バイバイまたね、クドリャフカ

 目を覚ますと、部屋の中はほんのり自然光の明るさで照らされていた。まだ太陽が昇る前独特の色だ。

 そこで意識が覚醒し、がばりと身を起こす。ここは自宅ではなく樫野さんの家で、どうやら私はあのまま眠ってしまったらしい。

 状況を把握したところではたと気づく。肝心の穂高の姿がどこにもない。

 急速に心がざわめきだし、私は部屋のあちこちに視線を飛ばしてからドアを開けた。廊下にも彼の姿はない。なんとなくこの家に穂高はいない気がした。

 昨日ずっとすぐそばにあった彼の気配が今はない。

 私は慌てて隣の部屋に戻り着替えると、樫野さんや理恵さんを起こさないように家の外に出た。まだ時刻は午前六時にもなっていない。

 久しぶりの朝焼けに目が眩(くら)みそうになる。東の空は赤と青が入り混じり、爽やかすぎる透き通った色合いが逆に不安を煽った。

 弾かれたように私は走り出す。

 ただでさえ人が少ないのに、この時間はほかの誰の存在も感じない。まるで世界に私ひとりだけ取り残されたような感覚だ。

 差し迫るような胸騒ぎを消したくて、私は全力で駆ける。谷口商店の方にも向かったけれど、やっぱり穂高はいない。

 どこ? もしかして……。

『アメリカに渡る準備も整っている』

 息が切れて苦しい。胸の奥が焼けるように熱くて痛い。この痛みの正体はなんなんだろう。

 穂高の意志はきっと変えられない。私は彼になにを言うつもりなの? お別れをちゃんとしたいの?

『誰かを気遣ってあれこれ悩むくらいなら、自分の思うように動けばいいんだよ。どうせ相手の気持ちを百パーセント理解するなんて無理だ。だから自分が、ほのかがしたいようにすればいいんだ』

 私は胸元をぎゅっと押さえて走った。大通りに出て月城市の方向を見つめる。

 とにかく会いたい。会わなくちゃ。今すぐ彼に――。

 足を一歩踏み出したところでかすかに風がそよいで頬を撫でる。誰かに呼ばれた気がして私はなにげなく振り向いた。

 そして、たった一瞬の出来事に私は大きく目を見開く。

 お母、さん? まなか?

