「それで、クドリャフカはどうなったの?」
おそるおそる尋ねると、穂高は私の頭をよしよしと撫でた。まるで慰めるかのように。犬にするみたいに。
「最初からこの計画にクドリャフカが戻ってくる予定はなかったんだよ」
なんとなく予想はしていたもの、まさか始めからクドリャフカの運命は決まっていたなんて。まったく関係ないのに、胸が痛んで勝手に傷つく。
「幼い頃に父さんにこの話を聞いて、ものすごくショックを受けたんだ。父さんの仕事や研究に反発心も抱いた。でも人間のエゴだって責めて終わりにするのはなにか違うと思って……。クドリャフカのおかげで人類は宇宙への道を開けて、全容はまだまだでも未知なものの解明に取り組めている」
彼の好きな宇宙の話をしているのに、いつもの雰囲気は微塵もない。暗がりの中、一瞬だけ目に映った穂高の表情は、まったく知らない人みたいだった。
今日一日ずっとそばにいて、見てきたはずなのに。
「今、月の落下騒動をなんとかしようとNASAを中心に世界が必死になって動いているだろ。核兵器にミサイル。いがみ合っていた国同士が手と手を取り合って懸命に対策を練っている。でも、どれも上手くいっていない。ほのかも知っているとだろうけど……」
穂高がなにを言おうとしているのか、彼から続けられる言葉は予想できない。ところが頭の中では、なにかが警鐘を鳴らしている。これ以上、聞きたくないと叫んでいる。
「成功率が極めて低いのはわかっている。どれも実験段階で不安定だ。犠牲者だって出ている。でも月の落下を食い止めるためには誰かが命を懸けないといけないんだ。クドリャフカみたいに」
そこで彼はまたあのセリフを口にした。
「俺はクドリャフカになりたいんだ」
肌に突き刺さるほどの静寂。キーンという耳鳴りが収まらない。ここまできて、ようやく彼の意図するものがわかってきた。
「なん、で」
どれくらい時間が経ったのか。声になったのかさえ自分でも曖昧だ。穂高はあくまでも冷静だった。
「地球が助かったとしても、俺は長く生きられない。だったらこの命を地球のために懸けてもいいと思ったんだ」
「やだ」
反射的にかぶせた声に穂高は変わらない調子で続ける。
「もうずっと前から決めていたんだ。父さんと相談して、アメリカに渡る準備も整っている」
私は大きく目を見開いて固まった。それを見て穂高は笑う。困ったような、悲しそうな顔だ。
「誰にも言わないつもりだった。誰にも会わないままここから消えるつもりだった。けれどまさか、ほのかかが会いに来てくれるなんて思ってもみなかったから……嬉しかったよ」
まるで終わったかのような、思い出を語るような彼の言い草が胸に刺さる。
「やだ、やだよ。なんで? どうして穂高なの?」
病気になったことも、彼が命をかけようとしていることも。なにもかもが納得できない。真面目に自分の目標に向かって生きていた彼がなにをしたの。
理不尽な思いは散々してきた。わかっていた、この世界に平等さなんてなにひとつない。
「ごめん。でも俺はどっちみち長く生きられないなら、なにかを成し遂げたい。自分の生きた意味を残したいんだ。もし自分の命で誰かが、地球が救われるなら十分だよ」
『どうせ限られた命なら、誰かの、なにかのために役立てたいって俺は思うんだ』
彼の言葉が脳裏に過ぎる。なにげなく交わしてきた穂高とのやりとりの中、彼がどんな強い決意を抱いて言っていたのかを今になって思い知った。
『……どうだろう。でも俺はここにずっといない存在だから』
『そして人類のために大きな偉業を成し遂げるんだ』
私は息と共に言葉もぐっと飲み込む。喉の奥が詰まって苦しい。穂高はこんな苦しさをずっと抱えていたのだろうか。
学校でいる彼は、微塵もそんな様子を感じさせなかった。でもそれは彼が感じさせないようにしていただけで、私がなにも気づかなかっただけだ。
穂高は複雑そうな顔で私をじっと見つめる。そして私の反応を気にしながら再びぎこちなく抱き寄せた。
そのまま彼がベッドに体を横たわらせたので、私も一緒に倒れ込む。私はなにも言わず彼に身を委ねた。
