親しくなって一緒に過ごす時間が増えても彼との関係に大きな変化はなかった。 色々と話した中でも、ちょうど去年の冬休みに差しかかる前に彼と会話した記憶はしっかりある。

 だってあれが最後だったから。

 その日の放課後も私は教室で彼と期末試験の対策をしようと約束していた。彼と教室で勉強する前に、化学の授業でわからない箇所を質問するため私は先に職員室に向かう。

 すると思ったよりも先生の説明は丁寧で長く、私は彼をひとりで長い間教室で待たせてしまった。

 足音を立てずに素早く教室を目指し、謝罪の言葉と同時に中に入ろうとする。

『安曇くん、好きです。付き合って』

 ところが聞こえてきた言葉に、ドアを開けようとした私の手が思わず止まる。瞬時に存在も息も必死で押し殺して、その場で固まった。

『ありがとう。でもごめん。付き合えない』

 あまり間を空けずに凛とした彼の声も聞こえてきた。

『なんで? ほかに好きな人がいるの?』

 切羽詰まった女子の声。彼女の質問に私もわずかながらに緊張する。そして偶然とはいえ、私が聞いてはいけない気がした。

 でも足が床にくっついて動けない。

『……どうだろう。でも俺はここにずっといない存在だから』

『アメリカに帰るってこと?』

 彼はなにも答えない。ややあってしびれを切らしたのか誰かがドアの方へ、こちらへ近づいてくるのがわかった。

 私は慌ててすぐそばの消火栓の影に身をひそめる。出て行ったのはもちろん女子の方で、うしろ姿しか確認できなかったけれど、おそらく隣クラスの渡辺(わやなべ)さんだ。

 美人で大人っぽいと評判で、さらさらとストレートの髪が揺れている。

 家が大きな病院をしていて、お父さんが全国的にもかなり有名な凄腕のお医者さんだ。彼女も同じく医師を目指していて、勉強の他にもバイオリンとバレエを習い、その腕前も数々のコンクールで入賞するほどだ。