 道路を挟んで斜め向こうの堤防を背に、母と妹は優しく微笑んでこちらを見ていた。私が部屋で見送ったあのときの服装で、見守るように穏やかな表情だ。

 けれど、あっという間にふたりの姿は視界から消える。夢幻そのもので、目を凝らしてみたけれど、そこには誰もいない。

 白昼夢ってこんな感じ? 私の記憶が都合のいい映像を見せただけなのかもしれない。でも導かれるように私は母と妹がいた場所に近づいた。

 そこでようやく波の音に気づく。たしか堤防から砂浜に下りる階段があったはずだ。

 まさか……。

 祈る気持ちで私は足を動かす。お願い、神様。そこですぐに思い直す。

 神様なんていない。何度もそう実感したくせにやはり土壇場で頼ってしまう自分がいた。馬鹿だな。

 だから私は祈る相手を替える。

 お願い、お母さん、まなか。どうか――。

 私は堤防を乗り越え、砂浜に顔を覗かせた。そして遠くに人の姿を確認する。

「穂高!」

 お腹の底から声をあげる。こんな大声を出したのはいつぶりだろう。私の声は届いたらしく、呼ばれた人物はこちらに視線を寄越した。

 驚いたのがここにいても伝わってくる。穂高は波打ち際に立って遠くを見つめていた。

 風で揺れる髪を押さえ、急いで階段を下りていく。手すりもないのに岩のごつごつした作りは不安定にもほどがある。さらに砂浜を踏めば、足元が安定せず思うように進めない。

 けれど私は彼の元へと迷わずに駆け寄った。

『各々の命の重さが同じなのだとしたら、一人の命で多くの人間の命が救われる事態になった場合、それは是か非か』

『安曇くんはどう思う?』

『俺は、ありかな』

『そうなの!?』

 穂高の複雑そうな表情をしっかりと捉えながら、彼がなにかを言う前に私は強く叫ぶ。

「クドリャフカにならないで!」

 膝に手をつき肩で息をする。止まった瞬間、汗が噴き出してきた。必死で呼吸を整えて私は言葉を続ける。

「なら、ないで。だって十分だから」

『どっちみち長く生きられないなら、なにかを成し遂げたい。自分の生きた意味を残したいんだ』

「クドリャフカにならなくても、もう十分だよ。穂高が成し遂げたものはたくさんある。生きている意味だって。私は穂高がいたから変われた。諦めていたものにまた手を伸ばすことができたの。それは穂高が生まれて、ここまで生きてくれていたかなんだよ!」

 もう終わるからってすべてを受け入れていたわけじゃない、諦めていただけの自分。けれど穂高が手を差し出してくれたから、こんな終わりそうな世界で私は歩き出せた。たくさんの人に出会えた。
『自分から生きるのを諦めるなんて、頂いてきた命に示しがつかねぇだろ』