ベッドの軋む音が静かな部屋に響くと、穂高は抱きしめる力を緩め、私の顔を確認してくる。大きな瞳がすぐそばにあり、彼の腕を枕にするかたちで私も視線を合わせた。
「泣くなよ。ほのかは笑ってたらいいんだ」
「泣かせたのは、誰よ」
極力いつも通りの口調で返した、つもりだった。けれど涙は止められず、重力に従い流れ落ちて彼の腕を濡らしていく。頬も、耳も、なにもかもが冷たい。
すると穂高は顔にかかった私の髪をそっと掻き上げ、私の目尻に唇を寄せた。驚きで瞬きさえできずに固まる。そんな私を見て穂高は笑った。
「涙が止まるおまじない」
余裕たっぷりの彼に私は眉をひそめる。いくら彼がスキンシップが日本よりも激しいアメリカ育ちとはいえ、こういう手慣れた感はどうなんだろう。
そもそもこの体勢だって……。
「会いに来たのが私じゃなくても、こんなふうにしてた?」
どうしても確かめたくなって私は尋ねた。穂高にとって、私はタイミングよく現れたただの思い出作りの存在なのかな? 私じゃなかったとしても――。
「しない。ほのかだけだよ」
額と額を合わせられ、お互いの吐息を感じるほどの距離だった。打って変わって彼の茶目っ気は鳴りを潜め、声にも表情にも真剣さだけを纏っている。
軽く音を立て額に口づけが落とされた。伝わってくる温もりに再び涙腺が緩む。力強く抱きしめられ、窒息しそうになる。溺れそう。
でも離さないでほしい。
確実に世界は終わるのに、それがいつなのかわからないのは希望を持てる半面生殺しの状態だ。もういっそ、と何度思っただろう。
だから私は、もしも世界が終わるときを選べるなら間違いなく今だと答える。
苦しいのも、悲しいのも、寂しいのも、涙を流すのも、全部私がまだ生きているからなんだ。穂高が温かいのも、力強いのも、優しいのも、全部。
何度も瞬きを繰り返すうちに急激に睡魔が襲ってくる。眠りたくないのに次第に意識が遠のいていく。
瞼が重たくて目が開けていられない。穂高は大きな手で、いつまでも私の頭を撫でてくれていた。
おそるおそる尋ねると、穂高は私の頭をよしよしと撫でた。まるで慰めるかのように。犬にするみたいに。
「最初からこの計画にクドリャフカが戻ってくる予定はなかったんだよ」
なんとなく予想はしていたもの、まさか始めからクドリャフカの運命は決まっていたなんて。まったく関係ないのに、胸が痛んで勝手に傷つく。
「幼い頃に父さんにこの話を聞いて、ものすごくショックを受けたんだ。父さんの仕事や研究に反発心も抱いた。でも人間のエゴだって責めて終わりにするのはなにか違うと思って……。クドリャフカのおかげで人類は宇宙への道を開けて、全容はまだまだでも未知なものの解明に取り組めている」
彼の好きな宇宙の話をしているのに、いつもの雰囲気は微塵もない。暗がりの中、一瞬だけ目に映った穂高の表情は、まったく知らない人みたいだった。
今日一日ずっとそばにいて、見てきたはずなのに。
「今、月の落下騒動をなんとかしようとNASAを中心に世界が必死になって動いているだろ。核兵器にミサイル。いがみ合っていた国同士が手と手を取り合って懸命に対策を練っている。でも、どれも上手くいっていない。ほのかも知っているとだろうけど……」
穂高がなにを言おうとしているのか、彼から続けられる言葉は予想できない。ところが頭の中では、なにかが警鐘を鳴らしている。これ以上、聞きたくないと叫んでいる。
「成功率が極めて低いのはわかっている。どれも実験段階で不安定だ。犠牲者だって出ている。でも月の落下を食い止めるためには誰かが命を懸けないといけないんだ。クドリャフカみたいに」
そこで彼はまたあのセリフを口にした。
「俺はクドリャフカになりたいんだ」
肌に突き刺さるほどの静寂。キーンという耳鳴りが収まらない。ここまできて、ようやく彼の意図するものがわかってきた。
「なん、で」
どれくらい時間が経ったのか。声になったのかさえ自分でも曖昧だ。穂高はあくまでも冷静だった。
「地球が助かったとしても、俺は長く生きられない。だったらこの命を地球のために懸けてもいいと思ったんだ」