 高嶺の花扱いなのも無理はない。

 実らなかったとはいえ、彼女の告白には迷いもなく堂々としていて、自分に自信があるのが伝わってきた。ここでこそこそと隠れている私とは大違いだ。

 比べるのもおこがましくなり、私は大きく息を吐いてうつむいた。

『遅かったね』

 完全に油断していたところに声がかけられ、私の心臓は飛び上がる。反射的に顔を上げれば彼がひょいとこちらを覗き込んでいた。心なしか距離が近い。

『モル計算について聞けた?』

 なんでもないかのように問いかけられ、私は平静を装って答える。

『うん。分子量の単位が曖昧でこんがらかってたんだけど解説してもらえてなんとか理解できたよ』

 彼は安堵めいた笑みを浮かべると再び部屋に戻ろうとする。自然と後を追った。

 教室には誰もいない。さっきまで彼と渡辺さんがここにふたりでいたのだと思うと、なぜか胸が痛んだ。

『安曇くん』

 私は彼を呼び止める。すると不思議そうな面持ちで安曇穂高が振り向いた。

 告白されたばかりだというのに、彼は動揺というものを微塵も見せない。モテるのは知っているし、きっと彼にとってはあんなこと日常茶飯事なんだ。

 今さらながら彼との間に大きな壁を感じる。透明だけれど分厚くて、絶対に越えることはできない。私はおずおずと切り出した、

『今さらだけど、やっぱり私よりも先生に聞いた方がいいんじゃないかな? これからもっと難しくなるし、私の解説はあくまでも自己流で、正確さで言えば……』

 小さな子どもみたいに拗ねた感情だった。おとなげなくて、でも苦しくて。気づけば口にしていた。声にすると今度は痛みさえ伴う。

『うん、でも俺は紺野さんがいいんだ』

 それを彼の言葉が一瞬にして吹き飛ばした。心の靄(もや)がぱっと晴れて、アップダウンの激しい自分の感情についていけない。

 どうして?と聞き返そうとして、やっぱりやめた。だって聞いてもしょうがない。

『でも俺はここにずっといない存在だから』

 さっきの彼の発言。あれはまぎれもない事実だ。彼の居場所はここじゃない。今だけのかりそめのものだ。

『安曇くん、ストレートすぎる言葉はときに誤解を招くよ』

 軽くため息をついて、わざとらしく忠告してみる。私はさっさと席に着いた。彼も椅子を鳴らして腰掛ける。

『そうかな? 俺は自分の気持ちに正直なだけだよ』

 問題集を開きながら彼は告げる。私はもうどう反応していいのかわからなかった。彼は今まで私が接してきた誰とも違っていて、私の知らなかった感情をたくさん呼び起させる。

 ふいっと目を逸らして私はわざとらしく席に着いた。それに倣って彼もいつも通り前の席に座り、うしろを向く。

『今日の課題どう解く?』

 パラパラと教科書をめくる彼に、私は現国の授業内容を思い出してつい眉をひそめた。そして慌ててすぐに戻す。あまり不細工な顔を彼に見せたくない。

 気を取り直して、先生から配られたレポート用紙を鞄から取り出した。

『難しかったよね。どういう切り口でまとめようか』

 宙を仰ぎ見てため息混じりに呟く。授業で取り組んだ論説文のテーマは『命の平等さ』

 緊急時に自分の命を助けるために他者を犠牲にした場合、罪に問われるのか?というカルネアデスの板の話題から始まり、様々な角度から命の重さについて話は進んでいく。

 そして最終的に筆者の問いかけで文章は締めくくられる。

『各々の命の重さが同じなのだとしたら、ひとりの命で多くの人間の命が救われる事態になった場合、それは是か非か』

 私はわざとらしく息を吐いた。

『アメリカ映画によくありそうな展開だね』

 映画にはあまり詳しくないからあくまでもイメージなんだけれど。投げやりな私に対し、彼はふふっと笑った。
 この命題に対し冬休み明けまでに自分の立場を明確にさせ、考えをまとめたものを提出しなくてはならない。

 いつもこういった問題は書きやすい方の視点に立ってから文章を組み立てるのに、今回はそれ以前の問題だ。

『安曇くんはどう思う?』

『俺は、ありかな』

『そうなの!?』

 あまりにも迷いのない彼の回答に私はつい反射的に声をあげた。まじまじと見つめる私に彼はおもむろに目線を落とした。

『どうせ限られた命なら、誰かの、なにかのために役立てたいって俺は思うんだ』

 どうしてか、彼の言い分がものすごく寂しく感じた。訳がわからないまま勝手に衝撃を受けている自分がいる。

 だから、私はとっさに「違う!」と否定しなければという気になった。けれど喉まで出かかった声は音にならず自分の中に再びぐっと飲み込む羽目になる。

 否定したところで私は自分の答えをはっきりと見つけられていないから。

 私はどう思うの? 誰かの命で大勢の命が救われるなら。もしも自分の命で――。

『安曇くんは……』

『穂高』

 はっきりとした口調で彼は言い聞かせるように自分の名を口にした。目をぱちくりとさせる私に彼は頭を掻いて補足する。

『今さらだけど名前でいいよ。アメリカではそれが普通だったし』

『いや、でも』

 まさかの提案に私はうろたえた。そんなことをしたら彼に気のある女子たちになにを言われるか。彼の告白現場を目の当たりにしているから余計にそう思う。

 とはいえ、今まで現場に居合わせる機会がなかっただけで、風の噂で彼に想いを告げた女子が何人もいるのを私は知っている。

 その結果がすべて実らなかったことも。

 私が彼と張り合うだけの成績だからこうして一緒にいるのを許されているのであって、いいように思っていない人間が多いのも事実だ。

『なら、俺もほのかって呼ぶから』

 なのに彼はそんな私の事情などおかまいなし。勝手に話を進めていった。

『なんだか俺たちの名前って似てるな』

 “ほだか”と“ほのか”。たしかに一文字違いだ。彼はすごい発見をしたとでもいうように顔を輝かせている。続けて真面目な表情に切り替わった。

『運命かも』

『なんの?』

『それは、これから考える』

 彼の回答に私はやっぱり笑ってしまう。クリスマス前に冬休みがやってくる。夏休みや春休みに比べると短いけれど、彼に会えなくなるのは少しだけ寂しかった。

 とはいえプライベートで会おう、と誘える気軽さは私にはなかったし、彼だってそのつもりもないと思う。

 そもそも彼が学校をよく休む理由さえ話してもらったこともないし、私も自分から聞いたりしなかった。踏み込んでいいのか迷って、自分と彼との関係に戸惑う。

 内心では異性なのもあって、彼をはっきりと友達と呼んでいいのかも確信が持てずにいた。それは私が今までこんなふうに男子と特別親しくなる経験がないからなのもある。

 名前で呼び合おうと彼から言ってもらえて本当は嬉しかった。

 年が明けて三学期になったら、みんなの前では無理でも彼とふたりのときには思い切って名前で呼んでみようかな。

 本人には告げず、心の中でひっそりと決意する。

 けれど結局、彼を名前で呼ぶ機会は訪れなかった。それどころか会うことさえ。

 年の瀬に飛び込んできた月が一年以内に地球に落ちてくるというニュース。世界の秩序は崩れ、学校どころではなくなった。

 学校に通う生徒は激減し、家庭の事情でと退職する先生も何人もいた。混乱の中、三学期が始まったので一応、学校に顔を出したものの安曇穂高の姿はなかった。

 当然だと思う。みんな、残された時間をどう過ごすのか嫌でも選択を迫られていた。私も結局、学校には行かなくなった。

 あれから半年以上も地球がもったのが奇跡だ。だから、なのかもしれない。今だからこそ彼に会いに行けるのかも。