 命の重みを改めて教えてくれた谷口さん。

『そしたら地球が助かるって証明できんだろ?』

 明るくて、でもしっかりと周りを見ている健二くん。

『確率だけ考えても意味ないのよ。未来は誰にもわからない』

 人の心配ばかりで世話焼きの樫野さん。

『ひとりじゃないからここまで生きてこられたんです』

 優しくてお母さんとしての強さもある理恵さん。

『みんな荷台にでも乗り込んで必死で生きようと逃げるんだろ』

 外見も怖くて言葉もストレートだけど根はいい人の宮脇さん。

 みんな抱えているものも事情も違う。でも世界の終わりといわれている世の中で、必死に生きようとしている。

「私、自分の価値がわからなくて、生きている意味が見つけられなくて、ずっと苦しかった。穂高も同じだったんだよね?」

 疑問ではなく確信をもって尋ねる。穂高の瞳がわずかに揺れた。けれど私はブレずにまっすぐ彼を見つめる。

「穂高の考えは立派かもしれない。自分の命を人類の、誰かのために使おうなんて。でもね、私は嫌なの」

 穂高は苦虫を噛み潰したような顔になる。嫌悪というより痛いところを突かれたといった表情だ。そして彼は躊躇いつつ苦しげに言葉を振り絞った。

「……ほのかだって誰かの命で大勢の人が、自分が助かるならイエスって言うかもしれないって言ってただろ」

 馬鹿だよ。口にした穂高自身が傷つくだけなのに、わざと私を責めてみて。そこまでしなくていいんだよ。

「違う」

 私はきっぱりと否定した。

「穂高だから嫌なの。どんなに大勢が救われるんだとしても、たとえ人類が助かるためでも私は穂高を失いたくない」

 大勢のために一人の命を犠牲にするのが是か非かなんて、正直わからない。はっきりとした自分の信念も持てない。

 でも気づいた。私には穂高が必要で、穂高じゃないと駄目なんだって。彼は誰にも代えられない存在なの。

 あまりにも身勝手な私の暴論に、穂高は反論する気さえなくなったらしい。固かった雰囲気がわずかに崩れる。

「すごい。ここにきてほのかがとんでもないわがままを推してきたね」

 論説問題の解答としては間違いなく不可だ。けれど、それでもいい。私は自分なりの答えを見つけた。

「うん。だって私、聖人君子じゃないから」

 いつかの台詞を彼に返す。そして私は口の端を持ち上げなんとか笑顔を作った。

「それに、穂高はまだ諦めてないでしょ?」

 言いきると珍しく穂高が動揺しているのが伝わってくる。そんな彼に私は再度、力強く告げた。

「本当は生きたいって思ってるんでしょ?」

 問いかけというよりは訴えかけだった。自分の考えに迷いはない。思い出したから。

『でも七パーセントの可能性で助かる』

『まだ終わるとは決まってないだろ』

 どんなに私が弱気になって、世界の終わりを考えてしまっても、穂高は絶対に諦めていなかった。気休めでも慰めでもない。強い信念で私をいつも励ましてくれた。

 その気持ちは自分自身に対してもきっと同じだ。

「ほのか、でも俺は……」

「地球は助かる」

 彼の発言を遮って、私は宣言した。声にしたことで耳に届き、言霊のように自分の中に落ちてくる。穂高は虚を衝かれた顔をしていた。

 私は彼に向かって一言一句、言い聞かせるかのごとくはっきりと伝える。

「七パーセントの確率で助かるの。そして穂高の手術も成功して、元気になる。穂高もそう思っているんでしょ?」

 ただ信じる力が弱くなるときだってある。私だってそうだった。その私が、今こんなにも強く可能性を信じられるのは穂高のおかげだ。

 だから、今度は私が彼の力になりたい。

「さっきから、ほのかにしては珍しいな。俺のことをそこまで言い切るんなんて」

 穂高は顔を歪めて笑う。口角は上がっているのに目は泣き出しそうに見えた。

「言い切るよ。だって、わかるの」

「なんで? ほのかにどうしてわかる?」

 父に会いに行く前に、彼と同じようなやり取りをしたのを思い出す。彼はあのときなんて答えた?

 私は言葉を詰まらせる。感情の昂りと共に瞳から涙が零れ落ちた。

「……好きだから」

 唇を震わせ必死に紡いだ言葉は。すぐに波音に掻き消される。彼に届いたのか、届かなかったのか。

 溢れる涙を指先で乱暴に拭って、彼の目をまっすぐに見つめた。

「穂高が好きだから。だからお願い……私と一緒に生きてよ」

 言葉尻を弱くし、最後は涙で声にならない。ちゃんと伝えたいのに。

「っ、大勢の、人のために、命を懸けるより……私と生きて。私……」

 涙を止めようと躍起になっていると、正面から抱きしめられた。

「ありがとう、ほのか」

 耳元で囁かれた声は、いつもの彼らしく穏やかで優しい。でも、その意味をどう受け取っていいのかわからない。

「ありがとう」

 彼の言葉は普段は固く閉じている私の涙腺をあっさりと緩ませてしまう魔法が込められている。もう涙を我慢するのをやめて、私は彼の胸に顔を押し付けて素直に泣いた。
「……そういえば、どうして俺が現国が苦手だって嘘ついたのかって話してなかったな」

 ふと彼が今思い出したと言わんばかりの口調でいきなり告げてきた。

 気になっていたことでもあったので私はぴくりと反応し、ゆるゆると顔を上げる。すると穂高はそっと私の頬に触れた。

「話してみたくなったんだ。俺の外見や生い立ちとかそんなの関係なく、話したことがないからわからないって素直に言ってくれたほのかと」

 穂高の言い回しに、女子たちの間で彼の話題があがったときの記憶が蘇った。

『じゃぁ、ほのかは安曇くんをどう思う?』

『わからない。話したこともないから』

 あのやりとりを穂高は言ってるのかな?  聞いていたの?

 まさかのきっかけに戸惑いが隠せない。穂高はおかしそうに私の頭を撫でながら聞いてきた。

「で、話してみてどうだった?」

「それは……」

 どういう感想を述べればいいのかわからない。さらに自分の彼に対する気持ちは、さっき勢い余って告白したばかりだった。

 顔が一瞬で熱くなり、誤魔化すように質問で返す。

「穂高こそ、そんな理由で私に話しかけて実際どうだったの?」

「ここまで態度で示しているのに伝わらない?」

 彼の切り返しに私は顔をしかめる。ずるい、私はちゃんと伝えたのに。

「なにそれ。態度じゃなくて言葉にして伝えてよ」

「伝えたら、決意が鈍る」

 わずかに穂高の声のトーンが落ち、私の心も揺れた。けれど、すぐに彼は調子を取り戻す。

「でも、やっぱり俺たちの出会いは運命だったんだと思う。実はアメリカに行く前に、ほのかに会いに行くかどうか迷ったんだ。ただ会ってどうするのかっていう気持ちもあって……。そうしたら、まさかほのかが自分から俺に会いに来てくれるなんて」

