったに見ない妹尾でさえ、今観ているのが類のない異色作であることに気付いた。
広大なモニュメントバレーを空撮で捉えた太古から変わらぬ景色や、荒れ狂う大海原のようにハイスピードで流れてゆく雲海の眺めは、この地球上にあって人の手の及ばぬ事象の圧倒的な力強さ、神々しさを感じさせた。
やがて荒野に立つ無数の鉄塔が見えてきた。映画は、手つかずの大自然から、人類の手によって築き上げられた文明社会へと進む。