「やだ」
反射的にかぶせた声に穂高は変わらない調子で続ける。
「もうずっと前から決めていたんだ。父さんと相談して、アメリカに渡る準備も整っている」
私は大きく目を見開いて固まった。それを見て穂高は笑う。困ったような、悲しそうな顔だ。
「誰にも言わないつもりだった。誰にも会わないままここから消えるつもりだった。けれどまさか、ほのかかが会いに来てくれるなんて思ってもみなかったから……嬉しかったよ」
まるで終わったかのような、思い出を語るような彼の言い草が胸に刺さる。
「やだ、やだよ。なんで? どうして穂高なの?」
病気になったことも、彼が命をかけようとしていることも。なにもかもが納得できない。真面目に自分の目標に向かって生きていた彼がなにをしたの。
理不尽な思いは散々してきた。わかっていた、この世界に平等さなんてなにひとつない。
「ごめん。でも俺はどっちみち長く生きられないなら、なにかを成し遂げたい。自分の生きた意味を残したいんだ。もし自分の命で誰かが、地球が救われるなら十分だよ」
『どうせ限られた命なら、誰かの、なにかのために役立てたいって俺は思うんだ』
彼の言葉が脳裏に過ぎる。なにげなく交わしてきた穂高とのやりとりの中、彼がどんな強い決意を抱いて言っていたのかを今になって思い知った。
『……どうだろう。でも俺はここにずっといない存在だから』
『そして人類のために大きな偉業を成し遂げるんだ』
私は息と共に言葉もぐっと飲み込む。喉の奥が詰まって苦しい。穂高はこんな苦しさをずっと抱えていたのだろうか。
学校でいる彼は、微塵もそんな様子を感じさせなかった。でもそれは彼が感じさせないようにしていただけで、私がなにも気づかなかっただけだ。
穂高は複雑そうな顔で私をじっと見つめる。そして私の反応を気にしながら再びぎこちなく抱き寄せた。
そのまま彼がベッドに体を横たわらせたので、私も一緒に倒れ込む。私はなにも言わず彼に身を委ねた。
ベッドの軋む音が静かな部屋に響くと、穂高は抱きしめる力を緩め、私の顔を確認してくる。大きな瞳がすぐそばにあり、彼の腕を枕にするかたちで私も視線を合わせた。
「泣くなよ。ほのかは笑ってたらいいんだ」
「泣かせたのは、誰よ」
極力いつも通りの口調で返した、つもりだった。けれど涙は止められず、重力に従い流れ落ちて彼の腕を濡らしていく。頬も、耳も、なにもかもが冷たい。
すると穂高は顔にかかった私の髪をそっと掻き上げ、私の目尻に唇を寄せた。驚きで瞬きさえできずに固まる。そんな私を見て穂高は笑った。
「涙が止まるおまじない」
余裕たっぷりの彼に私は眉をひそめる。いくら彼がスキンシップが日本よりも激しいアメリカ育ちとはいえ、こういう手慣れた感はどうなんだろう。
そもそもこの体勢だって……。
「会いに来たのが私じゃなくても、こんなふうにしてた?」
どうしても確かめたくなって私は尋ねた。穂高にとって、私はタイミングよく現れたただの思い出作りの存在なのかな? 私じゃなかったとしても――。
「しない。ほのかだけだよ」
額と額を合わせられ、お互いの吐息を感じるほどの距離だった。打って変わって彼の茶目っ気は鳴りを潜め、声にも表情にも真剣さだけを纏っている。
軽く音を立て額に口づけが落とされた。伝わってくる温もりに再び涙腺が緩む。力強く抱きしめられ、窒息しそうになる。溺れそう。
でも離さないでほしい。
確実に世界は終わるのに、それがいつなのかわからないのは希望を持てる半面生殺しの状態だ。もういっそ、と何度思っただろう。
だから私は、もしも世界が終わるときを選べるなら間違いなく今だと答える。
苦しいのも、悲しいのも、寂しいのも、涙を流すのも、全部私がまだ生きているからなんだ。穂高が温かいのも、力強いのも、優しいのも、全部。
何度も瞬きを繰り返すうちに急激に睡魔が襲ってくる。眠りたくないのに次第に意識が遠のいていく。
瞼が重たくて目が開けていられない。穂高は大きな手で、いつまでも私の頭を撫でてくれていた。