 そこで一呼吸の忍ばせ、穂高は笑った。

「すごいタイミングで笑ったよ。思わず運命を信じてみたくなったくらいに……嬉しかった、ありがとう」

 彼の笑顔に、潜めていた感情が暴走しそうになる。やっぱり彼の決意は変えられないのだと悟った。けれど、これ以上引き止める言葉も見つからない。

 自分の想いは十分に伝えた。もう泣くのも責めるのも嫌だ。

 ぶっきらぼうに私は返した。

「そんな運命の相手をおいて、アメリカに行くの?」

 さすがに宇宙に、とは言えなかった。けれど私のひねくれた問いに彼から素早く返事がある。

「そうだね。でも必ず帰って来る」

 さらっと紡がれた言葉に、私は目を丸くする。

「帰って来るから。そのときに今取っておいた言葉を必ずほのかに伝えるから」

 穂高は私から目を逸らさずに告げた。瞳の奥には彼の意志の強さが宿っている。

「だから待ってて」

 小さく頷き、私はわざとおどけたトーンで返した。

「早くしてね。地球が滅びるときひとりなんて嫌だよ」

「あれ? 地球は助かるんだろ?」

 思わぬ切り返しに言葉を失う。その間に、彼は私のおでこに自分の額を重ねた。

「約束する。ほのかをひとりになんてさせない。誓うよ」

 彼の茶色がかった目に映る自分の姿を見つける。いつのまにか太陽が姿を現していた。また今日が始まる。

 空は青に染まり、波の音が静かに私たちを包み込む。地球ができた頃からこの波はずっと寄せては返してを繰り返してきたのだろうか。

 泣きそうになる自分を引き締め、私は声を振り絞って彼にお願いした。

「じゃぁ、わかるようにちゃんとここで誓って」

 一瞬の間があり、意味を読み取った穂高の顔が切なそうに歪む。彼の骨ばった左手がおでこを滑り前髪を掻き上げると、そこにキスが落とされる。

 柔らかい唇の感触を受け彼を見上げると、今度は彼の手が頬に添えられた。骨ばった手は大きくて温かい。……安心する。

 そして、ゆっくりと彼の顔が近づいてきたので静かに目を閉じると唇が重ねられた。

 初めてなのに、もうずっと前から、まるでそれが当たり前だったかのようなキスだった。

「またね、ほのか」

 穏やかな笑顔と心を落ち着かせる声。しっかり目に焼き付けておきたいのに視界がぼやける。それでも私は笑った。

「うん。バイバイまたね」

 こうして穂高は私の前からいなくなった。
 私はひとり砂浜に立ち、穏やかな海を見つめる。気づけば九月も半ばだ。ここまで世界が続いていることに感謝している人はどれくらいいるんだろう。

 このまま小康状態が続いて地球は助かるんじゃないかと人々が希望を抱く頃、それをあざ笑うかのように月は地球との距離を以前よりも縮め、確実にカウントダウンは始まっていた。

「世界はどうなるんだろうね?」

 投げかけたひとり言は潮風にさらわれる。

 私は彼と別れたあの日からできるだけ毎日ここを訪れている。っていってもついでだ。父の職場も近いし、谷口さんや樫野さんのところにお邪魔したりとか。そっちがメインだ。

 父とは以前よりも顔を合わせて会話する機会がぐっと増えた。知らなかったお母さんとのエピソードや私が子どもの頃の話など意外と話題は尽きない。

 職場にもちょくちょく顔を出させてもらって、飯島さんは会えばいつも娘ちゃんの写真を見せてくれる。

 谷口さんは変わらないように見えて、前よりもずっと元気になったんだと健二くんがこそっと教えてくれた。

 宮脇さんは意外にも真面目に谷口さんの元で働き、県の中心部から必要物資や食料などを谷口商店まで運んできている。

 おかげで谷口商店は、今やここらへんでは欠かせない存在になった。訪れるお客さんの姿に、こんなにも人が残っていたんだと内心驚いた。

 買い物がてら店に行けば、そのまま店番や商品を並べる手伝いを頼まれたりして、すっかり身内扱いだ。そのとき理恵さんと一緒になることもしばしば。

 理恵さんの経過は順調らしく、つわりも一時に比べたらマシになったんだとか。ずっと寝たきりなのもなんなので、こうして体調のいいときは谷口商店で働いているらしい。

 性別がわかるのはまだ先らしいけれど、こっそり名前の候補なんかも聞いた。

 樫野さんは相変わらずで、専門は産科だけれど診られる範囲で体調の悪い人を診察している。パワフルさは健在だ。

 そしてつい先日、また谷口商店の前で前回同様のメンバーで焼肉を食べた。あのときの穂高の代わりにお父さんが参加して、最後の晩餐かもしれない、なんてみんなで笑い合った。

 世界の終わりでも、ご飯は食べるし、笑って冗談だって言える。

 けれど穂高だけがいなくて、私の心にはぽっかりと穴が開いたままだ。

「帰ってきて……くれるんでしょ?」

 不安になって漏らした声は震えていた。

 みんな、穂高を心配してたよ? あなたが思っている以上に、たくさんの人が気にかけているんだよ。

 海に向かって訴えかけてもしょうがない。どちらかといえば空にかな。先日も月に向けてのロケット打ち上げ計画が失敗したというニュースが流れていた。

 潮風は肌や髪をべたつかせる。冷たくなってきたのもあり、私は大きく息を吐いてここを立ち去ろうとした。

「ほのか」

 そのとき幻聴が聞こえた。すぐに足元に届きそうな波が現実に戻す。ところが再度彼の声で名前を呼ばれ、それははっきりと耳に届いた。

「ほのか!」

 辺りを見渡せば、いつか私が彼を追いかけてきたときのように堤防の階段を下りてこちらに向かってくる人物が目に入った。

 嘘――。

 信じられない気持ちで、瞬きひとつできず私は固まる。しばらくして近づいてくる存在が幻ではないと悟り、私は彼の元に駆け寄った。

 足がもつれそうになりながら、手を伸ばせばすぐに届きそうな距離まで詰め寄る。彼は穏やかに笑った。その笑顔は私の記憶の中のまんまで、変わっていない。

「ただいま、ほのか」

「遅い! 遅すぎるよ!」

「でも、間に合っただろ?」

 感情的になる私とは対照的に、穂高はいつも通りだ。たくさんの文句を言ってやりたいのに、それよりも先に涙が溢れる。

「ふっ……」

 泣くつもりなんてなかったのに。もしも再会したら笑顔でって決めていたのに。私の思惑も計画もまったく意味なし。

 目尻から伝う涙を自分ではどうしても止められず、手の甲で頬を擦る。次の瞬間、穂高は正面から私を力強く抱きしめた。そして真剣な声色で謝罪の言葉を口にする。

「ごめん」

 ああ、もう。結局私はこうして彼を許してしまうんだ。だって帰ってきてくれたんだから。言葉を発する代わりに彼の背中に腕を回すと、押し留めていた本音が口を衝いて出た。
「会い、たかった」

「うん、俺もだよ」

「もう、駄目かと、思った。会えない、かもしれないって」

「うん」

「でも……信じてた。ずっと、ま、待ってたんだよ」

「うん。ありがとう、ほのか」

 答える度に彼の腕に力が込められる。嗚咽混じりに訴えかける私を、穂高は余計なことはなにも言わず、ただ受け止めてくれた。

 大きな手で頭を撫でられ、私の気持ちは次第に落ち着きを取り戻していく。彼のシャツを涙で濡らしたところで軽く身動ぎし顔を上げた。

「ねぇ、穂高は――」

 続けようとした言葉は声にならない。彼が唇を重ねてきたからだ。驚きのあまり私は目も閉じられなかった。動揺するまもなく唇が離れ、穂高は至近距離で尋ねてきた。

「取っておいた言葉を今、伝えてもいいかな?」

 真面目な顔で聞かれ、私は目を大きく見開く。続けて口元を緩めて笑った。

「今、伝えなかったらいつ伝えてくれるの? 私、ずっと待ってたんだからね」

 私の切り返しに穂高も目をぱちくりとさせると、すぐに顔を綻ばせた。慈しむように頬を撫でられ、彼の唇が耳元に寄せられる。

「――――」

 言い終えると同時に、穂高は再び私を自分の腕の中に閉じ込める。私は彼の言葉をしっかりと噛みしめた。

「詳しくは話せないけれど、実験段階だった軌道エレベーターとスペースコロニーの実用化を進めているんだ。帰れないのを覚悟して何人もが先に宇宙に旅立った。それでも安全性や実用化を考えたら、確率は――」

 反射的に私は彼の唇にそっと指先を添えた。目を丸くする穂高に微笑む。続きはいらない。

「もう確率はいいよ。未来は誰にもわからないんだから」

 今この瞬間に、穂高が生きて私のそばにいるならそれだけで十分だ。彼の唇から指を離すと穂高は整った顔を歪め小声で続けた。

「本当は、俺も行くべきだった。いくつかの実験に協力したけれど、帰って来られないとわかっているからこそ、最後は俺みたいなのが宇宙に……」

 そこで風が凪いだ。波の音さえも消えて沈黙と静寂が降ってくる。ややあって口火を切ったのは穂高だ。

「でも、約束しただろ、ほのかのところに帰ってくるって。本当は俺も生きたかった。大勢のためじゃなくて、自分やほのかのために命を懸けていきたい」

 私はぐっと唇を噛みしめる。穂高の誓いにも似た決意を涙で邪魔したくなかったから。その代わり瞬きもせず彼をじっと見つめた。

「たった一人でも望んでくれるなら、生きている意味も価値もある。ほのかが気づかせてくれたから」

 それは私の台詞だ。大勢に認められなくても、なにか特別に秀でていなくても、出会えたあなたがいたから。

 穂高は相好を崩し、いつもの屈託のない笑顔を見せた。

「惹かれていったんだ。ほのかに会って、実際に話してみて、一緒に過ごすうちに。他人との関係に悩みながらも、人のことを放っておけなくて、お節介で。本当は誰よりも素直で優しいところに俺もたくさん救われた」

「惹かれたのは……救われたのは、私も同じだよ」

 涙混じりの声で返す。

 この期に及んでも、私はあなたのために生まれてきたんだって言えるほどの自信が私には持てない。こうやって私はこれからも自分の弱さに迷うし、悩むんだと思う。

 けれど、私はもう生きるのを諦めたりはしない。

 ふと視線を上に向ければ、彼の背中越しに月が見えた。青空にぽっかりと浮かぶのは、今までに見た中で一番大きく存在を主張する白い月だった。

 ああ、綺麗だな。

 歪に欠けた月を見て、初めてそんなふうに思えた。

 終わるかもしれないからじゃない。そのために私たちは再会したわけじゃない。ただ、今を一緒に生きるならあなたがいい。それだけ。

 私のわがままだってわかってる。でも彼をクドリャフカにさせるわけにはいかないの。多くの人の星にはなれなくても、私と一緒に生きてほしい。

 ごめんね、ちゃんと覚えておくから。バイバイまたね、クドリャフカ。

 大切な人の顔をひとりずつ思い浮かべ、そして今、一番大事な人がそばにいる現実を噛みしめる。

 潮風がゆるやかにそよぎ、すぐそばにある波の音がどこか遠くに聞こえる。まるで今の私の心を表すかのように穏やかだ。

 私、幸せだ。

 伝わってくる穂高の温もりに身を委ねて、私は静かに目を閉じた。

Fin.

作品を評価しよう!

ひとこと感想を投票しよう!

あなたはこの作品を・・・

と評価しました。
すべての感想数:0

この作品の感想を3つまで選択できます。

この作家の他の作品

盈月の檻―呪われた少女の秘された寵愛婚―

総文字数/29,759

あやかし・和風ファンタジー13ページ

本棚に入れる
表紙を見る
次期皇帝の臈たし偽りの華

総文字数/32,042

後宮ファンタジー9ページ

本棚に入れる
表紙を見る
仮初め後宮妃と秘された皇子

総文字数/36,632

後宮ファンタジー11ページ

本棚に入れる
表紙を見る

この作品を見ている人にオススメ

読み込み中…

この作品をシェア